あの人さえいればいい

神田(kanda)

第1話 始まりの日

最早、私には分かりませんでした。



私の父も、母も、優秀な人でした。祖父も、祖母も高潔な人徳者でした。私はそんな家族を尊敬しておりました。また、そんな家庭に生まれることができ、勉学に励むことができる私はなんて幸せ者なのだろうかと、思っていました。そう、思わされていました。高校生の時です。私は壊れました。私は、空っぽだったのです。勉学に励み、その思考の渦の最下層で、1つの真理に、いえ、人であれば誰しもが思い、悩み、苦しむであろう、すごくありきたりな考えにたどり着きました。私は私ではなかった。私は自由だと思っていました。そうです。全ては己の意思で大学を目指し、良い大学に行き、卒業し、人に「ああ、立派だねぇ」と言われるように孝行し、人から尊敬される人格者になるのだと思っていました。これは間違いだったのです。そしてこれは、親も家族も、私の周りにいる全て人々の罪でありながら、彼らは何も悪くないのです。彼らにとっての普通、正義が私を苦しめた。私を壊した。私は彼らの理想の人格を作って、本来の自分を抑え込んでいたのでした。ええ、そうです。すごくありきたりでしょう。ですが、こんなありきたりなものこそが、人を生涯に渡って苦しめる、つまり、諸悪の根元なのです。私は、壊れて、私をさらに壊そうとする人々を本気で恐怖しました。ここにいてはいけない。駄目だ。逃げよう。そうして私は十、数年間、両親のお陰で育った肉体と、両親のたゆまぬ努力と研鑽の上に得た報酬であるお給料から得た様々な物、服や下着、リュックサックにお財布、そういったものを持ち、家から飛び出しました。私は盗っ人です。これが私の最初の罪でありました。


次の罪です。私は本当に何も知らない無知な少女でしたから、とにかく遠くへ行こうと、普段通学に使っている電車の進行方向と逆の方向へ行きました。とりあえずホテルか何かに今日は泊まろうと考えていたので、残りの所持金を考えて、適当なところで降りました。ここにくるまでに何回も乗り換えをしました。そうしてたどり着いたのが、この町でございます。私はこの町が最初、楽園だと思いました。全てが、というわけではありませんでしたが、あらゆるものの殆どが新鮮でした。しかし、すぐにつらくなりました。お金がほとんど無くなりました。飢えというものを生まれて初めて感じました。しかし、家に戻りたい、とは思いませんでした。何度も交番の前を通り過ぎてはその考えが頭に浮かびましたが、帰った先に待ち受けているのは、死、だと思いました。本当に死ぬなんてことはないのです。家族の皆様方は、本当に優しい。今もきっと必死に私を探しているだろうし、もし家族の元へ帰ったら、「父母が悪かった、ごめんね」と謝罪をし、無条件の愛で包み込んでくれるのでしょう。ですが、それは、私にとって最大の悪でした。こんな娘でごめんなさいと思いながら、私は町をぶらぶらと歩きました。自己嫌悪の毎日でした。そしてついに空腹の末、路地裏でうずくまりました。すると、私が入った方向とは逆の方にコンビニが見えました。私がやることは一つでした。つい先程とは打って変わり、力が身体中から溢れ出てきました。コンビニの中はキラキラと輝いていました。目に写るもの全てをかっさらって、獣のごとく食べてやろうと思いました。しかし、そんなことは出来ません。とりあえずこの空腹を抑えようと、一番美味しそうなパンを手に取り、上に着ている服の中に隠しました。ズボンの中に服を入れて、何も知らん顔をして外へ出て、先程の路地裏に来て、食べました。泣きながら食べました。


そうして食べ終えたところで、「美味しかったかい?」と後ろから声がしました。それが、あの人でした。最初、私はどうやって逃げようかを考えました。ですが、コンビニの防犯カメラから、こんな小娘一人、あっという間に捕まえられてしまいます。ああ、もう終わりだ。家族の皆様ごめんなさい。ご友人の皆様ごめんなさい。私は諦めました。すると、あの人は私の諦めと絶望の顔を見て察したのか、「別に私は君を警察につきだそうとか、そういうことは考えていないよ。ただ、提案があるんだ。その格好からして、家出少女といったところだよね。私は君を可愛いと思った。だから、うちにこないかい?私を慰めてほしいんだ。」と言ったのです。私はもうなんでも良かったのです。警察とかいう正義の組織に捕まえられることを避けられるのなら、もう、何でもよかったのです。そうして、あの人のお家に行きました。いわゆる高層マンションというやつで、広い部屋でした。そこには、あの人だけが住んでいたようで、私と二人きりでした。


最初にお風呂に入りました。かれこれ2週間ぶりくらいのお風呂でした。あの人と私には10歳程の歳の差がありましたので、あの人は私を子供扱いして、一緒にお風呂に入り、体を洗ってもらいました。そのお風呂はとても広く、湯船は、二人で一緒に入っても、スペースがたくさんありました。そうして、お風呂から出て、体を拭き、食事を取りました。暖かい料理に涙が出ました。あの人はそんな私を見て、「泣き虫だね、君は」と言いました。私はそれを、違いますと言いたかったのですが、言えませんでした。そして、一緒に食事を片付け、一緒にソファーに座りました。そうして、まず、名前を聞かれて、答えました。他にも色んなことを話しました。家族のこと、学校のこと。話している途中で、泣いてしまいました。私は本当に空っぽだったのだなと思い、苦しくなったからです。そんな私を、あの人は、そっと抱きしめてくれました。あの人の、温かい体温が服を通して伝わってきました。「ここまでよく頑張ったね。君は本当に素敵な子だよ。自分から逃げなかった。君は本当にいい子だね。君は、とても偉い子だよ。」そう言われて、頭を撫でられました。こんな、いい子じゃない私をいい子といってくれて、嬉しかった。私は緊張の糸が途切れたのか、その後、抱きしめられたまま、気絶するように眠ってしまいました。これがあの人との最初の夜でした。この日が、この日こそが、始まりの日だったのです。

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