未亡人と吸殻

あべせい

未亡人と吸殻



 箒で道路を掃いている中年の及多が、そばを通り過ぎた青い作業衣姿の若い男性を呼びとめる。

「あなた」

「ぼく、ですか?」

「いま、煙草の吸殻を捨てたでしょう」

「それが、どうかしましたか……」

「どうかしましたか、じゃないだろう。それに、その煙草の吸殻、まだ、火がついているゾ」

「これは、失礼しました」

 男性はそう言うと、吸殻を地面にこすりつけて火を消し、行きかける。

「待ちなさい」

「まだ、何か」

「私は毎朝、こうして家の前を掃除しているが、いつも煙草の吸殻が落ちている。しかも、時々火がついたままのことがある」

「すいません。これから、充分気をつけます」

「キミ、煙草の火が何度あるか、知っているか」

「いいえ。180度くらいですか」

「それはトンカツを揚げる温度だ。煙草の火は800度ある」

「へえーッ」

「こどもでも大人でも大火傷する温度だ。そして、煙草の火の不始末は、放火に次いで、火災原因の2番目。キミの煙草は、これだけの災難を引き起こす恐れのある危険な代物なンだ」

「知らなかった。姉さんにも、教えてやらなきゃ」

 行きかけると、

「待ちなさい」

「まだ、あるンですか」

「キミは、いま捨てた吸殻を拾っていかないのか」

「ぼくが拾うンですか。拾うのは、オジさんじゃ……」

「ここ、ここ、わかる? このアスファルトが剥がれた、拳くらいの大きさの、このくぼみ。キミは、いつも、この穴ぼこを狙って、吸殻を捨てていくね」

「今朝のはぼくが捨てたとしても、昨日のはぼくじゃない」

「どうしてだ。同じ緑色のフィルターだ」

「同じ煙草を吸っている人は多いです。人気の銘柄ですから」

「フィルターの根元まで吸って、捨てるとき、フィルターをこんな風にいつも捻じ曲げてある。こんなケチくさい吸い方をするのが、ほかにいるか」

「おられるンでしょう。ぼくと似た人が。すいません。ぼく、用事がありますので、失礼します」

 行こうとする。

「キミね、ここにある灰皿に気が付かないかな。花壇のブロックの上に置いてある空き缶だけどね」

 直径15センチ、高さ20センチほどの丸い空き缶を示す。

「それ、有料でしょ。ヘタな字で『有料灰皿』と書いてあります」

「わずか10円だ。煙草の吸殻を捨てるのに、たった10円で、人から喜ばれる」

 及多は、灰皿代わりの大きな空き缶の横にある、直径5センチ、高さ10センチほど小さな缶を示す。

「どうだね。この空き缶に10円入れなさい。不思議と気分がすっきりするから」

「この煙草1本、40円ほどです。それに10円を足すと、1本50円の煙草になります。例え10円でも、だれも入れないでしょう」

「あんた、有料トイレを使ったことがないのか。あれは、トイレをきれいに使ってもらうために有料にしている。お金をとることが本来の目的じゃない。この有料灰皿も同じだ」

「こんなところでグズグズしていると、姉貴に叱られる。考えておきます」

 男性が立ち去ろうとすると、

「オイ、逃げるのか!」

「用事があるンです。掃除するだけで毎日生活できるほど、恵まれてはいないンです」

 走り去った。

「待てーッ! こんどここを通るときは、気をつけろ! ああいうやつがいるから、街が汚れるンだ」

 料金入れの空き缶を持ち上げ、

「空はまずい。10円玉3個くらい入れておくか」

 ポケットから10円玉を取り出して入れようとする。

「また、来た」

 スーツ姿の男性が煙草を吸いながら、通りかかる。

「おはようございます」

「これは、おはようございます」

 挨拶をするとは珍しいやつだ。何か、企んでいるな、と及多。

「もしもし、あなた」

「私ですか?」

「失礼ですが、煙草は何をお吸いですか?」

「これ、ですが……」

「フィルターが緑色ですね」

「そうみたいです」

「国内で販売されている煙草の中で、フィルターが緑色のものは一つしかない」

「あなた、詳しいですね。煙草屋の方ですか?」

「これくらい、調べればだれでもわかる。これが、フィルターが緑色の煙草の残骸だ」

 そう言って、ポケットからポリ袋に詰められた、拳大ほどの吸殻の固まりを取り出す。

「あなた、いま煙草を吸っておられるが、吸い終わったあと、吸殻をどうするおつもりですか」

「捨てます」

「捨てる! どこにです」

「もちろん、あちこちですが」

「あちこちって、道に捨てるということか!」

「あなた、『吸殻オジサン』ですか」

「吸殻オジサン!?」

「この辺りじゃ、評判ですよ。煙草の吸殻を集めているって」

「私は、好きで煙草の吸殻を集めているわけじゃない。拾って道路をきれいにしているだけだ」

「私は、ここで吸殻を捨てたことは一度もありません」

「間違いないか」

「私は毎朝家の玄関で煙草に火をつけ、吸いながら駅まで歩いていきます。あなたの家の前を通るときは、まだこのように、半分ほどしか吸っていない。だから、吸殻を捨てるのは、もう少し先になります」

「すると、1ヵ月ほど前、バス停の前に出来た、あの煙草屋の前あたりだな」

「よくわかりますね。いつもあの煙草屋の前あたりで、携帯している灰皿の中に捨てます」

「あんた! 携帯灰皿を持ち歩いているのか。ひとは見かけによらんとはこのことだ」

「吸殻を携帯灰皿に入れたあとは、ついでに煙草屋で煙草を買います。あの煙草屋の奥さん、色っぽいから」

「あんた、あのひとが未亡人と知って、狙っているのか!」

「まだ30代前半くらいなのに。あの奥さん、未亡人なンですか。もっと通わなくちゃ」

 及多、余計なことを言ったようだ。これで敵が一人ふえてしまった、と考える。

「未亡人というのは、単なる噂だ。信じないほうがいい。ところで、煙草屋の前には、ここより立派な灰皿があるだろう」

「それが、2、3日前から、見えないンです。だから、私は携帯の灰皿を持ち歩くようになったンです。あの煙草屋を利用する者の間では、盗まれたと、もっぱらの噂です」

「盗まれた!?」

「その犯人の噂もあります」

「だれだ、そのセコイ犯人は」

 すると男性は、無言で及多を指差す。

「きさまだな、そんな根も葉もない噂を流すのは」

「私じゃありません。こちらの有料灰皿を使わせようとして、煙草屋の前から灰皿を持ち去ったのだろう、って。昨日耳にした噂ですが……」

「あの奥さんもそのセコイ噂を知っているのか」

「もちろん、煙草屋の灰皿は、バス停に並ぶ人も利用していましたから。愛煙家はとても困っています。隠したのなら、早く出してください」

「バカ野郎! おれがそんなセコイことをする人間に見えるか」

「奥さんは、『見える』って言っていたな」

「なにッ! よし、これから直接、話をしてくる」

 煙草屋の店先。

 及多がスーツに着替えて現れる。

「ごめんください」

「はーい」

 奥から、割烹着姿のまだ若く、美しい未亡人・味雨(みう)が現れ、煙草の陳列ケースの前に腰を下ろす。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

「奥さん、私です、及多です」

「あらッ、及多さん……お出かけですか?」

「奥さん、ここにあった灰皿がなくなったとお聞きしましたが」

「あァ、そこに置いてあった縦長の灰皿ですね。あれは、通行する方の邪魔になるからと交番の方に注意されましたので」

「交番のお巡りですか」

「その交差点脇の交番におられる若いお巡りさんです」

「そうだったンですか」

 及多、また一人、敵がふえたってことかとつぶやく。

「奥さん、噂では……いいえ、いいンです、それなら。失礼します」

 帰ろうとすると、

「あのォ……」

「はい」

「煙草はよろしいンですか?」

「私、煙草をやめているンです」

「そうでしたか。だから、煙草の吸殻にご立腹なンですね」

「いいえ、禁煙は亡くなった女房の遺言なンです。3年間だけ、禁煙して欲しいって」

「3年間だけ、ですか?」

「もうすぐ、その3年になります」

「3年たてば、また喫煙なさいます?」

「ウーム……しかし、煙草の吸殻の投げ捨ては許せない。元愛煙家としても、です」

「私が煙草屋を始めたのは、亡くなった夫の遺言です。外に出ずに生活ができるようにと。亡くなる前に、夫が全て知人に頼んで手続きをしてくれました」

「そうでしたか。いまはどこのコンビニでも煙草を売る時代ですから、たいへんでしょう」

「なんとかやっています。失礼ですが、及多さん、お仕事は?」

「私は、区の保健所に勤めています」

「お役人ですか。保健所ですと、煙草の健康被害について住民にお知らせするお仕事も含まれますね」

「はい」

「禁煙は、3年が過ぎても続けられるのですか」

「3年禁煙して感じていることですが、正直言いますと、いまは煙草を吸う気持ちが起きなくなっています。女房が3年といった意味がようやくわかりました」

「石の上にも3年、ですか。奥さまは利口な方だったンですね」

「失礼」

 男性が脇から、及多の前に現れる。

「いらっしゃいませ」

 さきほどのスーツの男性だ。及多、一歩、下がる。

「味雨さん、いつもの」

「ありがとうございます」

 味雨、外国産の煙草2箱を差し出す。

「味雨さん、ここに煙草の灰皿があると困るヤツがいるらしいから、気をつけてください」

「はい」

「オイ、おまえ!」

 スーツの男性が振り返る。

「なんでしょうか?」

「私がこちらにあった灰皿をどうかしたような口ぶりだな」

「そう聞こえたら、そうでしょう」

「なに!」

「及多さん、ここでケンカは困ります」

「そうだよ。あんたは家の前で、チンタラチンタラ煙草の吸殻を拾っていたら、いいんだ」

「蛇川さんも、いい加減にしてください」

 蛇川、首をすくめる。

「でも、味雨さん。ここに灰皿がないのは、私のような愛煙家にはとっても困るンです。かといって、路上に捨てるわけにもいかない。この辺りでも、近く歩行喫煙が禁止になる条例ができるそうです」

「いま議会で審議しているが、全会一致で決まるだろう」

「及多さん、本当ですか、そのお話」

 味雨、眉をくもらせる。

「奥さん、時代の流れです。煙草はコロンブスが世界に広めた悪徳の最たるものです」

「悪徳!? 煙草が悪徳か。オイ、あんた、煙草産業を愚弄するつもりか。おれは、そこから給与をもらっているンだ」

「蛇川さんは、煙草会社の方だったンですか」

「私は販売店の担当ではありません。商品開発です」

「及多さん、その禁煙条例ができましたら、煙草はますます売れなくなりますね」

「そうですね。その分、路上から吸殻が少しは減るでしょうが」

「私、煙草屋をたたもうかしら」

「待ってください、味雨さん。ここから煙草屋がなくなったら、どこで煙草を買えばいいンですか」

「そんな問題じゃないだろうが」

「この先、煙草屋は続けていくのは難しいと思っていたところです」

「奥さん、煙草屋をやめて、どうなさるンですか」

「決めていませんが、煙草に代わる商品を並べて、これまで通り商売ができればと考えています」

「煙草に代わる商品ね……。オイ、煙草会社の人間、あんたの会社に何か適当なのはないのか」

「いま考えているところだ。うちは、使った後、灰になるものや、煙になって消えるものが中心だから」

「灰や煙になるものといったら、花火じゃないか」

「花火は扱ってないです」

「花火は夏のものでしょう。冬は……」

 そのとき、煙草屋の奥から、さきほどの作業衣姿の若い男がぶらりと現れる。

 及多、彼を見て、

「アッ、キミ!」

 及多の胸中、敵がどんどんふえる

 若い男、味雨に、

「心配ないよ。姉さん」

 及多、びっくりして、

「姉さん!? キミは、ここのひとか」

「ぼくですか? ここには住んでいませんが、きょうは姉に頼まれ、水道の蛇口の水漏れを見に来たンです」

「そうか。水! 水がいい」

「エッ!?」

「水です。水を売ればいいンです」

 すると、味雨の弟が、

「ぼくは、水道局の人間です。水は蛇口から出る水道を利用してください。安心安全なンだから」

 及多、かまわずに、

「奥さん、世界中から、いろんな水を集めてきて、水の専門店にするンです。日本にいて、カナダの水、アルプスの水、南極の水なんかが飲めたら、楽しいじゃないですか」

「それ、いいな。こんどの会議で提案してみるか」

「オイ、キミ。煙草会社が水を扱おうというのか」

「いけませんか。ペットボトルに詰めて、売ればいい」

「ぼくは反対です、水道局の人間として。みなさん、地域の水を利用してください。地産地消です」

「わたし、煙草屋さんから、水屋さんに転業するンですね。いいかも」

「姉さん! ぼくは亡くなった義兄さんがヘビースモーカーで、火事が心配だったから、火事に必要な水に関心が起きて、水道局に勤務することにしたンです」

「だから、あの人も、煙草にかかわりの深い水の商いなら、喜んで賛成してくれると思う」

 及多が、味雨を見つめて、

「奥さん、水は煙草と違って商品が重いですから、私がお手伝います。手伝わせてください」

「オジさん。吸殻オジサンが水を運ぶっていうンですか」

「煙草の火を消すのに、水はいちばん便利だ。これからは、有料灰皿の横にも、水を置こう。そうすれば、煙草の火を完全に安全に消すことができる」

「味雨さん、すぐには間に合わないかも知れませんが、水の仕入れはうちの煙草会社からお願いします。世界各地からおいしい水を取り寄せます」

「その節はよろしくお願いします」

 及多、蛇川に負けまいとして、

「奥さん、ダメです。煙草会社が間に入ったら、マージンばかり取られて利益がでません。私が個人輸入してさしあげます」

「個人輸入は限界がある」

「しかし、煙草会社に頼むと、この店にしかない水というのは扱えない。キミの会社は、あちこちに水を卸すつもりだろう。そうしたら、奥さんの店の希少価値が下がる」

「もしもし」

「エッ」

 3人の男が振り返ると、交番の若いお巡りが立っている。

「こんなところに立っておられると、通行の邪魔になります。バス停が目の前です。煙草を買ったら、すぐに立ち去っていただけませんか」

 味雨、警官に会釈して、

「ごめんなさい、管さん。いつもパトロールありがとうございます」

 及多、味雨の表情に首をかしげる。

 蛇川は気づかず、

「お巡りさん、いま、大事な話をしているンだ」

「大事な話?」

「管さん、この煙草屋が水屋になるかもしれないンです。賛成していただけますか」

「水ですか」

「みなさんが、煙草より、水の入ったペットボトルを売ったほうがいい、っておっしゃって……。わたし、迷っているンです。管さんなら、正しい判断がおできになるンじゃないですか」

 及多、驚きながら、

「奥さん、どういうことですか? この若い警察官に相談なさる、って」

「このひと、亡くなった主人に瓜二つなンです」

 味雨の弟、「ちょっと」と、及多と蛇川を脇に手招きする。

「あなた方が、姉にどういうお気持ちかは知りませんが、姉は義兄が亡くなってから、おかしいンです」

「おかしい?」

「姉は、義兄が大好きで、亡くなって7年になりますが、いまだ忘れることができずにいます。この煙草屋を開いたのも、自分も煙草を吸うこともありますが、お客さんの中に、いつか義兄にそっくりのひとが来ないかと。それが楽しみで始めたのです」

「煙草屋の開業は、亡くなったご主人がすべて手続きをしたとうかがいましたが」

「ウソです。弟のぼくが、煙草会社や役所関係を走り回って、先月ようやく開店できました」

「そうだったンですか」

「ですから、言い寄ってくる男性でも、煙草に関係のある方には多少は心を許すでしょう。しかし、それ以上のことは期待しないほうがいいです」

「煙草に関係あるひと……おれは煙草会社の人間、こちらは有料灰皿」

 及多、首をひねりながら、

「弟さん。亡くなったお義兄さんはどんな方だったンですか?」

「煙草が大好きでした」

「ほかには?」

「バスも好きでした。元気な頃は、よく姉貴と一緒に路線バスに乗って旅をしていました。地方に行くと、バスにも切符があるらしくて、義兄はそれをたくさん集めて大切にしていました。このバス停前に煙草屋を開いたのも、義兄につながるからと姉貴が強く言ったからです。苦労しました、バス停前の空き屋を見つけるのに」

「よし、決めた」

「及多さん、どうされました」

「若い警官はすぐに飽きられる。年齢の近い私なら、お姉さんといろいろ話が合います。私、明日から、吸殻集めはやめて、バスの切符を集めます」

                   (了)

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未亡人と吸殻 あべせい @abesei

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