10-② 朱妃戦(後)

――朱妃様は、素直でお優しい方だわ。


まさかこんな局面でその人となりを知ることになるとは思わなかった。

私だって、いたいけな年下の少女の心の傷になりたくはない。というか、そんなものになるつもりなんて、少なくとも今は、かけらたりとも持ち合わせていないのだ。


「先ほども申し上げた通り、私は引くつもりはございません。来来ライライ!」


再び筆を走らせ火の蝶を呼び始めた私を前にして、いよいよ煉鵬れんほう様の瞳に冷酷な炎が宿り、朱妃様がさっと顔色を変えて唇を噛む。朱妃様の視界から、彼女をより近く背に庇うことで私を排除した煉鵬れんほう様は、淡々とした声で続けた。


「ならば僕も容赦はしません。朱雀」


朱雀が鳴く。高く、美しく、こんな場合でもなければうっとりと聞き惚れてしまいそうな、それはそれは心地よいさえずりだ。その鳴き声に呼ばれて、また大きな火球が生まれようとする。けれどその完成を待つことなく、私は大きく声を張り上げた。


「さあ、みんな! もういいわ、ありがとう! あなた達の好きになさい!」


私のその宣言に、蝶達がいっせいに歓喜の声を上げた。


「……何を言って……なっ!?」

「な、何よ!? 今更下位精霊が何をしたって、無駄だって言ってるのに!」


煉鵬れんほう様と朱妃様の驚きなどなんのその。

私の許可に応えて、宙を舞っていた無数の火の蝶の群れが、四方八方から朱雀のもとへと宙を駆け始めた。驚愕に目を瞠る二人の目の前で、次から次へと火の蝶は、朱雀の身体に自ら身を寄せ、そのまま溶けるように朱雀に吸い込まれていく。蝶達のその姿にためらいはない。一羽として躊躇を見せずに、むしろ歓喜を身にまとって、自ら朱雀に取り込まれていく。

観客達もまた朱妃様達と同様に驚愕と困惑にどよめくが、構うことはない。だって、私は何もしていないのだから。

虫の性を持つ火の蝶は、より強く明るい炎に焦がれる。自らの身を、その炎――朱雀という神にささげ、その力をより高めることを望む。今までは私が抑え込んでいたその衝動を、私はいよいよ解放してやっただけ。

蝶達は次から次へと、自ら朱雀のもとへと飛び込んでいく。同時に朱雀の身体が徐々に、けれど確実に、元より巨大だった身体がより大きくなっていく。それを横目に、私はなおも神牌しんはいを描き上げ続ける。もちろん呼ぶのは、同じ火の蝶達だ。来来ライライ来来ライライ、と呼ぶたびに蝶達は、朱雀のもとへと我先に急ぐ。

そうして同じ火属性の蝶を取り込み糧として、更に強大なる存在へと化していく朱雀のもとで、異変はすぐに現れた。


「っぐ、あっ!」

煉鵬れんほう!?」


それまで平然とした様子で朱雀を使役していた煉鵬れんほう様が、その場にがくりと膝をつく。その顔色は蒼白となり、呼吸はぜえはあと苦しげに荒い。慌てた様子で朱妃様が彼の顔を覗き込み、そしてはっと息を呑んで私へと視線を向けた。


「お前……! これが狙いだったのね!?」

「ご名答にございます」


来来ライライ来来ライライ、と口ずさみ筆を動かしながら、私は笑い返した。朱妃様の顔色が真っ青になる。その悲壮な様子に若干申し訳なくなるけれども、ここで手を休めるつもりなど毛頭なかった。

火の蝶を取り込み続けることで、朱雀は強制的に強大化し続ける。それはつまり、朱雀の神牌しんはいの使用者である煉鵬れんほう様の龍氣を、本人の許容量以上に絞り上げ続けるということだ。

人間の身に宿る龍氣には限りがあるもの、とは先ほども言った通り。朱雀に勝る神牌しんはいをすぐに用意できないのであれば、その朱雀の神牌しんはいの使い手である護牌官の煉鵬れんほう様の、龍氣を使い果たさせればいい。

強制的に龍氣を朱雀に吸い取られ続けている煉鵬れんほう様の呼吸が、とうとうひゅうひゅうと力のないものへとなっていく。あれは相当苦しいだろう。それでもなお、朱雀を神牌しんはいに送還しない根性は見上げたものだ。感心しつつも、さらに続けて、来来ライライ、と火の蝶を描いて呼ぶ。

いってらっしゃい、と見送る先では、炎で形作られている朱雀の姿が、とうとうゆらぎ始めていた。それでも朱雀は、自らに向かってくる火の蝶を受容する。たとえ自らが耐えきれない力におぼれそうになっていても、それでもなお。朱雀は、自らの眷属でもある火の蝶の献身を拒絶できない。

優しい神獣だ。そう、その神牌しんはいの描き手である、朱妃様のように。


煉鵬れんほう煉鵬れんほう! もういい、もういいわ! やめなさいったら!」

「だ、め、です。いけませ、ん、姫。僕は……」

「あたくしがいいって言っているのよ!? ねえ、ちょっと、お前、芥宝珠かいほうじゅ! お願い、もうやめてよぉ!」


このままじゃ煉鵬れんほうが死んじゃう、と。とうとうぽろぽろと涙をこぼしてしゃくり上げ始めた朱妃様は、煉鵬れんほう様に縋りつきながら、私に懇願する。そのあまりにも必死な姿に、良心がこれ以上なく痛むのを感じながら、私はわざと冷酷に見えるように笑ってみせた。


「さて、あなた様の姫君はこうおっしゃっていらっしゃいますが。どうなさいますか、煉鵬れんほう様?」

「ふ、ざけた口を……! 僕は、決して、負けは、しな……っ」


ぼたり、と。煉鵬れんほう様の鼻から鮮やかな赤が落ちた。鼻血が出るほどまで既に彼には巨大な負荷がかかっているのだ。困った。いくら香煙牌こうえんはいという場であるにしても、私だって前途有望すぎる少年の命を奪いたいだなんてこれっぽっちも思っていないのだけれど。そう、思っていないのだけれども。


「仕方ありませんね。来来ライライ


それでも諦めてくださらないならば、私は容赦なく追い打ちをかけるだけである。火の蝶が舞い、朱雀が苦しげに身をよじり、煉鵬れんほう様の鼻血がますますおびただしい量となって、そして。


「――――もう、いいって、言っているでしょう!?」


炎をかき消そうと願うような、悲痛な少女の悲鳴が響き渡る。姫、と、鼻血で濡れた唇をわななかせる煉鵬れんほう様を抱き締めて、朱妃様は泣きながら、そのこうべを私へと向けて深々と下げた。


「姫!」

「いいの、煉鵬れんほう。お前はよくやってくれたわ。だから」


だから、と、龍氣を情け容赦なく搾り上げられる負荷ゆえではない意味合いで顔を青ざめさせた煉鵬れんほう様を抱き締め、支えながら、朱妃様は涙に濡れる瞳で私を見上げた。


「この香煙牌こうえんはい、あたくしの……燦麗さんれいの負けです。だからお願い、もうやめてちょうだい」


お願いだから、と続ける朱妃様の声は、もう震えてはいなかった。ただただ、煉鵬れんほう様のために敗北を認めようとするその姿に、煉鵬れんほう様のほうが身体を震わせて、ひめ、と音にならない声を震わせる。それを見届けて、私は頷いた。


謝謝シェイシェイ


一言だ。そのたった一言で、私が呼び続けた、もはや数千を超す火の蝶の群れは、一斉に神牌しんはいへと封じられる。そうして煉鵬れんほう様もまた、苦しげに「謝謝シェイシェイ」と唱え、朱雀を送還し、そのままばったりとその場に倒れ込む。


煉鵬れんほう!」


悲鳴を上げて煉鵬れんほう様に取りすがる朱妃様のもとに、私は歩み寄った。涙に濡れる瞳でにらみ上げられるけれど、構うことなく、まっさらな神牌しんはいにさらさらと筆を滑らせて、来来ライライ、と呟く。


「やめて、もうあたくしの負けって言ったでしょう!? 煉鵬れんほうにこれ以上手を出さな……え?」


きょとん、と、朱妃様の赤い瞳が大きく瞬いた。その拍子に、大粒の涙がぽたん、と、地面に落ちる。私の神牌しんはいから現れたのは、蛇がからみつく杖と、同じく蛇がからみつく杯を持つ、少女の姿をした精霊だ。彼女はおっとりと微笑んで、その手の杖をかかげ、杯を煉鵬れんほう様に向かって傾ける。杖からほとばしり、杯からあふれ出たのは、穏やかな龍氣だ。それが、確かに、煉鵬れんほう様へと流れ込んでいく。真っ青を通り越して真っ白になっていた煉鵬れんほう様の顔色の血色がよくなって、その頬が紅潮し、彼の今にも消え失せそうになっていた吐息が健やかなものへと変化する。

その様子を前にして、いよいよぺたんと座り込んでしまった朱妃様は、呆然と私を見上げてきた。謝謝シェイシェイ、と医術と医薬を司る少女の精霊を神牌しんはいへと送還した私は、朱妃様に笑い返した。


「朱妃様がお優しいお方であるからこそ、このような戦法を取らせていただきました。度重なる無礼、心よりお詫び申し上げます」

「~~~~何よそれっ!!」


深く一礼する私に、朱妃様は跳ね上がるように立ち上がり、顔を真っ赤にして肩を怒らせた。


「だいたい、何よ、何なのよ! 気付かなかったけど、なんなのこの神牌しんはいの量! いくら下位精霊とはいえ、これだけの量を描いて、呼び出して、使役するなんてそんなの、そんなのずるいわ!!」


勝てるわけないじゃない! と怒鳴られましても、いやこれは朱妃様が私の安い挑発に簡単に乗ってくださったおかげでして……とは言わぬが花である。

ぷんすかと怒り狂う朱妃様と、そんな彼女を前にしてごまかし笑いを浮かべる私の間に、審判である将軍による「……勝者、芥宝珠かいほうじゅ!」という宣言と、大きな銅鑼の音が響き渡ったのは、それからほどなくしてのことだった。

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