9-② 誓い

考えてみれば、いいや、考えてみずとも、遅かれ早かれこのような状況になることは解っていたことだった。皇帝陛下の寵愛の行方。それはお妃様方のお心だけの問題ではなく、そのまま彼女達の生家の権力へと繋がるものなのだから。


「いくら僕が選任したとはいえ、あくまでも君は平民だ。わざわざ香煙牌こうえんはいを開くような相手ではないと言ったのだけれど……僕にとっても、四大貴族にとっても、想定外に君は優秀すぎた。僕が最近使っている神牌しんはいが、ほぼ君の手によるものだということを逆手に取られてしまってね。妃達以上に君を重用するならば、相応の実力を公の場で知らしめろってさ」

「ああー……。それはまた、光栄でございますと申しますかなんと申しますか……」


光栄ではあるけれどもまったくありがたくないし、こんなことになるくらいならばなんなら素直にこれっぽっちも嬉しくない。

そりゃあもちろん、覇王とうたわれる我らが皇帝陛下に、創牌師そうはいしとしての腕が認められ、彼の言葉をお借りすれば『重用』されるのは、実に誉れ高いことである。とはいえ、そうはいうものの。


夜昊やこう様……もう少しなんとかならなかったのですか……」

「…………いや、その、妃達よりも君の方が、ってところを見せ付けなくてはならいっていうのは、最初から君だって解っていたことでしょう? ほ、ほら、妃達よりも優れた創牌師そうはいしがいるから、妃達が僕に不要だとより強調……」

「それにしても香煙牌こうえんはいなんてものに至らせる必要はなかったでしょう。いくらなんでもやりすぎです」

「だ、だって、君の神牌しんはいが使いたくて……」

「……」


まるで迷子になった幼子のようにおどおどと余裕をなくす夜昊やこう様の姿に、私は深く溜息を吐いた。不敬だと言われようがなんと言われようが、ここで溜息を吐かずしてなんとする。夜昊やこう様に直接「やり方が下手すぎます」と申し上げなかっただけマシだろう。

まったくもって彼らしくない、いつもの鷹揚な様子なんてかけらも見当たらない、すっかりしょぼくれた様子を前にしたら、もう怒る気にも焦る気にもなれない。私とお妃様方の香煙牌こうえんはいは、もう決定事項なのだ。夜昊やこう様なりにこの事態を避けるように尽力してくださったらしいことはなんとなく解るし、それでもなお香煙牌こうえんはいが避けられない事態となってしまったのであれば、もう本当にどうしようもない。仕方のないことである。


宝珠ほうじゅ、ごめ……」

「失礼ながら、その謝罪は受け取れません」

「っ!」


夜昊やこう様の花のかんばせが悲痛に歪む。私が四人のお妃様方を前にして無様に敗北し、恥をかかされ、後宮を出ていかざるを得ない状況に追い込まれる姿が、彼の脳裏にありありと描かれているのかもしれない。なるほどなるほど、それもまた、本来の私の目的を考えれば、結果だけを見たら悪くはない選択肢ではある。

私と夜昊やこう様の『賭け』。私がお妃様方を後宮から追い出したならば、私は後宮を円満退職できるという賭けだ。けれど香煙牌こうえんはいが開かれるとなれば話は違ってくるだろう。私はお妃様方を追い出すことは叶わず、けれど後宮に居座ることはできないから、私のほうが追い出される運びになる、というわけだ。ただ単純に後宮を出ていくという目的だけを優先するならば、それはそれでいいかもしれない、と思わなくもない。でも。


――夜昊やこう様を、置いていくことになるのね。


私との『賭け』をなかったことにされた彼は、また別の誰かと、『賭け』を始めるのだろうか。不思議なことに、それは少々……ううん、なんだか無性に、ものすごくおもしろくない。

なんと表現したらいいのか解らない、そのもやもやとした感情は、そのまま顔に出てしまったらしい。むすっと眉根を寄せた私を見下ろして、夜昊やこう様は「君が怒るのも当然だ」と静かに沈んだ声で続けた。


「やはり香煙牌こうえんはいは、僕の権限で撤回させよう。そう簡単には納得しないだろうし、四大貴族に借りを作ることになることになるけれど、君が危険にさらされるよりは……」

「いえ、夜昊やこう様。そうではございません。私が謝罪を受け付けないと申し上げたのはその点ではないのです」

「……宝珠ほうじゅ


きょとん、と金色の瞳を瞬かせる夜昊やこう様に、私は笑った。心からの渾身の笑みを。

見開かれていく金色の瞳をまっすぐに見上げてから、最上級の敬意を込めて一礼してみせる。


「その香煙牌こうえんはい、喜んでお受けいたしましょう。お妃様方、四大貴族の皆々様におかれましては、このかい宝珠ほうじゅが身に余る名誉に粛々として御礼を申し上げていたとでもお伝えくださいませ」

「っ宝珠ほうじゅ!」


夜昊やこう様の声が荒げられた。やはり彼らしくないな、なんて思う私を気遣う余裕は、やはり彼にはないらしい。先ほど取り戻されたはずの余裕をまたしてもかなぐり捨てて私を見つめる彼の金色の瞳には、いよいよ明らかな怒りが宿っていた。


「君は解っていない、香煙牌こうえんはいがどういうものか。市井のただの試合とはわけが違う。皇帝の名の下に、相手の命を奪うことすら許されるんだよ。たとえ妃達が君をなぶり殺したとしても、誰も異を唱えない。僕自身にすら、叶わない。それに」


何より、と低く続けてから、ひとたび夜昊やこう様は深く息を吐き出した。そうやってかろうじて自分を落ち着かせ、ぎりぎりのところで冷静さを取り戻した彼は、さらに続ける。


「君には護牌官がいないでしょう。いくら白妃という例外があるとはいえ、まさか君まで護牌官なしで香煙牌こうえんはいに臨むつもり?」


あ、やっぱり白妃様は護牌官なしで香煙牌こうえんはいに臨まれるおつもりですか。流石、夜昊やこう様すら認める武人でいらっしゃる……と心から感心しつつ、こっくりと頷く。まさかも何もない。


「もちろんそのつもりですが」


今更私が自分で護牌官を用意できるわけがないし、夜昊やこう様のこの様子から察するに、今回の香煙牌こうえんはいにおける私の扱いはそういうもの、ということなのだろうということが解る。だからこそ夜昊やこう様はここまで焦ってくださっているというわけだ。

護牌官なしで臨む香煙牌こうえんはい。私は、創牌師そうはいしとして自ら神牌しんはいを描きながら、守り手もなくその神牌しんはいを扱って、相手を降すことを求められているのである。やはりなんという無茶ぶり。どう考えても私を亡き者にしようとしているとしか思えない設定である。

その上でその香煙牌こうえんはいに出ると申し上げている私を見下ろして、夜昊やこう様はすとーんっと無表情になった。このお方、驚きすぎると笑顔を忘れるくせがあるらしい、とは、最近気付いた事実である。


「…………君、頭は悪くないし、それなりに敏いし、まあまあ賢い部類に入る好ましい女性だと思っていたのだけれど、もしかしてもしかしなくても僕が好かない馬鹿だった?」

「失礼な」


そこまでおっしゃいますか、と物申したくなるくらいにものすごくこき下ろされてしまった。褒められている部分すら絶妙に褒められているとは思えないこの言い回し、あんまりではなかろうか。むっと眉をひそめてみせると、その眉間がびしんっと人差し指で弾かれる。

痛い。酷い。抗議の意味を込めて犯人を見上げると、その犯人である夜昊やこう様はぐしゃぐしゃと自らの髪を掻き乱し、視線をさまよわせ、天井を仰ぎ、そうして最終的にはっと息を呑んで、わざわざ身を屈めて間近から私の顔を覗き込んできた。近い。


「だったら」

「はい?」

「だったら、僕が君の護牌官になる」

「……はい?」


なんか言い出したぞこの覇王サマ。

唖然と固まる私のことなどなんのその、夜昊やこう様はうんうんと何度も頷き、その美貌に満面の笑みを浮かべて、楽しそうに語り出した。


「そうだ、そうしよう。香煙牌こうえんはいに皇帝が出てはいけないなんて決まりはないし、僕が出ればそれだけより君が特別であることを立証できるし、僕以上の神牌しんはいの使い手はこの五星国にはいないもの。任せて、宝珠ほうじゅ。君の神牌しんはいで、僕は妃達を徹底的に叩き潰してみせる」

「え、あの、夜昊やこう様、それは少々どころではなくまずいのでは……?」

「それに」

「え」


皇帝が香煙牌こうえんはいに出てはいけないというきまりがないのは、それが言うまでもない常識だからだ。前例なんてあるはずがないし、今後もその前例は作られてはいけない案件である。

それなのに目の前の覇王サマときたら、さも名案だとばかりにきらきらと瞳を輝かせて、にっこりと私に笑いかけてくる。


「何より、僕こそが、君を守ることができる」


だからそうしよう、と嬉しそうに笑っていらっしゃるけれども、ここで「ならばお願いします」なんて言える馬鹿がどこにいるというのか。

先ほどこのお方は私のことを馬鹿扱いしてくださったけれども、ご自分のほうがよっぽどである。なんだ、この方に何が起こったというのか。いや何が起こったにしても関係ない。ここで私がすべきことはただ一つ。


「お断りいたします」


そう、覇王サマのありがた~~いご提案を、却下させていただくことである。すっぱりはっきりさっぱり、我ながら取り付く島も、手を伸ばす先の藁すらもないようなイイ笑顔でお断りしたところ、逆に夜昊やこう様の輝かしい笑顔は「えっ?」と凍り付いた。


「ど、どうして?」

「どうしても何もございません。当たり前でしょうに」

「僕がいいって言っているのに?」

「“皇帝陛下”がおっしゃっていらっしゃるならば、なおさらにございます」

「っ」


夜昊やこう様がぐっと言葉に詰まり、悔しげにその薄い唇を噛んだ。

麗しの佳人の悲痛な姿にぐっと胸が締め付けられるような気がしないでもなかったけれど、この方の性格を鑑みるに、間違いなくその様子は演技である。彼が私を心配してくださる想いに疑いはない。ないのだがしかし、そのやり方はいただけない。ずるいお方、と苦笑して、私は思わずその手を彼の頬へと伸ばした。無礼だと解っていながらも、そっとその滑らかな肌に触れる。とがめられることはなかった。むしろ甘えるようにすり寄ってくる彼に、ふふ、とつい笑ってしまう。


夜昊やこう様」

「……だって、僕が君を守りたいのに」

「そのお気持ちに、私はお答えいたします」

「どうやって」

「もちろん、香煙牌こうえんはいにて」


笑う。笑ってみせる。息を呑む夜昊やこう様に、私は続けた。誰にも覆させない、たとえ覇王サマにだって覆せない、誓いの言葉を。


「見ていてくださいませ、夜昊やこう様。私、かい宝珠ほうじゅは、あなた様に、必ずや四つの我が勝利を捧げてみせましょうとも」

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