魔術師団長に、娶られました。

有沢真尋

【第一章】

第1話 樹の上の出来事

 風が心地よかった。

 葉擦れのさやめき、やわらかな光。遠くで自分の名前を呼ぶ声には耳をふさいで、シェーラは目を瞑る。

 ざらりとした樹皮に頬をのせて、午睡を決め込むことに決めていた。

 やがて微睡まどろみ始めたそのとき、ミシッと木の幹がきしむような音がした。


「おや。こんなところに女の子が」


 ごく近くで少年の声が聞こえて、シェーラは身を固くする。驚きと恐れ。息が止まりかけた。

 自分がひどく不安定な場所にいるのを忘れて、がばっと身を起こす。

 次の瞬間、腕を掴まれた。


「危ない。落ちる」


 一瞬、体が浮いた感覚。

 シェーラの体は枝の上に留まっていた。

 目の前には黒髪に紫の瞳の、身なりの良い少年。シェーラより少し年上の、十歳くらいだろうか。目が合うと、腕を放しながらおっとりと微笑みかけてきた。


「驚かせてごめん。こんな場所でひとに会うと思わなかったものだから」


 樹上。地面ははるか下。

 身軽なシェーラは、側仕えの目を盗んで見咎められる前にひといきに上ってきたが、自分以外にもそんな荒業をする人間がいたことに驚いた。


「あなたも木登りが好きなのね。怒られない?」

「以前はね。今はもう僕の行動に関しては、諦められている。お前は言ってもきかないから、好きにしろって。君は怒られているの?」

「とても。貴族の御令嬢は木登りなんかしません、って。出来ることをして、何がいけないというの」


 ふふ、と少年は楽しげに笑って頷いた。


「それはそうだね。実際、ここまで上って来た君の膂力りょりょくはたいしたものだよ。そのまま、まっすぐその力を伸ばしていけば、将来君は腕利きの騎士にだってなれるんじゃないかな」


 騎士になれる。

 少年のその一言は、幼いシェーラの胸に魔法の言葉のようにするりと入り込んできた。


「素敵。私には兄も姉もいるし、家を継ぐ可能性はまずないの。生きていくには嫁ぐしか道はないって言われているけれど、そのためにはこういう『御令嬢らしからぬこと』をしてはいけないんですって。その……、『嫁ぎ先がなくなる』から」


 ――つまりですね。シェーラ様を奥様にしたいという男性が、この国のどこを探してもいなくなるんです。木に上り、悪戯をし、一日中外を走り回っているお嬢様が、立派な奥様になれるとは思えませんでしょう。


 家庭教師をはじめ、家族にもこれまで何度も言われ続けてきたこと。


(立派な奥様になれないのは、いけないこと? 奥様でなくても、何か違うもので立派だと思われる大人になるのではいけませんか?)


 ずっと胸の中にあったその疑問は「他の何か」が思いつかないばかりに、反論として言葉にすることができなかった。

 けれど、騎士ならば。


「これは僕個人としての意見だけど、仕事と結婚はどちらか一方だけを選ぶものでもないと、考えている。君は、将来結婚だけをするつもりで体を鍛えていなければ、騎士にはなれないけど、騎士になるつもりで鍛錬を怠らず、その上で結婚するなら、両方叶えられる」


 両方。どちらも捨てなくて良いというのはひどく魅力的な提案だった。


「そうよね! 私だって貴族の生まれですもの、ただわがままを言いたいわけじゃなくて、相応の教養が必要だというのはわかっていますのよ。それでも、私を『奥様』にしたい男性がいなければ、『奥様』にはなれないわけでしょう? そこで鍛錬。先に騎士になっておけば、奥様になれなくても、私は騎士でいられるわけよね?」


 シェーラが弾んだ声で確認すれば、少年はおっとりと品良く笑って頷いた。


「簡単ではないよ。両方を望むということは、二つの道を極めるということ。ひとの倍、努力と苦労をするということだ。君にその覚悟はある?」


 問いかけられて、シェーラは息を止めて少年を見つめる。紫水晶の瞳は、きらきらと愉快そうに輝いていた。

 その目を見ていたら、漠然と抱えていた不安は恐れるに足らないもののように思えてきた。大人になるのは、そんなに嫌なことじゃないのかもしれない。

 シェーラは前のめりになり、勢い込んで答えた。


「どちらか一方を諦めて、捨ててしまうよりもずっと良いわ! ありがとう、あなたのおかげで目の前が晴れたみたい! 目標ができるってすごく清々しい!」


 少年の手を取り、興奮のままぶんぶん、と振り回す。「わ。おっと」と言いながら振り回された少年は、シェーラをしげしげと見つめて、蕩けるように微笑んだ。


「僕にも目標……というか、生きる目的ができたように思う。君に会えて良かった。君の選んだ生き方が、君を幸せにしますように。どちらも実現できるよう、見守っているよ」



 品良く優雅に笑った少年の笑顔が、まぶしかった。


 それから実に二十年経過した今となっては、もうぼんやりとしか思い出せない。

 しかし、シェーラがその後周囲の反対と戦い続け、騎士団最初の女性副団長まで上り詰めるきっかけになったのは、間違いなくその日の少年との出会いであった。


 名前すら、聞かなかった。


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