18-① 敗北
自分を抱き締めてくれるぬくもりが、その力強さが、確かに
――ああ、よかった。
――私は、間に合えたのね。
文字通りの間一髪だったけれど、私はこの方のもとに辿り着けたのだ。その事実に不覚にも涙がにじんだ。取り急ぎ作り上げた俊足を誉れとする大兔の精霊に、改めて感謝せずにはいられない。
この玉座の間に辿り着くまでに見た光景に、何度「もうだめかもしれない」「間に合わないかもしれない」「何もかもが遅いのでは」と絶望しかけたことだろう。納屋から大兔の背に乗ってやってきたこの場に至るまでの道中、あちこちで火の手が上がり、あらゆる
結果として、その判断は正解だったのだと思う。何せ彼は、私の目の前で今にも青龍に飲み込まれようとしていらしたのだから。血の気が引く、どころの騒ぎではなく、もう反射的に大兔に向けて「お願い!」とばかりに全力で龍氣を叩きこんでいた。自分よりもはるか高みに存在する四神の一柱に突っ込むだなんてさぞかし恐ろしかっただろうに、優しく勇敢な大兔は、私の思いに応えてくれた。
本当に、ギリギリだった。間に合った、間に合えたのだという感覚がじわじわと身体においついてきて、けれど、今はそんな感謝や感激や感動に浸っている場合ではない。まだ、何一つ事態は好転していないのだから。
「あの、
「うん」
「あの、お気持ちは、その、嬉しいのですが、いつまでもこのままでいるわけには……」
「うん」
「ですからですね、喜ぶにはお互いまだ早いと思います」
「うん」
「……聞いていらっしゃいます?」
「うん。聞いてる。全部、聞いているよ」
それでもなお片腕を私の腰に回し、そっと寄り添ってくださるのは、なんというかこう、手慣れていらっしゃるなぁ、なんて、そんな場合でもないのに感心してしまう。密着した身体から伝わってくるぬくもり、そして高鳴る鼓動は、いったいどちらのものなのだろう。そんな場合でもないというのにらしくもなくどきどきしてしまう私は本当に危機感が……って。
「…………
「は、はい?」
なぜか唐突にとんでもなく低くなった声で名前を呼ばれ、反射的に姿勢を正す。そんな私の片手を、すとんとあらゆる感情が抜け落ちた無表情になった
「この手、何」
「え」
な、何、と言われましても。問いかけの意味が掴めずに首を傾げつつ、
ええと……と視線を逸らそうとして、失敗した。そっと痛くないように、そのくせ決して逆らうことは許してくれない力強さで私の手を握り締めた
「こんなにも傷だらけになって……まさか拷問でも受けた?」
「ち、違います! これは自分でやったんです!」
拷問なんてそんな大それた事実なんて何一つない。いくら私のことをそれはそれは許しがたく思っている黒妃様や、理由は解らないけれど
私の両手にもはや数えきれないほど存在する切り傷はすべて、私自身の手によるものだ。痛くないのかと問われれば、それはもちろん「ものすごく痛いですが何か」と神妙に答えるくらいには痛いし、何より、
「……どういうこと?」
言い訳もごまかしも嘘も冗談も決して許さない、と言葉もなく覇王サマは語っていらっしゃる。となれば私にできることは、素直に正直に話すことしかない。
いや別に大した理由なんてないんですけども、と思いつつ、
ほーらこの通りぜんぜん平気なんですよ。痛いだけです痛いだけ……ってだめだぜんぜん笑ってくれない。いつもの穏やかな微笑みはどこに放り投げてしまわれたのだろうこのお方。
「ええと、その、どういうことも何も、何せ、絵筆も顔料もすべて奪われてしまっていたので。新たに
「血を、顔料にしたってこと?」
「はい。ついでに衣装を支持体にしたので、この通り裾や袖が引きちぎられた状態になりました」
まっさらな
ああ、でも。一つだけ、どうしても諦めきれない、後悔がある。その存在を改めて思い出した途端に、私の表情が曇ったことに気付かれたのだろう。
「申し訳ございません、
せっかくこの方がわざわざ選んでくださったものだったのに。そう思うとやはり後悔が押し寄せてきて、言葉が出てこなくなってしまう。ほとんど吐息のような声でもう一度「申し訳ございません」と繰り返す、その半ばで、がしりと両肩を掴まれる。え、と思う間もなく、間近から顔を覗き込まれる。
「っそんなの、どうだっていい!」
えっ酷い。私にとってはちっともどうでもよくないのに。そう反論しようとして、できなかった。
「違う、違うでしょう、
それなのに、と声を震わせる
私のためにそんな顔をしてくださるこのお方だからこそ、私は、かんざしのことを今もなお諦められないのだと、どうしたら伝わるだろう。いいや、どうしたらも何もなく、ちゃんと伝えなくてはいけない。
だから私は彼を見つめて、改めて口を開く。
「
「……逃げればよかったのに」
「は?」
おっと、あまりにも聞き捨てならない台詞に私まで低い声が出てしまった。しかも無礼極まりないにらみ上げ付きである。いや
再会してからこの方ちょいちょい酷かったけれど、これ以上なく酷い発言をかまされた気がする。私がまとう空気に怒りがもれ出たことに気付いたのだろう、
「生きていてくれたなら、逃げてくれればよかったんだ。どこへなりとも、そう、この国すらも飛び越えて、はるかかなたへ逃げてくれればよかったんだよ。それなのに」
それなのに、ともう一度繰り返して、くしゃりと
腰に回された彼の腕にぎゅっと力がこもって、ますます彼に引き寄せられ、ひえ、と思う間もなく、
「君が逃げてくれないなら、僕はもう、君を手放せなくなってしまう」
その、すっかり途方に暮れてしまった声に、私は思わず笑ってしまった。そんな私をどこか恨めしげに見つめてくる彼の金色の瞳に宿る熱に焦がされながら、なおも笑う。
「――――『賭け』、を。
そうして口火を切れば、きょとんと金色の瞳がまばたいた。思ってもみなかったことを言われたとばかりの反応だ。私もそう思う。随分と唐突な、今更すぎる話題だ。
私と
うむ、思い返すだに理不尽極まり『賭け』だ。そもそも『賭け』になんてなっていない。それでも乗るより他はなかった『賭け』だったから、私は今もなおこうしてこの場にいる。
「いいんですよ、
「な、にが?」
「だから、『賭け』の話です」
笑みを深めてみせると、なぜか
「あなたを放っておけなかった、私の負けなんです」
だからいいのだ。仕方ないのだ、こればかりは。
もうこうなってしまっては私が自分の力でお妃様方を追い出すことは叶わない。そもそもそんな場合ではない。
ただ、そういうことではなくて。ただただ、負けた、と、そう思ったのだ。
惚れた方が負けだぞ、とは、今は亡き養父の名言である。だってこのお方ときたら、本当にもうこちらが諦めざるを得ないくらいに、どうしようもないひとなのだ。慣れと諦めと妥協。これこそが人生をうまく生きていくコツだとしたら、なるほど、だからこそ私はこのお方を選んだのかもしれない。そして、
ううむ、
「でもね、
「……うん?」
気付けば不思議と穏やかになっていらっしゃる
「私は確かに『賭け』に負けましたが、でも、負けたからあなたのおそばにいようと思ったわけではございません」
そうだとも。それで人生を棒に振るほど愚かではない。そんなにも馬鹿だったら、私はとっくの昔にどんな手を使ってでも後宮から逃げ出していた。ねえ
「あなたがあなただから、おそばにいたいと思いました。あなたが生きていてくださったから、私はあなたを選びました」
少しだけためらったけれど、こうなってはもう何もかも同じだと思ったから、傷だらけの両手を伸ばして、呆然としている
「
「――――ッ!」
あいたたた、傷口が、傷口が……まずいなこれ、
あ、と思う間もなく、私を背に庇う
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