19 可喜可賀

天は高く、澄み切った青がどこまでも遠く広がり、本日は雲一つない見事な快晴である。

こんな日は、気持ちよく散策に出かけるか、はたまた日向で丸くなってまどろみを楽しむかに尽きるのだけれども、実際問題として、そんなのんびりとしている余裕は、今の私には一切なかった。


「……ええと……建設補助の木の氣の神牌しんはいはこれでよくって……ああそうだわ、建設現場の土も整えなくちゃいけないから土の氣の神牌しんはいも……あ、だったら水の氣の神牌しんはいも用意して水場ももちろん整備しなくちゃ…………」


ぶつぶつと呟きつつ、今日も今日とてこの私、かい宝珠ほうじゅは、この五星国の後宮、その中でも黄妃宮と呼ばれる一角にて、依頼された神牌しんはいの修繕と制作に勤しんでいる。依頼主は夜昊やこう様、ではなく、彼の部下である官吏の皆様だ。

先達ての、青妃様が煽動した内乱から、既に二か月が経過している。もう二か月、と言うべきか、まだ二か月、と言うべきかは、未だに非常に悩むべきところではある。

あの内乱で、皇宮も城下も荒れに荒れ、今なお復旧作業にあちこちがてんやわんやしているというのが現状だ。現在も夜昊やこう様専属の女官兼創牌師そうはいしとして後宮に勤める私は、宮廷や城下の復興を急ぐ官吏の皆様に、夜昊やこう様を介して泣きつかれ……もとい、頼み込まれ、必要な神牌しんはいを日夜用意し続けているというわけである。

あの内乱の実態のすべてを、正確に理解しているのは、おそらく当事者であった夜昊やこう様と、その夜昊やこう様から何もかも説明していただいた私だけ、なのだろうとは思う。

青妃様がなぜあのような凶行に至ったのか。そもそもなぜ夜昊やこう様が皇帝の座に就かれたのか。その理由を聞かされたとき、あまりにも腹が立って、あまりにも悲しくて、私は夜昊やこう様の前でブチ切れながら泣きじゃくってしまった……とは、思い返すのもお恥ずかしい、まったくの余談である。


――宝珠ほうじゅがそうやって泣いてくれるなら。

――僕はそれで十分だよ。


そう言って、何やら憑き物が落ちたかのように微笑んだ夜昊やこう様のその笑顔に余計に涙がて来て止まらなかった。最終的に彼にぺろりと涙をなめとられ、「でも、宝珠ほうじゅに泣かれるのは、僕も辛いなぁ」なんて困り果てたように苦笑されてしまったら、いつまでも泣いてはいられなかった、というのも、これまたまったくの余談なのだ。

そんな夜昊やこう様の力になれるならばと、「断ってくれても構わないのに」とあっさりと言う夜昊やこう様の台詞を聞かなかったことにして、私は復興のための神牌しんはいの修繕と制作に没頭する日々に飛び込むこととなった。

その間に何があったのかと問われれば、まあ本当に、それなりに色々あった。青妃様が主犯であったことはすぐに知れ渡る事実となり、彼女の生家である春家は責任を問われる運びとなった。いくら青妃様ご自身がその命を散らしたとしても、それで「はい終わり」とするわけにはいかないことくらい、私にも解る。

なお、彼女の護牌官である宵華様は、青妃様が亡くなったことを知ると、自ら命を絶たれた。

あの内乱の日、彼女が青妃様の元に辿り着く前に、先に私のほうが夜昊やこう様と青妃様のもとに到着し、そのまま自分が間に合うことができなかったことを、宵華様は悔やみに悔やんで、牢の中でその後の沙汰を待つことなく、隠し持っていた暗器で喉を突いたのだと、私は夜昊やこう様から聞かされた。

また一つ罪が重なってしまったね、なんて、冗談にしては笑えなさすぎる発言をかました彼の頬をつねり、「半分こですよ」と進言させていただいたのは記憶に新しい出来事である。

青妃様に利用されただけとはいえ、内乱に手を貸すことになった黒妃様は、幸いなことに命は取り留めた。私の治療用神牌しんはいもどきが功を奏してくれたのだそうだ。

ただし問題は、彼女の龍穴りゅうけつは、彼女の背に存在していて、宵華様によってそこを見事に斬られてしまったことで、彼女の龍氣はすべて封じられることとなってしまった、ということだろう。

この五星国で、龍氣を封じられては、まずまともに生きてはいけない。だからこそ彼女は極刑をまぬがれ、生家である冬家に生涯の謹慎を申し渡された。

もしかしたら死んだほうがマシだったと、彼女は言うかもしれない。私のことを、さぞかし憎んでいることだろう。けれどそれでも、生きていれば。生きてさえいれば、未来はあるから。どうかその『当たり前』に、彼女もまた気付いてほしいと思う。

ああそうだ、生きてさえいれば、と言えば、朱妃様の護牌官である煉鵬様と、黒妃様の護牌官である氷雅様も、前者は元気に、後者はぎりぎり、という注釈は付くものの、どちらもちゃんと生きている。

女子会と表されて追い出された煉鵬様は、氷雅様によって捕らえられてはいたものの、そこに朱妃様と白妃様が駆けつけて事なきを得たそうだ。ついでに氷雅様は、今度はご自身が宵華様によって虫の息にされて捕らえられていたそうだが、そこをなんとか生き延び、今は妹姫である黒妃様とともに、春家同様に責任を問われている冬家にて謹慎……というか、幽閉されている、のだそうだ。

誰も彼もが救われたわけではない。そんなことは当たり前だ。私にとっての幸運が、誰かにとっての不運になる。それはきっととてもずるいことで、けれど逆もまた然りなのだから、私は今回の『幸運』を粛々として受け止める所存である。

ううむ、それにしても、そろそろ疲れてきたな。本日の達成目標まであと何枚だろう。休憩を入れるべきだとは解っているけれど、こうなると一気に仕上げてしまいたいところだ。

というわけで、さてお次は……と、絵筆を握り直し、新たな神牌しんはいに手を伸ばした、ちょうどそのときだ。


宝珠ほうじゅ

「あら、夜昊やこう様」


そっと声をかけられて顔を上げると、いつの間にか夜昊やこう様がそこに立っていらした。きらきらと金の髪と金の瞳が星のようにまたたいていて、本日もこれまたお美しく麗しい風情でいらっしゃいますねぇ、なんて思いつつ一礼する。

そんな私を、夜昊やこう様は、あろうことか、ひょいっと両腕で抱き上げてくださった。いきなりの行動に絵筆を取り落として「ひゃあ!?」なんて間抜けな悲鳴を上げる私に、くつくつと夜昊やこう様は楽しそうに笑う。


「ちょ、ああああああの、夜昊やこう様!?」

「休憩、休憩。僕も君も、そろそろ休憩すべき時間だよ」

「そんな勝手な……!」

「この五星国では僕が法律だから問題ないさ。安心して」

「どこをどう安心しろと…………って、ああもう、はい、ご自由にどうぞ……」


ここで下手に暴れて夜昊やこう様の腕から落ちたら、まあまあ無事には済まない自信があるので、大人しく私は彼の腕に身を任せることにした。私のことを両腕で横抱きにした夜昊やこう様は、そのまま私が作業場としている広場を後にして、中庭へと向かい、そのままその一角に存在する小さな東屋へと足を踏み入れる。そう、そこで私のことを降ろしてくれるかと思いきや。


「……あの、夜昊やこう様」

「うん?」

「いえ、あの……」

「何?」

「…………なんでもございません」

「ふふ、そう」


負けた。圧倒的敗北感に打ちひしがれるより他はない。降ろしてくれるどころか、夜昊やこう様はあろうことか私を膝に乗せて自分が腰を下ろし、ぎゅ、とまるで……ではなくまさしく私を抱き締めて、東屋に陣取られた。

ものすごく突っ込みを入れたいところだというのに、輝かしい笑顔の圧に黙殺されてしまった。悔しいけれど勝てる気がしない。というわけでやはり私の敗北なのである。

私が抵抗を諦めて大人しくなったことに敏く気付かれた夜昊やこう様は、また小さく笑って、そのまま私の髪に顔を埋めた。吐息が肌に触れてくすぐったいのだけれど、文句を言う気にはなれなかった。


「お疲れですね」

「……解る?」

「いくらなんでも解りますよ」

「ふふ、ふ、ははっ、そう? そうかな。君くらいだよ、そんなことを僕に言うのは」


褒められているのかとがめられているのか、絶妙なところで判断に困る言い回しである。とりあえず、今なお続く内乱後の復興施策に追われてこれ以上なくお疲れの覇王サマの頭を、なでなでと撫でる。甘えるようにすり寄ってくる彼に、思わず苦笑がこぼれた。


「お疲れ様にございます、夜昊やこう様」

「…………うん」


あ、これは甘える“ように”ではない。完全に私に甘えるおつもり満々だこのお方。けれどそれを拒絶する気になるはずもなく、私はゆっくりと彼のすべらかでなめらかな、とろけるように柔らかい髪を指で梳く。

穏やかな風が吹く。季節は巡る。この五星国は、これからもこうして続いていくのだろう――――と、そこまで思って、不意に「あ」と思わず声をもらしてしまった。私の髪に顔を埋めていらした夜昊やこう様が顔を上げて首を傾げてきたので「あの」と口火を切る。


「このようなことを私が申し上げるのは僭越ではございますが、あの、このままでは後宮制度そのものが変わってしまいそうですよね?」


そうだった。なんとなく聞けずじまいになっていたけれど、今回の内乱の主犯は、あろうことか青妃様と黒妃様だ。四人の妃のうち、その半分が皇帝に対して反旗を翻したと言うことになる。

それはひいては、十年前の季家の反乱――正確には冤罪であったとはいえ――に繋がる結果になってしまうのではなかろうか。現在進行形で責任を問われている春家と冬家。あくまでも青妃様と黒妃様の個人的な暴走が根本的な原因であるとされているから、春家も冬家も季家のように断絶にまで追い込まれはしないだろうけれど、それでも今まで通りに再び新たなお妃様を擁立する……というのは、四方八方からそれはいかがなものかと言及されかねない。でも。だがしかしだ。


「五星国の龍脈の安定の要は、確かに夜昊やこう様……皇帝陛下です。しかし皇帝陛下だけではなく、五行のことわりをそれぞれ司るお妃様方の存在も欠かすことはできないのではありませんか?」


お妃様、という形に囚われる必要性はないのかもしれないけれど、五星国の存続のために引き続き四大貴族もまた存続を求められるだろう。かつては五大貴族と呼ばれた、その一角であった季家の血が、今となっては夜昊やこう様の身にしか流れていないならばなおさら、その他の部分で補い合う必要性がある……って、ちょっと待った。


「そもそも、夜昊やこう様は、ご自分の御子を残されるお気持ちはない、の、でしたっけ……?」


そういえばそうだった。だからこそ、私とこのお方の『賭け』は始まったのだ。

けれどそれは、よくよく考えてみなくても、とてもとても、それはもうものすごくまずい決心なのでは……?

そうだとも。五星国は五行のことわりの上に成り立っている。五つの氣の流れにより安寧を保つ国だ。その要となるのが皇帝であり四大貴族であるというならば、ここで夜昊やこう様が自らの血、すなわち土の氣を司る季家の血をいよいよ終わらせるおつもりならば。それは、すなわち。

まさか、と思いつつ、恐る恐る夜昊やこう様を見上げる。そして後悔した。も、ものすごく楽しそうに笑っていらっしゃるぞこの覇王サマ……! まさか、とは思ったけれど、これは本当にまさかにまさか。思わず身構えた私が、そのまま彼の腕から逃れようとしたことに、夜昊やこう様はしっかりばっちり気付いたらしい。両腕で完全に抱き締められてしまい、ひえええええとおののく私のことなんてなんのその、彼は本当に楽しそうに続ける。


「うん、たぶん宝珠ほうじゅの予想通りだ」

「と、申しますと、もしかしてもしかしなくても……」


震える声で問いかけると、ふふ、と夜昊やこう様は笑みを深める。穏やかで柔らかで、それでいてなぜか空恐ろしさを感じさせる、底知れない笑みだ。こ、こわ……慣れたつもりだったけれどこわいものはこわ……!

視線を逸らすこともできずに顔を引きつらせると、そんな私の鼻先に、彼はちゅっと音を立てて唇を寄せた。不意打ちに硬直する私の耳元に、その唇が寄せられる。


「そうだよ。こんな国、滅んでしまえばいいと思っていたし、滅ぼしてしまおうと思っていた」


とっておきの秘密を打ち明けるように、楽しそうに、そしてどこかさびしそうに、夜昊やこう差はそう言った。

ああ、やっぱり。やっぱり、そのおつもりだったのか。そう納得してしまう自分が確かにここにいて、改めて無性に悲しくなる。

夜昊やこう様が皇帝として在位したまま、四大貴族のお妃様方にその御子を授ければ、季家の血は、五星国の土の氣は潰えることなく連綿たる流れに組み込まれる。それこそが、夜昊やこう様こそが皇帝にふさわしいと勝手に決めてくださりやがったかつての青太子たる藍霞様の狙いだったに違いない。夜昊やこう様はもちろんその狙いに気付いていらして、だからこそ、だからこそ、このお方は。


宝珠ほうじゅ

「は、い」

「嫌だな、そんな顔をしないで」

「も、うしわけ、ございま……」

「謝ってほしいわけじゃない。ただ僕が、君の泣き顔より、君の笑顔のほうが好きなだけ。まあ僕のために泣いてくれるその顔も、もちろんとても好ましいけれど」

「…………ひどい」

「うん、ごめんね」


ごめん、ともう一度繰り返して、夜昊やこう様は、気付けば私のまなじりに浮かんでいた涙にそっと唇を寄せてくださった。いちいち恥ずかしいことをさらりとしてくださるなこのお方、なんて、負け惜しみのように思って、それでもなおやはり悲しくて、私は結局どうしようもなくもっと泣きたくなってしまう。

このお方、は。夜昊やこう様、は。五星国において、最後の皇帝になられるつもりだったのだ。自らの血を残さずに、五行のことわりを破壊し、龍脈を断絶させ、そうして、この国ごと自らを殺そうとなさっていらしたのだ。それはなんて途方もなく罪深く、そしてどうしようもなく悲しい決意なのだろう。このお方にそんな決意をさせたのは誰だ。何だ。このお方が生来生まれ持った資質がそうさせたというのならば、天はあまりにも残酷すぎる。

ぐぅ、と、喉が奇妙な音を立てて、そのまま嗚咽が飛び出しそうになる。けれどその寸前で、片手で身体をさらに抱き寄せられ、もう一方の手でくい、と顎を持ち上げられて、顔を覗き込まれてしまい、情けなく泣き出す機会を失ってしまう。


「――――やっぱり、傷痕が残ってしまったね」


夜昊やこう様のまなざしが、私の顔をつぶさになぞっていく。彼が追いかける視線の先にあるのは、私の顔に走る大きな傷痕だ。化粧で描いた偽りの傷痕ではなく、青妃様の手により残された、間違いなく本物の傷痕だ。顔に大きく斜めに走るそれは、幸いにも、私の額の龍穴りゅうけつからはずれていたので、私は龍氣を封じられずに済んだ。我ながら悪運の強さにびっくりである。けれどこの傷痕は、生涯消えることはないだろう。今度こそ本当に、晴れて私は『キズモノ』である。

どんな神牌しんはいを使ったとしても消えないに違いないこの傷痕を見る夜昊やこう様の目は、いつだって複雑そうだ。ほら、今だって、大きな後悔と、ほのかな歓喜が、その金色の瞳の中で入り乱れている。


「こ、んな、傷痕くらい、大したものではないと、もう、お伝えしたでしょう?」


大丈夫なんですよ、と、いまだに震える声でそう続けると、夜昊やこう様は困ったように笑って、「だからだよ」と肩を竦めた。だ、だから、とは? 意味が解らず瞳を瞬かせる私に、彼はやはり困ったように、諦めと、それから確かな悔しさがにじむ声音で続ける。


「君がそう言ってくれるから。君が、その傷痕に後悔がなく、僕のそばにいてくれると言うから。だから、もう、いいんだ」

「もういいって……」

「だから、滅ぼさなくてもいいかなって。宝珠ほうじゅが望んでくれた、僕が当たり前に笑える未来がこの国にあるのなら、今更だけど滅ぼすのが惜しくなってしまってね」


つん、と唇を尖らせて、今度こそさも悔しさをあらわにしてそうぼやく夜昊やこう様の姿に、ああ、と、私は私で、先ほどとは別の意味で泣きたくなってしまった。

夜昊やこう様にそう思わせることができたのならば、それだけでもう十分だと思えた。ええ、ええ、そうです、そうなんですよ、夜昊やこう様。これからのこの五星国は、この世界は、ちゃんとあなたを受け入れ、導き、笑顔をもたらしてくれるんです。だって私がお側にいるんですから、とは、あまりにも傲慢が過ぎるだろうか。

いいや、傲慢でもなんでもいい。私はもう、頼まれたってこのお方から離れてあげる気なんてないのだ。問題は山積みだろうけれど知ったことではない。大丈夫だ。大丈夫なのだと、そう思える。だって私とこのお方の先には、まだまだあまたの可能性に満ちた未来が広がっているのだから。

だから、とこぼれそうになる涙をこらえて、唇をきゅっと噛んで笑ってみせる。そんな私を、なぜかまぶしいものでも見るような目で見つめてきた夜昊やこう様は、不意ににやりと口角をつり上げた。え、と思う間もなく、彼はこつんと自らの額を私の額にぶつけてくる。


「あと、宝珠ほうじゅとの子供が欲しくなったし……」

「え」

「あ、いや待って、嘘。いや嘘ではないのだけれど、子供はもう少し先でいいよ。僕はまだまだ君を独占していたい」


だからこの話はまた今度、とうそぶく夜昊やこう様に、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。ああもう、もう、夜昊やこう様というお方ときたら、本当に本当に、なんてどうしようもないお方なのだろう。婚姻の申し込みにしてはあまりにもへたくそな言い回しだ。もう少し別の言い方があるだろうのに、それなのに。


――でも。


このお方が、自らの御子を望まれる。そこにどれだけの覚悟が宿っているのか、もう理解できてしまうから、私にはもう最初から断るなんて選択肢はなくて、ふふふ、と不敵に笑い返してみせるのだ。


「お互いの腕が足らないくらいに、子だくさんの家族になりましょうね」

「ははっ! うん、楽しみにしてる。ああ、うん……うん、本当に、楽しみだね」


金色の輝く瞳を幸せそうに細めて笑う夜昊やこう様に、私もまた笑う。触れ合わせていた額を離し、改めて彼の顔を何とも言えに充足感とともに見つめていると、「あ」と夜昊やこう様がふと呟いた。


宝珠ほうじゅ。そういえば、言ってなかったけれど」

「はい?」

「愛してる」

「……へ」


今、さらりと。さらりととんでもない爆弾発言をされた気がしたのだけれど、気のせいだろうか。あまりにもこうさらりとしすぎていたものだから聞き間違いかと思ってしまう。

夜昊やこう様は、らしくもなく大真面目で神妙な顔になって、「うーん」と唸り、首をひねる。やはり聞き間違いだったのだろうかと残念に感じるべきか安堵するべきか迷っていると、夜昊やこう様はさらにうんうんと何度も唸り、瞳を泳がせ、そして改めて私へと視線を向ける。


「駄目だな、いざ口にしてみるとこんなにも安っぽい台詞になるのか。でも他になんて言ったらいいのか……大好き、だけじゃ足りないし、君がよくて君じゃなくちゃ駄目なのも事実で、でも、いまいち浪漫に欠けるというか……昨今の戯曲はどんな言い回しをしているのかな。ねえ宝珠ほうじゅ、どう思……」

「っ私も!」


ぶつぶつと呟きながら悩ましげに整った眉を寄せる夜昊やこう様に、気付けば身を乗り出していた。

もともとこれ以上なくくっついていたのに、さらに顔を近づけることになって、さすがの夜昊やこう様も驚いたらしい。吐息が触れ合う距離でぱちくりとまばたく金色の瞳を覗き込み、私はいっそもどかしいとすら呼べる切実な思いとともに、続ける。


「私も、愛しています。夜昊やこう様、あなたを」


あなただけを、と重ねると、金色の瞳が大きく見開かれた。はくり、と淡く色づく唇がわなないて、やがてその唇は、柔らかで甘やかな、とろけるような笑みの形を形作る。


「そうか。愛してるって、それだけでいいんだ」

「ええ、そうですよ。そのための、愛してる、でございます」


そうしてどちらからともなく重なり合った唇は、どんな砂糖菓子よりも甘くて、あまりにも甘すぎて、うっとりと酔っぱらってしまいそうなほどだ。

ああ、そうだ。きっと、このときのために、私は今まで生きてきた。そしてこれから私は、夜昊やこう様と、生きていく。彼とともに、当たり前に笑える未来を目指す。

途方もなく広く広がる世界が、こんなにも愛おしくて、大切で、そのすべてが夜昊やこう様のもとにあるのだと思うと、それはとても幸せなことだ。そう改めて納得するより他はなく、きっとそれは夜昊やこう様にとっての私も同じことで、だからやはり、私達は結局のところ、これから間違いなく幸せになるに違いないのである。

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