第6話 不穏の山道
赤子をとある一軒の家に託した
「一体、これはどういうことじゃ⁉︎」
領主の息子に嫁がせた娘のみやが女房のかやの寝床から振り返って叫びました。急ぎ土間から上がり、千丸はかやを見て愕然としました。
腰のあたりまでめくられた上掛けの中で、かやの胸はあらわにはだけられ、噛みちぎられた乳首から乳房が半分ぐらいまで赤くただれていました。乳房の先は赤黒く血が固まって新たな乳首ができているかのように丸いものがくっついています。
「こんななっとるに・・・どこ行っとったんじゃ、おとう!」 みやが泣き叫びます。
かやは高熱にうかされ、汗みずくになって胸でハアハアと大きな息をするばかりで、みやがそばにいるのもわからないようです。あの薬草のぬり薬が悪かったとでも言うのでしょうか?
「と・・・とにかく医者じゃ!」
千丸は両足をガタガタと震わせると、何の事情を話すこともできず、ただあわてて家を飛び出して行きました。
千丸はとにかく前に世話になったことのある医者の家へと向かっていました。千丸が知っているのはその医者だけです。みやが岩場で滑って足をくじいた時に、たまたま呼ばれて村へ往診に来ていたその医者が「どれどれ、折れとったら大ごとじゃ、
「医者は医者じゃ」
千丸は色々な思いが頭に渦巻きながらも、遠い道のりを急ぎました。
名前を変え、京から流れてきて、この場所に掘立て小屋の残骸を見つけて住みつき、生計のために、途中、寺社などから同情と慈善でもらい受けた薬草や薬類を元手に「わしは医術を心得るもんじゃ。具合の悪いもんはおらんか」とあちこちの村で叫んでまわりました。貴族でも代々医術を修めてきた家系で育ち、一時は太宰府へと留学して異国の医術なども学び、帰国して宮中に出仕するとすぐに医師となった弦庵は、悲田院や施薬院に派遣されて貧しいものたちの病苦の世話はしてきましたが、京を追われて初めて京から遠い村々の中の庶民の生活というものを目にしたのです。まともに食べることもできず、竪穴にこもるような暮らしは病人だらけでした。それでも最初は怪しまれましたが、一人、二人と治していくうちに、村人からそれなりに慕われるようになり、貧しい中からも何やかやと世話を焼いてもらえるようになりました。それが謝礼の代わりでした。やがてその地の裕福な者たちや領主の一族たちにも伝わり、金持ちの患者も増えていき・・・謝礼も本物の謝礼になっていきました。それを丸々受け取りながらも、領主は民の生活を何と心得とるのか、と弦庵は腹を立てていました。が、今の自分はそんなことにどうこう言える立場ではないのです。
今では掘立て小屋も建て替えられ、医者らしい門構えのある一軒の
そして当の弦庵自身は、今の往診三昧の生活の方が京の医師よりも自分に合っている、と、毎日を楽しんでいました。
その、弦庵の家にたどり着きました。千丸は門の外で何度か大声で呼びましたが、邸はしんとしており、留守のようです。大体、弟子も取らず使用人も置かず、一人暮らしを徹底しているのですから、もともと変人に思われている医者でした。千丸はとりあえず一番近い村まで行ってみることにしました。それしかありません。そこにいなければ、もう当てはないのでおしまいです。
弦庵はやはりその村に往診中でした。呼んだ者の他に、うちもうちもという家々をまわっているようです。
千丸はとりあえず最初に行き会った家に声をかけて医者の居所を教えてもらうと、その家へ向かいました。
弦庵はグジグジとぐずる子供の腹いたの見立て中でした。
「待たれいや、もう一軒あるでな」
戸口で、山向こうの村のもんじゃが、ケガ人じゃ、急ぎ来てほしい、という男の声かけに、弦庵は振り向きもせずに言いました。
弦庵はそばで見守る子供の親に薬箱から薬包紙に包まれた薬を処方すると「お大事にな」と言って道具の包みを抱えて家から出てきました。そのままスタコラと次の家へ向かいます。千丸はなす術もなく後を追いかけました。
「今日もバタバタしちょるわい。近いのんをええことに、ちっとのことでもしょっちゅう呼びつけおる」
弦庵は男がついて来るのを知ってか知らずか、十分大きな声でぶつくさと文句を言います。
弦庵が目的の家へ入ると、千丸はその前の道で待ちました。
赤子を置いたあと、あまり離れてもいない場所で夜を過ごし、明るくなる前から歩き通して家に戻り、飲まず食わずで今またここまで来た・・・もう日は傾いています。が、千丸にまだ疲れを感じる余裕はありませんでした。
ほどなく「お大事にな」と言いながら弦庵が出てきました。戸を閉めてから「ただの気の迷いじゃわい」とつぶやいて向き直ると、男と目が合い、「おお・・・おったのう」 思い出したかのように言いました。
ふたりして早速歩き出しながら、
「さて、どんな具合なんかのう?」 弦庵が改まったように聞きます。
「わしの女房じゃが・・・乳首を噛みちぎられた」
「なんと!」 弦庵は目を丸くしました。「間男か?」 無遠慮に聞いてきます。
「違う!」 千丸はあわてました。「赤子じゃ!」
「赤子とな?」 弦庵は聞き返しました。珍しい話ではあります。
「山で捨て子を見つけたで・・・乳飲み子かどうかわからんかったから、家でまずさ湯をやろうとしたら、いきなり赤子が乳首に食らいついたんじゃ。女房もとっくに乳なんか出る年でない。出んから赤子が怒って食いちぎりよったんじゃ」
「えらい力じゃのう・・・いつのことじゃ?」 まだ半信半疑のようです。
「きのうじゃ」
「で、何か手当てはしたんか?」
「とにかく血だけでも止めなと思うて、村の
「・・・何をぬったんじゃ?」
弦庵は一瞬緊張しました。が、ちょうど自分の家に差しかかったので、「ちと待たれいや」と言い残して家に入りました。薬箱の中身を補充し、予想される往診道具を確認すると、松明の用意をして出てきました。到着は日が暮れてからになりそうだからです。当然のように松明の棒と火打ちの道具の入った箱を持たされた千丸は、
「なんか・・・緑っぽい、薬草のぬり薬じゃ。二、三年前じゃが、娘が足くじいたときにいっぺん先生に診てもろうたで、そん時にわしが先生を送って行って帰ってきたあと、村の長から分けてもろうたんじゃ」と答えました。
「二、三年前じゃと?」 弦庵はしげしげと男の顔を見ました。思い出したようです。
「あん時は、長のおかみさんが間違うて包丁で手をざっくりとやってしもうてな。そんで長から呼ばれたんじゃが・・・はて、確か長には傷薬を一つ渡しただけのはずじゃが・・・? まさかその薬か?」
弦庵には道々聞いただけではまだ予測すらつきませんでした。とにかく男がつけたと言う薬を確かめないことにはどうにもなりません。
「燈台は余分にあるか?」 弦庵は男に尋ねました。まだ男の名前までは思い出せていません。「日が暮れてからの見立てはなかなか辛いもんがあるでのう」
「器は何なとあろうが・・・油がのう・・・足るだけあろうかのう・・・」 不安げに千丸は答えました。
あとは二人とも押し黙って、ただ暗くなっていく山道をできるだけ松明には頼るまいと、はあはあと荒い息だけをあたりに響かせながら道を急ぎました。
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