第2話
「先攻は差し上げますよ」
「いいのか?」
「私はゲームマスターですので」
橘が僕の前に男の子のコマを置く。
「お譲り致しますよ、先攻を。どうぞ私の前をお歩きください。私は三歩下がって影を踏まない、良妻賢母の大和撫子ですので」
「どっちかっていうと座敷童子みたいだけどな」
ここぞとばかりに恩着せがましくなるな。
だいたい、すごろくは先攻有利とはいえ、大局を左右するのはあくまで賽の目でしかない。逆説的に、ここで譲り合っても時間の無駄だ。それに、僅かでも有利になってくれたほうがありがたいのが正直なところだ。
罰ゲームの命令権は、何としてでも勝ち取りたい。
例え、性行為が禁止されていたとしても。
「『三』、ですね」
僕の決意とは裏腹に、サイコロの目は微妙だった。
『折木くんがボードゲーム部に入部する。二マス進む』
「お、これで五マス進めるのか」
「『ダウト』のコールは大丈夫ですか? 先輩が入ったのは本当は野球部かもしれませんよ」
「だとしたら、どんな経緯で僕はここにいるんだよ」
「その壮大な物語を辿るためのこのすごろくです」
あまりに真実味を帯びた口調に一瞬信じかけるが、そんなわけはない。
「コールはなしだ」
僕は自分のコマを、五マス先に進める。
「臆病者は時として勇敢な者よりも真実に漸近する、ですね」
名言のようなものを引用しながら、さらりと僕を臆病呼ばわりする橘。
「誰の言葉だ?」
「先輩の言葉です」
自分の言葉を名言だと思ってしまっていた。明言していなくて助かった。そして出自を聞いたことにより、言葉としての信用も失った。僕は『ダウト』を積極的に使用しよう。
「私の手番ですね」
橘の手から滑り落ちたサイコロの目は『五』。十面のダイスであることを思えば比較的小さい目ではあるが、一手で僕の位置まで追いついてきた。
『折木くんが橘ちゃんにジュースを買ってきて媚びを売る。一マス進む』
「嫌な書き方するなよ。ジュースを買ってきた、じゃダメなのか?」
「私は事実に即した書き方をしているだけです」
「即しているんだろうけども……だいたい、僕とお前の出会いの流れは見えてきたよ」
「ほほう」
自分のコマを移動し終えた橘が、僕を見る。
「果たしてどんな流れだったのですか?」
「橘に一目惚れをした折木くんが勢いのまま告白するけども玉砕。その後、橘ちゃんのことを調べてボドゲ部にいることを突き止めて、後を追って入部したってことだろ。それで、媚を売る――というか、仲良くなるためにジュースを買ってきたりしているって感じか?」
「そうですね、概ね、その通りです」
だからこのゲームは、折木くんが橘ちゃんに告白するところから始まるのだ。
僕と橘の本来の出会い。
「一目惚れしてすぐに告白しにいくだなんて、自惚れも甚だしいな」
「私は競争率が高いですから、先輩も焦っていたんでしょう」
「競争率?」
「ほら、私ってとっても可愛いじゃないですか」
さらりと、橘は言ってのける。
可愛いけども。事実だとしても、すごい自惚れだ。
「だから先輩のような不逞の輩は本来、後を絶たないのです」
「それはそうだろうけどさ」
「素直に納得してくれるということは、あなたも、私の可愛さに気付いているんです
ね」
にい、と橘が口角を上げる。
「い、いやそれは……」
内心では散々思っているが、橘に面と向かって言ったことはない。
それを僕が言うのは、なんだか卑怯な気がするから。僕自身の心の動きを僕も正しく理解できていないけれど、そんな風に橘と距離を縮めることに、抵抗を感じてしまう。
黙っていた僕がどう見えたのか、橘はにまにまとした笑みを浮かべている。
「いいんですよ、先輩。私の前では素直になっても」
「別に捻くれているわけではないんだけどさ」
「私が私を可愛いと一度言ったら、先輩はその十倍は言ってくれていいんです」
「それはただお前が褒められたいだけだろ」
その辺りも、僕と――折木くんと、橘ちゃんの間での、暗黙の了解なのだろう。
「そもそも先輩は、褒め殺しで私に取り入ってきた節がありますから」
効きそうだなあ、褒め殺し。
「でも、お前の周りに集まってきた男って、そういう浅薄な連中が多いんじゃないのか?」
「いえいえ、実直な人たちばかりでしたよ。私は私に言い寄ってくる人たちには大抵、《お互いのことをよく知らないと、親しくなるには早いでしょう》《知っていくうちに嫌な面が見えてきて、失望させてしまうかもしれません》とお答えしているのですが」
「当たり障りないな」
「《ですから、まずは顔見知りから始めましょう。挨拶からやり直してください》と言って立ち去ると、本当に顔見知り程度の距離感になってくれるんですよね」
「遠すぎるだろ、スタートが」
嫌な面、隠しきれてねえ。
歩み寄る気が最初からないじゃないか。
出会い頭にそこまで強烈に拒否されれば、ほとんどの男はそこで引き下がるか。よく知らない相手に告白するだなんて、面白半分というか遊び感覚の奴らが多いだろうし、わざわざこんな攻略の難しそうな相手を選ぶことはない。
「でも、僕にもそういう風に言ってたんだろ? よく折れなかったな」
「ボードゲーム部に入ってきた時に言っていましたよ。《僕はお前の顔に惚れたんだ。だから性格がどうあれ嫌になることはない》と」
「僕の性格がヤバすぎるだろ」
「ええ。私の理想の王子様でした」
橘の趣味もヤバすぎる。
橘がただ可愛いだけの女子ではないことは、この短い付き合いの中でも十分に伝わってきているので、少しぐらい普通と異なるほうが付き合いやすいのかもしれないけれど。
しかし、ヤバいといは言ったものの、折木くんの意見には同意だ。
可愛いうえに性格が悪いだなんて、そんなの、最高だよな。
「では、先輩の手番です」
「ああ」
さて、ゲームに戻ろう。
一巡目を終えて、そして橘から話を聞いて、折木くんと橘ちゃんの関係性の輪郭は朧げながらも掴んできた。このゲームは、やはり僕に有利だ。
すごろくのマスの内容は四パターンに分けられる。
一.マスの効果がプラスで、書いてある内容が真実
二.マスの効果がプラスで、書いてある内容が虚実
三.マスの効果がマイナスで、書いてある内容が真実
四.マスの効果がマイナスで、書いてある内容が虚実
そして僕は『ダウト』をコールし正答することで、進行度を上げることができる。
仮に全てのマスについての正誤を外さないとすると、三の場合以外、つまり四分の三の確率でプラスの効果を受け続けることができるのだ。その正誤を当てることが、確率的には二分の一ではあるけれど、今までの話からおおよその傾向を掴むことができる。
折木慶とはどんなやつで。
橘美空とはどんなやつなのか。
それさえ理解すれば『ダウト』の正答率は跳ね上がる。
僕が出したサイコロの目は『四』。
『折木くんが橘ちゃんの歯ブラシを盗んで使う。二マス戻る』
「分かるかあ!」
何者なんだよ、折木くんは。
「くそ、なんだよ歯ブラシって。羨ましいなあ」
「本音が漏れていますが」
「一応、学校内で起こり得るんだよな、今までの情報とも相反していないし。橘って、昼休みにちゃんと歯を磨くタイプか?」
「無視したので教えてあげません」
「キスして確かめてみるか」
「先輩って、考え事をしている間は他の事柄に対して極端に意識が散漫になりますよね」
させてあげるわけがないでしょう、と呆れたように言う橘。
「――『ダウト』かな。いくらなんでも、お近づきになりたい女子にすることではないだろ」
「残念。これは実際にあった出来事なので、四マス、戻ってください」
「そんな馬鹿なやつがいるか!」
「だから、先輩のことですって。注釈すると、この時は部室に置いてあった私の歯ブラシが偶然、先輩が使っていたものと同じだったので取り違えたと言い訳していましたね」
「……それは言い訳とかじゃなくて、ちゃんとした言い分だと思う」
「このゲームの作者は私ですからね。私の主観が、マスの内容には含まれています」
たしかに橘がさっき踏んだ『媚びる』マスも、そうだった。
だとしたら、僕のプレイングミスだ。
ゲームの作者の意図というか、ゲームデザインを読み解くのも、初見のゲームの攻略には有効な手段ではある。橘は僕に、どんな風にこのゲームをプレイさせたいのか。
「よし、次行こうぜ」
「しっかりとついてきてくださいね」
慣れてきたので、二巡目以降はぱっぱと進んでいく。
『橘ちゃんが折木くんの誕生日に使いかけの消しゴムを渡す。三マス進む』
『新入部員を探すが誰も入らない。一回休み』
『言祝木くんと橘ちゃんが一緒にゲームの買い出しに行く。一マス進む』
ダウトを積極的に使う気でいたけれど、この辺りのマスは現実味が強い。四分の三の確率で前に進めるとは言ったものの、虚実マスの割合に左右されるということを失念していた。
どの程度の割合で嘘が仕込まれているのか。全文が嘘のパターンと一部が嘘のパターンでは、見破るのに必要な理解度も異なってくるし、思ったよりも、自由度がないな。
対する橘は、十面ダイスを使っているはずなのに出目が悪く、進行度に大差がない。
何巡目かの僕のターン。
『折木くんが橘ちゃんの作ったゲームにダメ出しをして泣かす。五マス戻る』
「……このゲームって、時系列には沿っているんだよな?」
「ええ、そうですね」
「よくこんな風に泣かしてきた相手と付き合うことになったな」
「マゾなんですよね、私」
「最悪の自己紹介だ」
「女性の九割はマゾです」
「主語がでかいんだよ。そんなわけがあるか」
「でしたらこの『マス』は嘘の可能性が高いかもしれませんよ?」
橘はふっふっふ、と不敵に笑う。
心理戦のためならマゾの汚名を被ることも厭わないらしい。
自分の顔に泥を塗るのは自傷行為のようなもので、それは正しく、マゾヒズム的だ。
「いや――これはたぶん、本当だろう。『ダウト』はしないよ」
「そうですか」
橘はすん、とスイッチを切った電気のように笑みを引っ込めると、自分のサイコロを転がし始める。切り替えが早すぎる。本来の意味でのポーカーフェイスで、表情を自在に作っているようだ。
無表情の橘の顔は日本人形のようで、麗しさと憂いが程よく混ざり合っている。出目が『四』を示し、むっと頬を膨らませたのは小動物のような可愛さがある――と思って見ていたら、目が合った。
「今、《カコミスルみたいで可愛いな》と思って見ていたでしょう?」
「いや、そんな具体的な動物の名前は思い浮かべていないけれど……カ、カコミスル?」
「ネコ目アライグマ科カコミスル属の哺乳類で、身体よりも長い尻尾と、褐色の肌にお腹だけが白いのが特徴的です。ご存じではありませんか?」
「知らないな。そんな有名な動物でもないだろ」
よく見れば、橘の止まったマスは『折木くんと橘ちゃんが一緒に動物園へ行く』だった。その時のことを思い出しているのだろう。
「先輩が教えてくれたんですけれどね。《カコミスルの性成熟は十カ月なんだってさ。お腹だけ白いっていうのも、スクール水着で日焼けしたロリみたいで可愛いよな》と」
「だから、付き合う前にそんな話をしてくる男と、何で関係が続いているんだよ」
別れろ。というか逃げろ。
「その時は私の髪も、胴体より長かったんですよね。それを見て、先輩は《カコミスルみたいで可愛いな》と言ってくれたんです」
橘は目を細めて、僕を見ているのに見ていないような目をしながら、そう言った。
「……いや、覚えてないな」
「――そうですか」
では、どうぞ。と橘は手で合図をしてくる。
相変わらずのポーカーフェイスは、崩していない。けれど。
今、橘が語った思い出は、本当にあったことなのだろう。ゲームを進めるうえでは絶対に話さないほうがいい、思い出話。無表情ではいるものの、僕の反応を見て落胆しているに違いない。真の意味でのポーカーフェイスが使える橘が、無表情なのだから。
僕の記憶喪失は、エピソード記憶というものに限られている。
エピソード記憶――自己の体験や、体験に付随した周辺情報――つまり、思い出の喪失。
逆に言えば、一般常識や基礎教養のような記憶はほとんど問題なく機能している。だからこそ早期退院ができ、こうして学校に復帰することもできているのだが。
橘の話で言えば、動物園がどんな場所で、アライグマがどんな生き物かは分かるが、昔の僕が橘と話した希少な動物の話なんかは、忘れてしまっている。
パターンとしては、話したことそのものは覚えていないものの、カコミスルのことだけは覚えているということもあるようだけれど、その辺の線引きはけっこう曖昧だ。
「悪いな、何にも思い出せなくて」
せっかく僕のためにゲームを作ってくれたけれど、今の僕と、昔の折木慶では、明確に線引きをされてしまっている。きっかけがあれば思い出すこともありうると診断されてはいるけれど、そうなった時、『僕』は果たしてどうなるのだろう?
「《あんたは、昔はよく泣く子どもだったのよ》」
「ん?」
僕の謝罪を聞いていたのかいないのか、橘はそう呟いた。
「私のお母さんが、よく言い聞かせてくる言葉です。お母さんに少し生意気なことを言ったり、しっかり者なところを見せたりすると、面白がって、繰り返し、そう言ってきます」
「茶目っ気のある母親だな」
「性格が悪いんですよ、私と同じで。あんたは昔はよく泣いていた、テレビで心霊番組を見てしまった時や、遊園地で嫌いなマスコットに出会った時、お母さんの帰りが遅くなった時――何をきっかけにしても泣く子どもだったと、聞かされています」
「覚えてないのか?」
「本当に幼い頃の話ですからねえ。覚えてはいませんが――けれど私はそういう子どもだったのだと、記憶しています」
「それは……記憶って言うのか?」
「記憶なんていうものは、本人の都合によって好きに歪めてよいものなのですよ。事実かどうかなんて関係ない、都合よく、美しく、醜く、脚色しながら、主観で歪め、客観で捻じ曲げ、自己の礎にするのです。私を見てください。昔はどうかは知りませんが、母に嫌な記憶を植え付けられたお陰で、今は簡単には泣かない気丈な娘に育っているでしょう?」
でしょう? と言われても、同意はしかねるのだけれど。
僕の知っている橘は、今でも泣いている印象が強い。出会い方もそうだし、ゲームの中でも泣かされていた。むしろ最近の記憶のほうを、好きに歪めているのかもしれない。
「折木慶という人物を知り、橘美空という人物を知った先輩が、果たしてどんな思い出に『ダウト』を宣告するのか――どんな記憶を取捨選択するのか。言ってしまえばこのゲームは、それだけの話なのです」
ですから、と橘は僕の前にサイコロを差し出す。
「先輩は何も気になさらず、ゲームを楽しんでください」
「……そう言ってくれるのなら、そうするよ」
「ええ。プレイヤーが楽しんでくれるのが、クリエイターの本懐ですので」
意識の高そうなことを、橘は言う。
僕に対する配慮なのか、本当にそう思っているのかは、分からないけれど。
僕はサイコロを転がす。
『橘ちゃんが折木くんにヘッドマッサージをする。三千円もらう』
「うん?」
マスの効果が、今までに見たことのないタイプだった。
「橘、この『三千円もらう』っていうのは何だ? ――ああ、そうか。ゲームの中で、何かアイテムを購入できたりするのか」
まだ踏んでいないだけで、サイコロが二個振れるようになるキノコとか、別のプレイヤーと位置を入れ替える土管とかが購入できるマスが登場したりするのかな?
「おや、お金マスですね。では先輩、三千円を渡します」
と、そんな風に考えていた僕をよそに、橘はいそいそと財布を取り出した。
「待て待て待て、遊びに現実のお金を持ち込むなよ。ガジェットなんだろ? 何か代わりの、金額を書いた紙とかはないのか?」
手を抑えて紙幣を戻させようとする僕に、橘はあっけらかんと言った。
「いえ、違いますよ、先輩。そのマスは、日本銀行券を貰えるマスですので。ゲーム内での効果はありません」
「お前は二度と、クリエイターを名乗るな」
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