僕は、関係しない。

のび

長雨

それは静かな秋雨の降る夜のことだった。


僕は新調したてのブルーグレーのソファーに身を沈めながら瞳を閉じ、僕の部屋に満ちる叙情的なジャズに精神を浸していた。

スタン・ゲッツが吹くサックスの柔らかさ。その音色に共鳴する、トランペットの線。それらは、どこかソファーの生地に似ている。



ローテーブルに置いた僕の電話がおもむろに鳴った。僕は飲みかけのオン・ザ・ロックをテーブルに置き、電話に示されたナンバーを見遣る。


「1949-0112」

市外局番以降のそれは僕のよく知る数字 

―僕の生年月日である。

しかし、電話の相手に覚えはない。


心地いい酔いが、些かの好奇心に変わる。──それは後で振り返っても、僕らしからぬ事だが──僕は受話を取ることにした。


僕は電話を耳に宛てようとして、それを直ぐに遠くへ離した。青年とおぼしき相手は、大声で喚いている。


―― 「ねぇ!俺の頭にはあのビートがずっと流れてるんだ!

床に垂れた精液、部屋中に飛び散った腐ったパイン、折れ曲がった注射針、つぶれて溶けてる赤い口紅、


そういうものが詰まったこの部屋にいると、鼓動が激しくなるって堪らないんだ!僕にはあいつらのビートが、叫びが、聞こえるんだ!


俺は全てを破壊しなきゃならない。この世間て奴への怒りで体中が激しく脈打つん…――」



どうやら相手の話は長くなりそうだ。

「番号を間違えていますよ」と僕は静かに言い、そのまま電話を切った。


注射針…彼は薬物中毒者か。

やれやれ、と僕は思った。

薬物も、自分軸にはないものへの怒りも、僕には無縁だ。



そういえば、先に聴いていたスタン・ゲッツも薬物中毒者だった。あの電話はゲッツのメタファーとしてそう悪くない。


窓を伝う灰色の雨粒達が付いては離れ、僕の視界から落ちていく。


僕は琥珀色のオン・ザ・ロックを一口飲み、ゲッツのレコード盤を止め、クラシックのレコード棚へと向かい、取り出したシューマンの盤に針を置く。心地よい調べが電話で穢れた部屋を清浄にしてゆく。



「1949」

僕は小説家として四半世紀を過ごしてきた。それは月に照らされた白い浜辺を独り踏み歩くのに似ている。


夜。四角の窓に纏わる灰色の雨粒。そして、窓に映る青年期をとうに過ぎた僕。


僕の人生はずっと秋のようだ。

嫌いではない、むしろそれは心地いいともいえる。しかし何かが足りない。


恋人も何人かいたが、彼女達との性差という溝を、僕の意識は知覚してしまう。

しかし足りないものが他者との完全なコミットメントであるなら、それは誰しもがなし得ないことだ。


美しい音楽も、荘厳な美術工芸も、

僕の内界の隙間を埋めるようでいて、

人工物であるがゆえに、弾けて消える。

それも仕方ない。


僕は軽く溜め息を吐いた。

電話口の向こうでは、やがては夏が去り、熱に浮かされたされた彼をなだめる風が吹くだろう。大人になるとはあらゆるモノと折り合いよく生きることだ。


だが、彼の事はどうでもいい。

ーー コミットメント。

僕は他人に関係しない。

今日も僕は静かな浜辺を歩くのだ。



〈了〉

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僕は、関係しない。 のび @kochousui

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