第2章 契約開始

第1話 最初の朝

 月曜の朝、健斗は目覚めたと共に上半身をスッと起こす。これまでなら目覚めてから起きるまでにもう少し時間がかかるのだが、今日からはそんな幸福な二度寝欲すら掻き消すような約束事がある。


「朝から泉さんに会えるんだ、寝ぼけてちゃいられない!」


 これまで自分の寝坊は自分だけの責任だったのだが、今日からは自分の都合が玲に影響してしまう。自分事だけじゃ無くなるというのは、非常に大きな原動力を生み出す。自分用の料理と人に振る舞う料理ではモチベーションが桁違いに上がる現象と同じである。


 玄関へ行く前に、普段全然見ない鏡にも目を向ける。スーツや髪に乱れが無いかを確認する。昨日まで皺が目立っていたスーツも、埃を被っていたアイロンを引っ張り出してちゃんと伸ばしてあった。


(良し、見られて恥ずかしい部分は無いはずだ!)


 意気込んで玄関の扉を開けると、いつもオフィスで見る身なりが完璧に整った玲が既に扉の前にいた。

 

「音無君、おはようございます」

「お、おはようございます。泉さん」

「これが鍵です」

「はい、確かに」


 健斗が玲に鍵を渡して、お互いの場所が入れ替わる。これから会社に向かう健斗を玲が見送る形になる。


「このまま内側からかけますね。今日も頑張りましょうか」

「は、はい」

「それでは」


 バタンと扉が閉まり、鍵を閉める音がする。玲はすでに防音部屋に向かっているため、玄関先は無音になる。会話自体は事務的な雰囲気だったが、健斗にとっては妙な喜びがあった。このやり取りが憧れの玲と自分の家で行われているという事実を反芻していた。


(本当に一瞬だけど……何かいいな、これ)


 健斗の気分はとても良くなっていた。こんなにいい朝は初めてだと思いつつ、今朝のような完璧と言える朝の支度を今後も続けていこうと心に誓った。


「……あ、ゴミ出すの忘れた」


 完璧、には今一歩足りていないのであった。


 

 家での変化があるとはいえ、職場ではいつも通りにすると心がけている健斗だったが、同僚の二人には隠しきれていないようで、二人は健斗の事をとても気にかけていた。


「何か、今朝から音無がずっと顔ユルユルなんだけど……」

「先週の飲み会からずっと変ですよね、本当に何があったのか気になるんですけど……」


 聡一と小里は井戸端会議のように俺の様子を実況していた。顔に出てしまっていたか、と健斗は一度深呼吸をして真面目な顔つきに戻す。とここで、会社で使用しているチャットツールに健斗宛ての個人チャットが来た。その相手が玲だと知り、すぐに内容を確認する。


『おはようございます。帰宅時間が判明次第、報告してください』

『おはようございます、承知しました』

(業務連絡感が凄いけど……個人でやり取りをしている……)


 文面はお互いが一言挨拶を交わしただけ。しかし健斗にとっては大きな意味を感じられるものだった。やり取りを終えたチャットを健斗はつい見つめ続けてしまう。


「今度はニヤつき出したぞ……」

「もしかして先輩、働きすぎておかしく……?」

「お前らずっと失礼だからな。見ろ、俺はいつも通りだ」

「先輩、ニヤケ顔のせいで説得力ゼロですよ」

「ごめんよ音無……俺がお前を頼りすぎたばっかりに……」

「それは俺が云々の前にどうにかしてくれよ」


 健斗は元々思ったことが顔に出やすいタイプである。増して嬉しさから来る気持ちは更に増していくばかりで本人にはどうも止められない様子だった。


「本当に大丈夫なんです?」

「何かあったら言えよー? 音無には借りを作ってばっかりだしさー」

「いやほんと、大人としてどうかと思いますよ佐々木先輩は」

「戸村も同じぐらい音無に頼ってるだろ! お前は俺と同類だ!」

「げーっ! 先輩と同類とか嫌ーっ!」

「お前ら仕事中にんなことで揉めるな!」


 ギャーギャー言い出した二人を止める。ただ健斗を心配しているのは本心だと言う事が伝わっているからか、いつもより緩めの静止だった。


(心配してくれているのはありがたいけど、この契約は同僚である二人にもバレるわけにはいかない。しっかりしなければ)


 玲との約束を守るため、健斗は決意を固めなおしたのであった。

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