7-③ 逢引

寝台から文字通り転がり落ちて、そのままの勢いで尻餅をついたままびたっと限界まで壁に身体を密着させる私の視線の先で、もぞ、と、寝台の上の布団のかたまりが動く。


「…………うるさい」


もぞ、もぞもぞもぞ、と、ふっかふかのお布団から覗いたのは、朝日にきらめく金の髪。そのまま、まるで神鳥が孵化するように、布団の中から出てきた我らが覇王サマは、いまだに夢とうつつのはざまをさまよう金色のまなざしを、ひたりと私へと向けた。

蜂蜜がとろけるように、とろり、とその瞳が、笑みの形を形作る。


「おはよう、宝珠ほうじゅ。いい朝だね」

「お、は、よう、ございます……」


なんとか挨拶を返したものの、正直それどころではない。確かに一緒に寝るとは言った。同じ寝台を使うとも言った。本音では承知したくなかったけれど、それでもごり押しに負けて、自らその寝台に入った。でも。


――なんで抱き締められてたの!?


やけにあたたかいなぁ、と思いながら目覚めたら、至近距離にあったのはとびきりの美貌。うっとりと見惚れるに十分値する、女性的でもあり男性的でもある、圧倒的な美貌だった。おかげさまでしばらく思考が停止した。やっと動き出した思考の末に、口からほとばしったのは、我ながら絹を裂くかのような悲鳴である。

だって仕方がないだろう、寝台の片隅で身を縮めて寝ていたはずなのに、目覚めたら寝台の中心で、陛下に抱き締められていたなんて、これで悲鳴を上げずにいられるほうがどうかしている。

もちろんすぐにその腕を振り払ったとも。その勢いで、寝台から転げ落ち、今に至るというわけだ。

別に光栄にも手を出された形跡はないが、それにしても。それにしてもこれは、いくらなんでも私には刺激が強すぎる。ああああ、嫌だ、顔が赤くなってしまう。寝起きの陛下のすさまじい色香にあてられたからというわけでもなく、普通に『殿方に抱き締められて夜を過ごした』という事実が恥ずかしすぎるからだ。嫌悪感はないけれども、羞恥心がものすごい。壁際でただただ震えるしかない私を、寝ぼけ眼でじいと見つめていた陛下は、やがて、ふは、と噴き出した。


「そんなに慌てなくても。ごめんね、つい抱き心地がよくて」

「誤解を招く言い方ですよそれ!」

「そう? 別に既成事実があるわけでもないんだから、これくらいいいじゃない」

「よくない、なんっにもよくないです!」

「でもこれから毎晩続くんだよ?」

「…………………………その件ですが、考え直させていただいてもよろしいですか?」

「駄目」

「っ!!」


がくり、とこうべを垂れてうちひしがれる私を、くつくつと笑って見つめつつ、「さて」と陛下は寝台から降りられた。そのまなざしを窓の外へと向けて、降り注ぐまばゆい日差しに、その金色の瞳を細める。


「本当にいい天気だ。逢引日和だね」

「あいびき?」

「そう。昨夜約束したでしょう。城下に二人で出かけようって」


まさかもう忘れた? と小首を傾げる陛下に、「あれ、本気だったのですか!?」という台詞が口から飛び出しそうになったけれど、かろうじてそれを飲み込んだ。陛下のまなざしが、「忘れたとは言わせない」と、確かに口にせずとも語っていたからだ。


「朝食は外で適当に取ろう。ああ、お金のことは気にしなくていいよ。これでもそれなりに稼いでいるからね」

「民の血税で、ですか?」

「僕が個人的に遊ぶのにそんなものに手を付けるはずがないでしょう。まっとうに個人的に稼いだものだよ。主に賭博だけど」

「……」


それは『まっとうに』とは言わないのではないでしょうか、なんて言える雰囲気ではなく、大人しく沈黙を選ぶ。そんな私の元に近付いてきた陛下は、優美な所作で、床に座り込んだままの私に手を差し伸べた。


「さ、準備しようか」

「…………はい」


陛下の手を借りずに立ち上がる。もういい、こうなったらやけだ。とことん陛下に付き合って、とことんそのお財布を痛めつけてくれる!

そんな私の決意を知ってか知らずか、差し伸べたのに使いどころがなかった手をひらめかせて、陛下は「楽しみだね」と笑った。

とにもかくにもそうして私達は、城下町へと繰り出す運びとなったのである。

私が身にまとっているのは、作業着でも女官のためのお仕着せでもなく、下町で着ていた私物であり、陛下が身にまとうのは、上質だけれども決して華美ではない、少なくともとても皇帝のそれだとは思えない、せいぜい裕福な商人の子息、といった程度のそれだ。加えて、私も陛下も、それらの上に外套を羽織り、深く頭巾を被っている。私の顔の傷痕は目立つし、陛下はもう言うまでもなく老若男女を問わずに人目を引く容姿をしていらっしゃるからだ。

恐れ多くも隣を歩くことを許されたが、これ、どう考えてもこの城下町で暮らす人々でごった返す道中で、私がここぞとばかりに逃げ出すのを防ぐためだとしか思えない。ちょっとくらいそういう好機があるかな、なんて淡い期待は、もう抱かないほうが身のためだろう。

はあ、と思わず溜息を吐いたその瞬間、目の前に薄紙に半分だけ包まれた、真白いかたまりが差し出される。え、と瞳を瞬かせて隣を見上げると、同じ白いかたまりを持った陛下が、どこか得意げに微笑んでいた。


「はい、今日の朝食。このあたりで最近人気の肉包子だって。蒸し立てで中身が特に熱いから気を付けて」


いつの間にか道中の屋台で購入したらしい。反射的に受け取ると、薄紙越しにほかほかふんわりとした感触が伝わってきた。見るからにおいしそうなそれについつい自分の目が輝くのを感じる。

私が暮らしていた下町は、ほとんど貧民街に近いような場所で、城下町にわざわざ訪れるのは、大抵が顔料の買い出しと、なけなしの金子でかろうじて購入できる食事の材料のためくらいで、こんな風に買い食いなんてぜいたくな真似はしたことがない。

陛下の視線に促され、ぱくりと肉包子にかぶりつつ。あふれ出る肉汁と、ふかふかの皮の生地が合わさって完成するおいしさに、自然と顔がほころんでしまった。


「陛下、ありがとうございま……」

「あ、それ」

「はい?」

「その、『陛下』って呼び方。誰に聞かれているとも解らないし、控えてもらえるかな」

「え、でも、でしたらどうお呼びすれば……」

「普通に『夜昊やこう』でいいよ。よくある名前でしょう」


簡単におっしゃってくださるが、とんでもなく無茶ぶりをされている。いくらなんでも皇帝陛下を名前呼びだなんて、お妃様方すら控える所業だろうに、それなのに彼は私のような箸にも棒にも引っかからない女にそれを求めるのだ。この方はもう少しご自分の価値と意味をご理解なさるべきだと思う。

しかしここでとやかく言っても、たやすく言い負かされけむに巻かれるであろうことは容易に想像できたので、諦めるより他はない。無駄な抵抗はよろしくない。はなから負けると解っている勝負に挑めるような精神的余裕は、今の私には皆無なのだ。


「……それでは、夜昊やこう様。とてもおいしいです。ありがとうございます」

「“様”もいらないんだけど……まあいいか。今はそれで許してあげる」


ふふふ、と、目深に被った頭巾の下で微笑みを深める夜昊やこう様にぺこりと頭を下げつつ、肉包子をもくもくと食べる。その間にも、陛下、もとい夜昊やこう様は、自らも肉包子を食べつつ、他の屋台の食べ物……たとえば海産物を副菜にした白粥だったり、小麦粉を練って三つ編み上に編んで揚げた甘い麻花だったり、せいろの中でほかほかと湯気を立ち昇らせるマーラーカオだったりと、次から次へと買い込んでは私へと回してくる。

どれもこれも夜昊やこう様自らが選び認めただけあってとてもおいしいが、いかんせん量が。量が多い。


「あ、あの、夜昊やこう様」

「ん? 次は何がいい? 僕ばかり選んでしまったものね、次は君の番だ」

「いえ、そうではなく。申し訳ありませんが、もうお腹いっぱいです」

「ええ?」


そうなの? とぱちくりと頭巾の下で瞳を大きく瞬かせているであろう夜昊やこう様に、こくこくと頷く。いくらなんでも朝からこれ以上は食べられない。初めて創牌師そうはいしとしてではなくただの客として街中を歩くことができて、今までは感じられなかった……いいや、感じていたはずなのにちっとも気付いていなかった活気に圧倒されてしまった、という理由もあって、もうお腹も胸もいっぱいいっぱいだ。

そんな私の態度に、陛下は少しばかり残念そうに唇を尖らせて、そうして「まあいいか」と気を取り直すように笑みを浮かべた。


「じゃあ食事はここまでにして……そうだな。装飾品でも見に行こうか」

夜昊やこう様ならばどんな装飾品もお似合いだと思いますよ」

「いやこの流れでどうして僕が自分のものを探すって流れになるの。もちろん宝珠ほうじゅ、君のための装飾品を探すんだよ。逢引する女性に直接に会う装飾品を贈るのは、男の特権の一つでしょう?」

「どちらかというと、装飾品よりも顔料のほうが嬉しいです」

「……宝珠ほうじゅは本当に情緒も風情もないね」

「そうですか?」

「そうだよ」

「はあ、申し訳ございません」

「解ってないのなら謝るのはやめなさい。ああもう、ほら、とにかく行くよ」


何やら疲れたように肩を落として歩き出す夜昊やこう様に置いて行かれないように、持っていた紙袋の中の麻花の最後の一つを口に放り込み、慌ててその後に続く。

夜昊やこう様にとっては、城下町はご自分の庭のようなものらしい。警備役達の目を盗んであっさりすぎるほどあっさりと、たやすく後宮から抜け出してきたことといい、城下町についてからも迷うそぶりもなく自らがおすすめだという店や屋台を案内してくださっていることといい、彼が皇宮を抜け出してきた回数は、一度や二度ではないと見た。

一応「ばれたらまずすぎるのでは?」とそれとなく聞いてみたりもしたが、「写し鏡の神牌しんはいで僕の虚像を置いてきているからまずばれないよ」とにこやかに言い切られて撃沈した。とんだ覇王サマである。やり口が慣れすぎている。

そして何より、一番の問題が、そこではないところが問題なのだ。


――私、普通に街歩きを楽しんじゃってる……!


陛下、じゃなくて夜昊やこう様がわざわざ自ら選んで買ってくださる食べ物はどれもおいしいし、わざわざ購入にまで至らなくても、立ち並ぶ店先をひやかしながら歩くのは、何もかもが目新しい気分になれて自然と心が浮き立ってしまう。いいのかこれ。いや駄目だろうこれ。それなのに、ああそれなのに。


「ほら、宝珠ほうじゅ。あそこがこの辺で評判の宝飾品店だ。掘り出し物もきっとあるだろう。さ、行こうじゃないか」

「ご随意に」


夜昊やこう様に手招かれ、屋台というよりはもう立派な一つの店舗と呼ぶべき、屋号の看板までしっかりばっちり立派なものが掲げられている店の軒先へと足を踏み入れる。

外套を被った二人連れ、という、なんとも怪しい客を前にしても、この店の主人であろう中年の男性と、おそらくはその娘さんであり、看板娘であるに違いない年頃の女性が、こちらに向かって一礼してきた。

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