冷女と呼ばれる先輩に部屋を貸すことになった

こなひじきβ

第1章 思いがけない交渉

第1話 音無健斗

 ピピピ……。


 カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、スマホの目覚ましアラーム音が反響する。大人一人を包み込んだベッドの上の布団がもぞもぞと動く。掛け布団から生えた腕がスマホを取り込み、アラームを止めて男は起き上がった。


「……今日は金曜日、行けば休みか」

 

 そう呟きつつカーテンを開けて朝日を全身に浴びて伸びをしている彼の名は、音無健斗おとなしけんと。現在の勤め先に入社してすぐ、一人暮らしを始めた普通の会社員である。

 彼の中で趣味と言える物は特に無い。強いて挙げるならば仕事と自分用の料理だろうか。少しずつ目覚めていく体を台所まで動かし、今日も弁当の支度を卒なくこなしていく。

 

(よし、弁当ができた。……自分用だから、茶色が多かろうが自由なのが良い所だ)

 

 弁当の出来に満足した健斗は、会社に出かけるため身支度を整え始める。新卒から着続けているスーツは若干よれていて、少し鬱陶しくなってきたと感じる程度のやや長めの黒髪を手櫛で梳かす。キリっとした眉毛は彼の真面目さを印象づけている。

 しかし真面目とは言っても全ての物事に対して素直でいられるという訳ではない。普通の人並みな感覚は当然持ち合わせている。なので会社に行くのが憂鬱に思える事だってあるだろう。


(今日は仕事の後に飲み会か……。人付き合いが上手くない俺からしたら面倒でしか無いんだよな……。別に早く帰って何かしたいってわけじゃないんだけども)


 そう思いながら彼は、リビング兼寝室とキッチン、風呂場とは別にもう一つ部屋がある。その部屋は全体の壁紙と異なっていて、壁に厚みを持たせていることで防音効果が万全になっているのだ。そう、健斗がこの部屋を契約する際、最も資金をつぎ込んだ防音部屋である。

 健斗は一人暮らしを始める時に、何か活動をしてみたいと漠然と思っていた。その中で目を付けた世の流行りが、動画配信だった。防音の部屋を設えて意気揚々と何かやってみよう、と思っていたのだが結局一度もやっていない。


(結局、あの部屋は物置になっちゃったんだよな……今は仕事が楽しいからいいけど)


 結果として防音部屋は、無用の長物となってしまっていたのであった。


「あの人みたいに在宅勤務、とかだったら快適に使えるのかもしれないな」


 健斗の勤めている会社では、現在一人だけが在宅勤務を許可されている。その人の働きや成果次第では在宅勤務の人数が増えるかもしれないという動きがあるようだ。


「……今日の飲み会は、珍しくあの人も参加する。だから出ないわけにはいかないんだよな」


 彼には憧れている女性の上司がいる。その女性は健斗が所属している課の課長なのだが、在宅勤務を実施している人であるために接した機会や時間はあまり多くない。彼女はいつも飲み会を欠席しているのだが、彼女が珍しく出席するという事でこれはチャンスだと意気込んでいた。


(もしかしたら、仕事以外の話とかできるかもしれない。……よし、今日はそれを楽しみに乗り切ろう)


 支度を終えた彼は、革靴を履き鞄を持って玄関から出た。マンションの三階の隅に位置する健斗の部屋。一部だけ防音仕様にしたこの部屋が、この先思わぬ方向で使われる事になるとは、健斗には全く想像もできていなかったのである。

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