第3話
ゲームも折り返しまで進んだ辺りで、進行度に明確に差が出始めた。
僕がすごろくマップの真ん中に到達する頃には、橘が六割程度まで進んでいた。『ダウト』の使いづらさが露呈し、単純に出目での勝負になっている。
橘は十面の割には出目が振るわなかったり、マスの内容に恵まれなかったりと、幸薄い感じが続いているので、致命的な差ではないけれど。どこかで大きなプラスを引かなければ、追いつけそうにない。
といったところで、僕の踏んだマスは。
『ボドゲの罰ゲームを利用し、折木くんが橘ちゃんに交際を強要。十マス戻る』
「これは勝負所ですね。十マスも戻ってしまえば、同じ位置に帰ってくるのに最小でも二ターン要してしまいます。『ダウト』をコールしたほうが良いんじゃないですか?」
もちろん橘の言っていることは正しいが、これで『ダウト』を外した場合は、二十マス戻ることになってしまい、ゲームが終わってしまう。
橘は僕が止まるたびに揺さぶりをかけてくるので、言っている内容は半分聞き流しているのだけれど、そうだな、ここは従っておこう。
「『ダウト』だ」
「ほほう、その根拠は?」
「別に。僕なら、付き合ってもらう時に罰ゲームは利用しないっていうだけだよ」
僕自身が橘に一目惚れしているからこそ、よく理解る。
僕と橘では、どうあっても釣り合わない。だからこそ、付き合い始める時に罰ゲームを利用するなんていう、後ろめたさは背負えない。正々堂々、できれば橘から申し出られる形が理想的だ。
僕がそうなのだから、折木慶も、そういう人物であってほしい。
そういう、記憶の取捨選択だ。
「では先輩、十マス、進めてください」
「当たりってことか」
「告白してくださった時は熱烈に真剣に情緒的に、真っ直ぐに挑んでくれましたよ。陋劣な先輩が唯一、真っ当に格好良かった瞬間です」
「唯一なんだ」
突っ込みながらも、胸にかかった靄に気付く。僕が想像していた、橘から告白してもらうほうがいいという言い分を、打ち負かされた気分だ。
これはどうやら、記憶の取捨選択などと言っている場合ではないのかもしれない。
現在の折木慶と、過去の折木慶の、勝負の様相を呈してきた。
対抗心を持っているのは僕だけなのだろうけれど。過去の折木慶には当然、相手にされていない。一人相撲で、勝手な勝負だ。
橘は黙々とサイコロを転がし、自分のコマを進めている。出目が小さいほうに偏っていることに不満げに首を傾げながら、傾げたそのままの角度で僕を見た。
「やはり、あまり面白くないですか? このゲーム」
「いや、面白くないってことはないけれど……」
良くも悪くもすごろくだなあという感じ。
何やらガジェットを用意していたようではあるけれど、基本的な進行はサイコロの出目とマスの効果に依るもので、戦術の介入する余地がない。
マス目の内容がオリジナリティに富んでいるのでそれが特徴的だが、僕からすると、知らない人の内輪ネタを見せられている気分なので、どうにも盛り上がらない。
いや、そんなものでは済まないのか。僕にとっては。
この、胸の奥にじくじくと滲む嫌な感情の名前は、僕の記憶には存在しない。
「けっこうイベントマスを用意したんですけれどね。先輩も私も、悉く通り過ぎてしまっていますから、盛り上がりに欠ける感じはありますかね」
「現金を渡されるようなマスなら、ないほうがマシだろ」
「下着を渡すようなマスもあるのですが」
橘が指さす。
『折木くんが下着を履き忘れてくる。下着を一枚相手に渡して、三マス戻る』
「なあ、橘。最初からやり直さないか? このゲーム」
「目が怖いです」
「このマスだけでいいだろ! 思い出すごろくじゃなくて下着すごろくにしようぜ」
橘が僕と過ごす中で履いていた下着を、順々に確認できるゲームだ。
「先輩の陋劣は留まることを知らないですね……。平常時が大人しい分、落差に驚かされます」
「口に出してないだけで頭の中ではいつもこんな感じだけどな」
「私の記憶もなくしてもらえませんか?」
聞きたくなかったです、と橘は溜め息を吐く。
よく見れば他にも『膝枕をしてもらいながら一回休み』とか『関節キスをしてニマス進む』などと書いてある。単に僕と橘のエンターテインメント性の低さで、そういったイベントを通り過ぎてしまっていただけのようだ。
「あ、ここのマス、誤字があるぞ。『関節キス』じゃなくて『間接キス』だろ?」
「口頭で言われても何も伝わりませんが」
たしかに。
「そこはそれで正しいですよ。直接の対義語としての間接ではなく、人体の節目の関節で『関節キス』ですので」
伝わらないと言いつつ、正確に理解していた。しかし、僕の理解が追いつかない。
「関節キス?」
「先輩と私のスタンダードなオーラルセックスでしたね。先輩はオーソドックスな膝裏などではなく、手首が好みでした。
「膝裏がオーソドックスだという常識すら知らないんだけど、僕」
オーラルセックスとか言うなよ、普通に。
「プラトニックな関係だったんじゃないのか?」
「ええ、キスもしたことがありません。ですが口腔内と性器を除いた私の身体のほとんどには、先輩の舌が一度は這っていると思っていただいて問題ないです」
「問題だらけだろ、それはそれで」
「そうですか? 私のクラスメイトはどこでしたとか、誰と何度したとか、いくらでしたとか、そんな話で盛り上がっていますので、それと比べればプラトニックかと思います」
「一年生だよな……?」
女子同士の話が進みすぎていて怖すぎる。僕の数少ない友人は、ゲームの攻略の話ばかりしていた。病み上がりなうえ記憶のない僕に配慮してくれていたのかもしれないけれど。
告白マス以降のマス目のバカップルっぷり、というか馬鹿なカップルっぷりを見るに、健全なお付き合いと呼ぶのは難しい。実際、マス目の内容を読んでいるだけの僕でさえ、目を伏せたくなるような内容だ。
「他人の情事について聞かされるのって、軽く拷問みたいなものだよな」
「他人ではなく、だから、先輩のことなんですけれど」
「そうなんだけどさ」
「それに、私のような可愛い女の子の性事情を聞かされたら、劣情を催すのでは」
「それも、そうなんだけどさ」
「あっさりと肯定しますね」
事実なのだから仕方ない。
しかし事実であるが故に、僕の内心の、この鬱屈とした感情に説明がつかない。
ゲームを始めた時から募っていた蟠りが発散されることないまま、いつの間にか僕はゴール目前まで迫っていた。
橘はとことん出目が振るわず、僕のやや後ろをついてきている。いつの間にか僕に追い抜かれ、大和撫子らしさをようやく発揮していたが、表情は普通に悔しそうで憎々しげだ。そんな殺気の籠った大和撫子がいるか。
ゴールまで残り七マスということで、僕はすごろくのマス目の内容を確認する。
だいたいゴール前では『戻る』マスがあるだろうから、どの目を出せばいいのか見当をつけておきたい。事前に目を通したところで出目を操作できるわけではないけれど、こういうのは気持ちの問題だ。
と、一通り目を通したところで気づく。
「橘、これ、ゴール前のマス全部『戻る』マスじゃないか」
ゴールから遠い順に『一マス戻る』『二マス戻る』と並んでいて、サイコロの出目だけでは確実にゴールに辿り着けず元の位置に戻ってきてしまう。
普通のすごろくなら、とんだ欠陥ゲームだけれど。
「はい、そういう仕様です。ここまでの思い出を辿ってきた先輩なら『ダウト』を的中させて、ゴールすることができるでしょう」
「そう来るか」
この六マスのうちのどこかに虚実が紛れていて『ダウト』を宣言する必要がある。
割合的には半々ぐらいか? ローラー作戦的に『ダウト』をするにはリスクがあるものの、ペナルティで後退しすぎてクソゲーにならないような、そんな割合。
橘のゲーム制作技術を踏まえると、クソゲーみたいな確率でもおかしくないのが怖いところだ。マス目の内容を読んで判断してみよう。
『橘ちゃんの家に遊びに来た折木くんがお母さんと仲良くなる。一マス戻る』
『二人でゲーム販売。二つだけ売れる。ニマス戻る』
『二人で泊まりの旅行に行こうとするが雨天順延。三マス戻る』
『橘ちゃんが折木くんにキスをする。四マス戻る』
『折木くんが橘ちゃんに別れ話を切り出す。五マス戻る』
『橘ちゃんを庇った折木くんが事故に遭う。六マス戻る』
分かんねえな、相変わらず。
ここまでのことを踏まえたところで、開示されている情報は少ない。
唯一、四マス目のキスだけは、橘の言葉に従えば虚実っぽいけれど。それぐらいのブラフは仕込んでいてもおかしくなさそうだ。キスよりもペッティングのほうが先のカップルだなんて、冷静に考えてそんなに多くはないだろうし。
それから五マス目、六マス目辺りも、もし本当だとしたら病院で話を聞いていそうだ。そして一マス目から三マス目も、あまり現実的な内容には思えないんだけれど。
ううむ。
折木くんと橘ちゃんの関係性ねえ。
この思い出すごろくは、最初に橘も言っていた通り、僕の過去を辿ることを目的として作られている。時系列に沿って、どんな風に過ごしてきたのかを追っていくこのゲームは、僕の記憶を取り戻す刺激としてはちょうどよい塩梅だ。
記憶のインプットとゲームクリアが同一指向のものであり、双方への努力をする必然性がある。そして橘としては、最悪、ゲームに負けても僕に記憶が戻ればいいという、ゲームマスターとプレイヤーの見ている方向が同一のゲームでもある。
ゲーム性はともかく、ゲームデザイン自体はかなり優秀なんだよな、これ。
ゲーム性はともかく。
つい繰り返してしまったが、これまでのゲームプレイを振り返って最も有用な情報でもある。
ゴール前のマスに虚実マスが極端に少ないとか、逆に全てが虚実であるとか、どっちでもおかしくない。長々と考えたけれど、要するに何の足掛かりもないのだ。
全てのマスを総当たりで考えるのではなく、止まったマスについて改めて考えてみるほうがいいかもしれない。そう決断し――決断を先送りにし、サイコロを手に取ったところで。
「不愉快ですね」
と、橘が言った。
「先輩――私の作ったゲームが面白くない、というわけではないんですよね?」
「ああ、さっきも言ったけど」
「体調が悪いというわけでもありませんか? 脳を刺激され、頭が痛んでいたり」
「全然、そんなことないよ」
「でしたら、どうしてそんなに――不機嫌そうにプレイしているんですか?」
橘は唇に指を添え、不平を訴えてくる。
「この私と遊んでいるんです。もっと楽しそうにしていてください」
「いや……不機嫌だったわけじゃないよ。ただ、考え事をしていただけで」
そういう風に見えていたのなら申し訳ないが。
僕自身も、僕がどういう感情でこのゲームに接しているのかは分からないのだ。
ただ――ゲーム自体というより、過去話を聞いていて、いい気分がしなかったのは確かだ。
「私と一緒にいる時に、私以外のことを考えないでください」
「無茶を言うなよ」
「無茶? 今までの先輩なら、当たり前にこなしていたことですよ」
じゅく、と。“泥濘“に無造作に足を踏み込まれる。
同時に、僕の手からサイコロも零れ落ちた。
「私の前では私に夢中でいてください。他のことを考えられると――嫉妬してしまいます」
そう言った橘の言葉で、はっとした。
嫉妬。
自分といる時に、自分以外のことを考えられる。
自分を前にして、自分以外の話を聞かされる。
それも――一目惚れをした、初恋の相手から。
僕の心に渦巻く感情は、嫉妬だ。
僕は、僕に――折木慶に、嫉妬していた。
からからと、机の上を転がったサイコロは『四』の目を示す。
「ほら、先輩。コールするんですか、しないんですか」
言葉に違わず不愉快そうに、橘は僕を急かした。
「ああ、じゃあ、『ダウト』で」
マス目の内容もよく読まずに、上の空でそう答える。
このゲームに登場する折木くんは、僕ではない。
僕の記憶に存在しない僕だなんて、そんなの、赤の他人のようなものだ。それが、目の前にいる橘と仲良さげにしていたら、妬いてしまう。ついつい彼に張り合って、格好つけたくなるのも納得だった。
そんな風に内心の疑問に解決を見た僕をよそに、未だに不服そうな橘は言う。
「本当は、先輩に勝たせてあげるつもりだったんですが、気が変わりました」
何だって? と問い返そうとするよりも早く。
橘は僕の唇を、自身の唇で塞いだ。
「『橘ちゃんが折木くんとキスをする。四マス戻る』――ですよ、先輩」
不敵に笑う橘に視線は釘付けになり。
考え事の中身など、吹き飛んでしまった。
そして。
僕と橘の初めてのゲームは、僕の勝利で終わった。
「まさかあそこから、ずっと『一』が出続けるとは……どんな確率なんですか……」
学校からの帰り道。病み上がりの僕を最寄り駅まで送り届けるのが自分の役割だ
と、橘は一緒についてきてくれている。彼氏彼女、先輩後輩、どちらの関係性で見ても僕のほうが送っていくべきなのだけれど、今は素直に甘えておく。
僕がそうしたところで、別に可愛くはないが。
橘がしたら、その時の可愛さは計り知れなさそうだ。
僕ではない折木慶は、橘のそんな一面も見ているのだろうか。
「ファーストキスまで捧げておいて負けるだなんて、ゲーマー失格です」
「遊びでキスをしてる時点で、そもそも人間失格だろ」
「そうですね、先輩に命令権を握られた私に人権などありません」
「お前は折木くんにどんな目に遭わされてきたんだよ」
人権を危ぶまれるほどって。
「野外でおしっことか強要されたのか?」
「そこまで陋劣な発想は、以前の先輩でも咄嗟には出てこなかったはずですが」
橘は身震いする。
「昔の己を越えていくことで人は成長するもんさ」
「進化する変態だなんて私の手に余ります」
実際、どんな形であれ過去の自分に勝てるのなら、僕にとっては良いことなのだけれど。
変態性でしか勝てないのは、さすがにな。
それに、この立ち位置で競えるのも、今、この瞬間までだ。
「そろそろ駅も近いですし、執行猶予も十分でしょう」
と、橘のほうから足を止める。
「罰ゲームの内容を、そろそろ聞きたいのですが」
「ああ、そうだな」
橘と出会ってから。
つまり、僕が僕として目を醒ましたその瞬間から、考えていたことがある。
僕にとって過去の折木慶は他人でしかなく、彼が辿った足跡や、彼が築き上げた関係性は、僕のものではない。僕の意識は目覚めた瞬間に生まれ、過去の自分と繋がっていなかった。
記憶が戻れば僕という存在は消え失せるのか、それとも元々この場所にいた彼と融和するのかは分からない。だけど、僕が僕である以上、彼の積み上げてきたものを横合いから掻っ攫っていくような真似をすることはできない。
「橘、僕からの罰ゲームは――僕の彼女として振る舞わないでほしい、だ」
「えっ……」
「ま、待て待て、そういう意味じゃない」
一瞬で臨界点を突破して目の潤みが限界に達した橘。
何が簡単には泣かなくなっただよ。
泣き顔フェチとしても、そんなに簡単に涙を零されたら有難がれない。
「私と別れようということじゃないんですか……? お前と付き合っているのなんて罰ゲームのようだと、そう言っているのではないんですか……?」
たった一言でそこまで卑屈になるか。
普段の横柄な振る舞いは――信頼の裏返しだったのかもしれない。
だからこそ、信用の置けない今の僕が相手では、一瞬で崩れ去ってしまう。
「いや、そうだな。今のは僕の言い方が悪い――違うんだよ、橘。僕は、お前と付き合っていた折木慶じゃない。今日のゲームで、それを嫌というほど実感したんだ」
僕と本来の折木慶に共通することといえば、橘美空。
彼女に一目惚れをしていることだけだ。
「だから、僕が本来の折木慶に戻るまで――僕が折木慶に成るまでは、彼女として面倒を見たり、一緒に遊んだり、キスをしたり――そういうのは、しないでおいてほしい」
僕がこのまま彼女と付き合いを続けるのは、不正だ。
なぜなら僕は、折木慶ではないのだから。
「ふっ」
と。
僕の言葉を聞き終えた橘は、軽く噴き出した。
「なあんだ、そんなことで悩んでいたんですか」
さっきまでの泣き出しそうな顔は跡形もなくなり、にやにやと。
悪戯を思いついた子どものように、あるいは悪魔のように、笑っている。
「先輩は先輩なのに、中学生みたいですね」
「な、なんだよ。僕は真面目な話をしているんだけど」
「先輩がしていたのは、寝取りの話でしょう」
「そんなわけがあるか」
しかし、勢い否定したものの、僕が思っているのはそういうことかもしれない。
僕自身から、僕の彼女を寝取るような行為。
記憶喪失とは、そういうものだ。
……いや、こんな風に言ったら、同様の被害にあった人から本気で怒られる。
しかし橘は本当に、僕の悩みなどくだらないと笑い飛ばしている。
何故だろう。橘はどうしてこうも妄信的に、僕を折木慶と見做せるのだろうか。本来の折木慶に対して後ろめたさを抱いたりはしないのか。
「おやおや、私の処女性が疑われていますね」
「いや――いや、もういいよ、それで。なあ、橘。お前はこのまま僕と、延長戦みたいな付き合いを続けて、折木慶に申し訳なくないのか? 浮気をしているみたいな気になっちゃわないのかよ」
「童貞臭いですねえ」
まるで出来の悪い我が子を窘めるように、橘は言う。
「そんなことはいちいち、口にすることではないでしょう」
「けど……」
「それでも納得いかないのなら、先輩。先輩自身の記憶を、探ってみてください」
「僕自身の?」
それは、事故から目覚めてからのことだろうか。
一週間程度の記憶だ。欠落なんて、ほとんどないはずなのだけれど。
「覚えていませんか? 病院のベッドで意識を取り戻した先輩に、私が優しく胸を貸していた時のことを」
「それは本当に記憶にないな」
捏造をするな。貸すほどの胸がないだろう、お前には。
「先輩はほとんど意識のないまま、纏わりついてきた私のことを優しく、撫でてくれました」
それは、本当の本当に記憶にないことだ。
あの時の僕の意識は、橘に夢中で――僕がどう動いて、何を言ったのか。そんなことにまでは、意識が向いていなかった。
「狼狽する私を落ち着かせようと、優しい手つきで髪を梳いて、抱き寄せてくれた時、私は確信したんです。先輩が先輩のまま、戻ってきてくれたと」
「……それは」
「先輩が先輩をどれだけ嫌っても、先輩以外になることはできませんよ。自分が誰で何者かだなんて、そんなことでいちいち悩んでいるのは、男子中学生だけです」
橘は言う。
「先輩を先輩だと定義しているのは、私です。私がそうだと言うことが、信用できませんか?」
橘美空から折木慶に向けられた、全幅の信頼。
でもそれは、僕が築き上げたものではない。今の僕では、その信頼の矢印を突き付けられることに耐えられない。
「……悪い、橘。僕は……」
「まったくもって、面倒くさい先輩ですねえ。あれだけの陋劣をひけらかしておいて、今更何を遠慮することがありますか」
はあ、と本当に鬱陶しそうな橘。
「不当に私の隣にいる罪悪感を覚えてしまうのでしたら、正当な手順を踏めばいいだけのことでしょうに」
不当に居ることに耐えられないのであれば、正当に居ればいい。
青天の霹靂ともいえる橘の言葉に、僕は足を止めた。
「正当に……」
「ここまで前振りをしてあげれば、男らしさの欠片もない先輩でも、十分でしょう」
そして橘も足を止めて、僕に振り返る。
腰の後ろで両手を組んで、何かを待つように僕の顔を見上げていた。
じっ、と。その表情を見つめる。
漆のような艶のある黒髪は短く切り揃えられ、目じりの上がったくりっとした黒目を備えている。小さな鼻に肉厚な唇。染み一つない白い肌。高校生にしては小柄な体躯だが、姿勢は正しく立ち居振る舞いは洗練されていて、近寄りがたささえある。
今は涙に彩られていないものの――僕はこの、橘に一目惚れをしたのだ。
その感情だけは、折木慶からの積み重ねではなく、僕のものだ。
そして一目惚れをしたのであれば、するべきことは一つだった。
「競争率が高いんだもんな、お前は」
「そうです。私は可愛いですからね」
「知ってるよ」
僕は言う。
「橘、話があるんだ。聞いてくれないか」
「罰ゲームの権限は、既に使い切っていますが」
「話を聞く程度のことが罰ゲーム扱いかよ」
何で最後までふざけているんだ、こいつは。
だけどこんなやりとりも確実に、今の僕と、橘の積み重ねだ。
「いいんだよ、罰ゲームじゃなくて。そんなものに頼って言うことじゃないからさ」
折木慶の積み重ねを横合いから掻っ攫うことに耐えられないのであれば、新しい積み重ねを、増やしていけばいいんだ。
最初から。
「橘、僕と付き合ってくれないか」
「ええ、慶んで」
『折木くんが橘ちゃんに告白をする』
『ふりだしに戻る』
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