第4話 地上の里
男の名は『
千丸はとりあえず自分の家に赤ん坊を連れ帰りました。『かや』という女房がいますが乳飲み子がいるわけではないので、この子に乳をやることはできません。赤子にしては少し大きいが、この子がまだ乳離れをしていないとして、です。村の乳飲み子を抱える家に相談するとしても、その前にまず体をきれいにしてもっと温めて、気をつかせてやらねばなるまい、と考えました。死人のような子を渡すわけにもいかないのです。
「おーい、捨て子じゃ」
千丸は家の引き戸を開けるなり、中に叫びました。
「捨て子って」
かやは言いながら土間に降りて駆け寄ってきました。千丸の腕の中の薄汚れた赤子を見ると、「何とまあ・・・湯に入れてやらにゃならんが、湯冷ましだけでもまずは含ましてやらにゃなるまいな」
「おう、とにかく湯を沸かせいや」
半年ほど前に、このあたりを仕切る荘園領主の四男坊に一人娘を見初められ、四男坊には大甘な領主によって半ば強奪するように嫁がせられていました。上の息子たちが家を安泰に守っているので、歳が離れて、しかも腹違いでおまけのように生まれてしまった四男坊はほとんど放任されて母親のもとで勝手に育ったようなものでした。しかし、庶民に婿入りするなど家名としては許されるものではありません。そこで、四男坊は家を出て二人だけで暮らしたいと親を説き伏せて新居を構え、村人たちと同じように野良仕事を始めたのです。勘当して家名から外したという形になりました。領主にとっては、実は一番かわいい息子でした。だから政治のゴタゴタに巻き込ませることなく、何でも望み通りにしてやったのです。
娘の『みや』にしてみれば遠い土地でした。四男坊は『
四男坊は四男坊で、兄たちの生き方を見てそんなふうに考えており、そんな時に出会ったその娘に『恋』以上の、そんな生活から逃れる機会だ、という思いを持ったのです。
始めはあまりの身分違いに萎縮していた娘でしたが、懸命にその日その日を働いて、庶民の一人に溶け込んだような、優しく包んでくれるようなその姿に、添うてもいいと本気で思うようになり、またしても四男坊の要請によって、親である千丸の家にもそれなりの手当てが来るようになりました。それで他の村人たちのような苦しい暮らしからは幾分、逃れていたのです。しかし、いい暮らしをさせてもらっているとは言え、娘のいない寂しさはまだ癒えてはいませんでした。
そして突然その穴を埋めるかのように久しぶりの事態が降って湧いたのですから、ふたりは一気に昔に戻ったような高揚した気分になっていました。
カマドで湯を沸かすのももどかしげにタライに湯を満たし、意識のない赤ん坊に、浸した手拭いでゆるゆると体を拭い、ほつれ泥まみれの髪を手で洗い梳きとかし、ゆっくりと湯浴みさせました。
「こないに痩せてしもうてのう。長いことほられてたんかのう」
かやは涙ぐみながら赤ん坊のこけた頬や額を手で何度も拭いました。
やがて赤ん坊の頬に少しずつ赤みが差し、手足をぎこちなく動かし始めました。ふたりは顔を見合わせ、互いにほっと息をつきました。
湯浴みを終えると、かやは自分の洗い替えの小袖でたっぷりと赤ん坊をくるみ、片手に抱いて湯冷しに置いておいた茶碗から匙で湯をすくい取って赤ん坊の口を潤しました。
まだ目は閉じたままながら赤ん坊は気がついたかのように、二杯目の匙の湯に口を開けました・・・
・・・違う! これじゃない! こんなんじゃないの!
赤ん坊は口の中でぴちゃぴちゃと水をなめ下すと、突然、カッと両目を見開きました。目の前に求める『もの』が・・・!
それは一瞬の出来事でした。赤ん坊は目の前のふくらみを包む布を両手で一気に押し広げると、現れた乳首に食らいつきました。
「ぎゃあ!」
かやは思いもしない赤ん坊の突然変異に悲鳴を上げ、赤ん坊を引き離そうとしました。出ることのない乳を求めて赤ん坊は凶暴なまでに歯茎を食いしばってきます。
赤子のために何か用意できるものはないかと土間を物色していた千丸は土間から飛び上がってきました。
「何するんじゃ!」
乳首に吸いつく赤ん坊の口元から血がしたたっているのを見て、千丸は赤ん坊のあごをつかみ、その口の中に指を差し込もうとしました。が、赤ん坊は食いしばるばかりです。
「放せ、この・・・」 千丸の指が入るのを拒絶するかのように赤ん坊は執拗に・・・
突然、赤ん坊があきらめたようにぱっと口を開けました。瞬間的に指が口の中に入り、同時にかやが必死で引きはがそうともがく勢いで赤ん坊を床に投げ出しました。「うぎゃ!」赤ん坊は泣き叫びながら床をころがっていきました。
千丸の指先に乳首の先が残されています。千丸はただ呆然とそれを見つめました。
かやは胸を押さえてうめきながら床にうずくまっています。二つに折った体の膝のあたりが血で染まっていきます。
赤ん坊のどこにそんな力が残っていたのか、激しく泣きじゃくりながら腹這いに身を起こして血の混じったよだれを垂らし、乳の出ないかやを恨めしげににらんでいます。
「こいつぁ・・・鬼っ子か・・・ほんに、鬼が出たんか・・・」
千丸は、はあはあと肩で息をしながらつぶやきました。もう赤子のことなどかまっていられません。聞いたこともないようなこんな傷、どうすればいいのか。大きなケガを診られる医者など近くにはいません。隣村あたりまでようよう歩かないと医者らしい医者もいないのです。
千丸は指についている乳首の切れ端を布きれで包むと、女房を抱き起こし、傷を見ました。手拭いを幾重にも折って傷口を押さえさせると、前に村の
かやは薬をつけられて一瞬顔を引きつらせましたが、千丸は自分にできる限りの手当てを終えると、寝間を敷き、汚れた小袖を着替えさせて痛みと赤子に襲われた衝撃とで震え、嗚咽するかやを休ませました。
千丸は赤ん坊がまだ泣き続けているのに気がつきました。もう、鬼っ子にしか見えませんでした。本当に鬼っ子なら誰にも知られずに退治した方がいいのかも知れません。しかし、もしかしたらただ乳がほしいだけの、ちょっと力の強い赤子なだけかも知れないのです。どちらにしろ、こんな目に会わせる赤子を村の誰かに頼むこともできない―――。
生かすも殺すも・・・
千丸は自分が決めたくはありませんでした。赤子がまた何かしでかさないかと、こわごわ、かやが着せた小袖のまま抱き上げました。別に鬼のような顔をしているわけではありません。痩せこけてはいますが泣き顔だけならどこにでもいそうな女の赤子なのです。鬼っ子じゃと思いながら後ろめたい気持ちも湧いてきそうになりますが・・・背負いカゴの置いてある所まで行くと、またカゴの中に入れました。赤子は泣きじゃくるだけで嫌がりもしません。
女房の方を振り返り、少し落ち着いているのを見ると、
「置いてくるしかなかろ。どっか、うまくやってくれるとこに」
そう声をかけました。胸を押さえて向こう向きに丸まっているかやは、枕の上で何度か頭をうなづかせました。
できるなら知り合いのいるような村は避けたい。黙って置いてくる、にしても。
千丸はそう思いながら、できるだけ遠くへ、行ったことのない村へ、と山を越えて行きました。といっても探している間に死なれてしまっても後味は良くないでしょう。そんなに都合良く人家がひょっこり現れるとも思えませんが。
歩いていると、何だか急にふわっと体が浮いたような気がしました。思わず知らず急ぎ足になって無意識に走り出したのかと思い・・・一瞬のことです。千丸はびっくりして立ち止まり、足元や前後を見まわしましたが・・・別に何事もないようです。地面が揺れたような感じもします。
地震か・・・?
気の迷いか、とも思い直し、千丸はまた歩を進めます。あたりの景色が少しばかり変化していることには気がつきませんでした。
すっかりおとなしくなった赤子の息遣いを確かめ確かめ、険しい山をようようひと山、ふた山と越えたところで日が暮れ、これ以上山道は進めないと思えました。気が立っていたので明かりの用意もしていません。千丸は平地に入っていくと思える道をとりました。確かに来たことのない道です。が、平地であれば住む者もいるかも知れません。
月明かりが道を照らす頃、遠くの闇を透かしつつ歩いていた道の先にぼんやりと薄暗い明かりのもれている家があるのを見つけました。千丸は考えることもなく小走りにそこに近寄っていきました。
聞こえます。かすかにながら、赤子の泣き声が。確かにその家から聞こえています。
・・・乳飲み子がおるな・・・?
千丸はそうであることを願って戸口の前にまで近づくと、背負いカゴをその場に降ろしました。乳さえもらえるなら、この子も無体なことはすまい。
千丸は最初に行き当たった家に託せることの幸運と、置き去りにすることの心苦しさに合掌すると赤子を抱き上げ、戸口の脇に立てかけてある大きめのザルを音を立てないようにそっと置いて、その中に赤ん坊を寝かせました。赤ん坊は眠っているのか、意識を失っているのか、もうわかりませんでした。青白い月の光の中で、見ると痩せていたはずの赤子の頬が妙に膨れ上がっています。
千丸がしばらくその家の板張りの隙間を覗くように薄暗い光を見つめているうちに、中の赤子の泣き声は止みました。確かに「よしよし」などと世話をする人の気配も感じます。
千丸は意を決して戸口の桟をつかみ、ガタガタと揺すりました。朝まで気がつかないというのでは困ります。そしてカゴを抱えると一目散に身を翻して闇の中に姿を紛らわせました。
「誰じゃ?」
案の定、戸口が開いて僅かな火の灯る器を手に家の
「何じゃとお⁉︎」
主は驚いた声を上げると、家の中に向かって叫びました。
「おーい、捨て子じゃ」
「捨て子って⁉︎」
中から女房らしい声が聞こえました。女房がもう一つの灯りを手に姿を現すと、主に灯りを手渡し、ザルから赤ん坊を抱き上げるのが見えました。
主は外に向かって両手で二つの灯りを高く上げ、あたりを右に左にかざしました。月の明かりに浮かび出る黒々とした木々の陰影に目を凝らします。
「一体、どうやって来たんじゃ? 何でここに置いて行くんじゃ」 女房も信じられないと言うようにあたりをすかし見ています。この村の中で捨て子などあり得ないことなのです。
「誰かおるんか? おるなら訳も聞こうぞ!」 主が呼びかけます。女房は家の中に姿を消しました。
何だか既視感に苛まれながらも気を張り詰めていた千丸は、さらに身をこわばらせて木の陰に縮こまりました。
「そんなんより、明かり早う戻して。暗うてなんもできんがや」
家の暗がりの中に消えた女房の声が呼びかけています。
主は外の何者かに心を残すように闇の奧を見つめると、家の中に姿を消しました。
千丸は大きく息をつくと、来た道を戻り始めました。月明かりだけでは頼りなく、山道に戻る前にどこかで夜を明かさねばなりませんが・・・。
千丸は人に出くわさないことを願いつつ、道を急ぎました。女房のことも気がかりです。家に誰か訪ねてきても今の状態ではうまく訳など話せないでしょう。
・・・二度も捨てられた・・・
ふと、千丸の脳裏にそんな言葉が流れていきました。
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