6-② 子獅子と柳葉刀
いや本当に色々な笑顔を使いこなされるなこのお方、と、場違いにも感心する私の額を、ぱちんっと彼の長い指が弾く。
「ひゃっ!」
「自分で問いかけておいて他事を考えるのはやめなさい。ちゃんと聞くように」
「申し訳ありません……」
「よろしい。僕が君に
「……っ!」
それ、は。
さらりと告げられたその台詞の内容に息を呑む。それは、お妃様方にとっては、あまりにも残酷なやり口だ。
「妃のものでなくとも、皇帝は
う、嬉しくない……! 本当にもうびっくりするほど嬉しくない。あのお妃様方に認めていただけるだなんて! とここで呑気に喜べる女は、間違いない頭の中がお花畑だ。
脳裏によみがえるのは、四人のお妃様方の、花のようなかんばせ。それぞれ趣の異なる、とびっきりの美貌を誇る方々だった。
楚々とした青妃様、愛らしい朱妃様、凛々しい白妃様、可憐な黒妃様。
現状として彼女達から頂戴しているのは、多かれ少なかれ一様に間違いなく悪印象。こんなキズモノ娘が後宮の一角でのさばって陛下の
「……確かに、陛下のための
そのお妃様方の代わりが私であるという点はいかがなものかと思いますけども。
私が確認するように呟けば、陛下は「そういうこと」と頷いた。
「優れた
まあそれは確かにそうでしょうね、と、遠い目になりながら頷く。
改めて「どうして私が……」という気分になって、内心で滂沱の涙が流れ落ちていくけれども、それを今ここで口に出すほど私は愚かではない。何せ目の前にいらっしゃるのは、無駄口を好かない覇王サマでいらっしゃるので。
なんだろう、視界が歪んできたな。これは決して涙ではなくごみが目に入ったからだと思いたい。
とにもかくにもそういうわけで私の元に陛下の
「陛下は、夜、お妃様方の元にお渡りになったことがないと伺いました」
「へえ、誰から?」
「私に食を運んできてくださる女官のお方からです」
「ああそう。余計なことは話すなと命じてあるのに」
「……私が、訊いたんです。あの方は何も悪くございません」
「そう? まあそういうことにしておこうか」
それで? とこちらを見下ろしてくる陛下に、ごくりと息を呑む。
無駄口を好かない覇王サマにこれを訊いていいのかどうかと問われると、非常に微妙なところで、うっかり間違えて無礼討ちもありえそうなのだけれど、それでも聞かないままでは話が進まないので、意を決して口を開く。
「お妃様方から
「…………へえ。思っていたより鋭いね、君」
す、と。陛下のまなざしに宿る光が、それまでの一貫して穏やかだったそれから、感情を読み取らせない、冷え冷えとしたものへと変わる。それでもなお彼は笑っている。まるで、笑顔以外の表情を知らないように。あるいは、忘れてしまったかのように。
その恐ろしくも美しい表情から目が離せず硬直する私の、てきとうに後ろにまとめていたつもりだったのに、髪紐からこぼれたこめかみから生えるひとふさを、彼はすいと持ち上げた。その手が、驚くほど丁寧な手付きで、そのひとふさを私の耳にかけてくれる。ひゅ、と、喉が奇妙な音を立てた。今度こそ完全に動けない私の耳元で、陛下はふふ、と小さく笑う。その吐息が、耳朶に触れる。くすぐったいと思う間もなく、彼は続けた。
「そろそろ向こうも動き出すころだよ。種はまいた。水も与えた。後は、芽が出るのを待つだけだ」
――――それは、どういう意味なのだろう。
問いかけることもできずに立ち竦む私は、そうして「それじゃあ今日はここまでにしようか」とひらりと手を振って去っていく陛下を、礼を取ることもできずに見送るばかりだった。
そして、それから数日。
やはり何の変りもない、女官としてというよりももう完全に
その“ここ数日”、陛下は私の元を訪れない。はっきり言おう。平和だ。とても平和だ。あの方といると無駄な緊張感を強いられて、心身両者にとってとても優しくないのだけれど、この数日はもうまるで久々に手に入れた休日のような日々だった。
おかげで
「はー! 今日も頑張った! お疲れ様、私!」
夜のとばりがすっかり落ちたころ、私は湯浴みを済ませて、いつも使わせていただいている寝台へと飛び込んだ。
後宮に来てから、とても悔しいけれども喜ばしいこととして、自由に湯浴みができることだろう。あんなにも広い浴場を、のびのび一人で使えるなんて……! と毎日感激しきりである。
こうなると下町に戻った時が怖くなってくる。何せ流石後宮、出てくるご飯はいつもおいしいし、寝台はいつでもふかふかだし、先ほども言った通り浴場は使いたい放題だし、何より、
そう、そういうおいしい話には裏がある訳で、私は陛下との『賭け』に勝たない限り後宮からは出られず、下町に戻ることは叶わない。
もうこのままでもいいかな~~なんて不意に考えてしまうことがないわけではないけれど、あれだ。あの覇王サマがいけない。
日常にあの方が見え隠れするだけで私の精神はゴリゴリとすり減っていく。やはり人間、身の丈にあった生活が一番だ。やはり私は、『賭け』に勝ち、下町のあの懐かしいほったて小屋へと帰るのだ。
そう決意を新たにした、その時だ。ひゅるり、と、風が吹いた。
「あれ……?」
窓を、開けておいたつもりは、ないはずだった。それなのに、どうして。そうのんびりと疑問に思えたのは、その瞬間までだった。
「きゃあっ!?」
言い知れない悪寒を感じて寝台から転げ落ちると同時に、つい一瞬前まで私が寝そべっていた場所に、冷気を立ち昇らせる漆黒の刃が何本も突き刺さる。
え、あれ、待って、これ私、寝ていたままだったら即この世から退場だったのでは……? と思う間もなく、第二、第三の刃が降り注ぎ、私は床を転がってそれをかろうじてよけた。
「な、なんなの!?」
悲鳴のような私の叫びにご親切にも答えてくれるかのように、ゆらりと。気付けば開け放たれていた窓から、黒い人影が音もなく部屋の中に入ってくる。今日のような月のない闇夜にまぎれる黒の外套と、顔を覆う覆面。男性なのか、女性なのか、年齢も何も解らない。ただ私が理解できるのは、この影のような人物が、間違いなく私をその手にかけようとしているという、その確固たる事実だけだ。
「
――武具召喚の
そう、
市井ではほとんど見かけないけれど、名のある武人にとっては当たり前に所持する
振り上げた刃をぎりぎりでよけ、懐に忍ばせておいたいざという時のための真白い
「――――
走り書きのような
この子はもともと私と縁をつないでくださっている炎の高位精霊の眷属だ。あの方を呼び出す
確かにこれ以上なく愛らしいが、どう見ても戦えそうにない子獅子を前にして、いったん拍子抜けしたらしい影は、やがて嘲笑うように肩を揺らした。気持ちは解らないでもないけれど―――――甘い。
「お願い、やっちゃって!」
――がぁうっ!
相手が誰であろうが、とりあえず私は私の命を優先させていただきます。
私の号令に従って、子獅子は勇ましく吠えた。その口からほとばしったのは、子獅子の小さな身体からは想像もできないような大きな火球。ゴッと音を立てて宙を切り、それは影に襲い掛かる。やりすぎかと言われるかもしれないが、相手がどう出てくるか解らない以上、今の私にできる全力を尽くすに限る。
そのまま火球は影を飲み込むかと思われた。少なくとも、私はそのつもりでいた。けれど。
「――――――――――そんな!?」
影が、その手の
――水の氣を宿した
普通の武具ではなく、精霊の加護、それも火の氣に克つ水の氣を宿した武具だったのだ。だからこそ火球をあんなにも簡単に切り捨てることができたのだろう。子獅子はそれでもなお私を守ろうと勇ましく次なる火球を吐き出そうとするが、だめだ。
「もういいわ、ありがとう。
走り書きで描き、かろうじてこの場に顕現しているだけの子獅子にそんな無理をさせたら、存在の根幹に傷がついてしまいかねない。そんな真似は、
――……万事休す、ってことね。
もう打つ手はない。私が大人しくなったことを認めたのだろう。わざとこちらの恐怖をあおるように、ゆっくりと影が近付いてくる。こんなところで死ぬなんて冗談じゃなかった。諦めたくなんてない。でも。
――どうしたらいいのか、解らないの。
だって私には、
「ここはそろそろ僕に助けを求めるところなんじゃないか、
「……へ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます