4-① 瑠璃鳥
我らが覇王と恐れ称される皇帝陛下によって、あろうことかよりにもよって後宮に放り込まれて早数日。
今日も今日とて私は、まず朝起きた時の一番のお決まりの日課として、貸し与えられた部屋の一角に置かれた鏡台の前に座る。下町のほったて小屋から頼み込んで持ってきてもらった、愛用の化粧道具が、当たり前のようにそこにある。
鏡に映り込む私の顔には、まるで一刀両断にしようとして失敗したかのような、斜めに走る大きな傷跡がある。そんなキズモノの顔で化粧なんて、と、嘲笑われたり同情されたりしたことなんて、それはもう数えきれないほどだけれど、まあそれはそれ。化粧は女の戦装束。今日も私は、戦いに挑むために顔に筆を走らせる。
目立つ傷跡はそのままに、本日の化粧を終わらせて、よし、と頷く。鏡の中の私もまた、同様に頷いた。
「今日もやるわよ」
誰に対して言うわけでもなく、しいて言うならば自分を鼓舞するためだけに自分に向けて呟いて、椅子から立ち上がった。
そしてそのまま、かつては栄華を誇り、現在はお妃様どころか女官の一人として住まう者がいない空虚な宮に用意されている、私が『作業場』と呼ぶ広間へと足を急がせた。
――――覇王がキズモノの女を囲い始めた。
そんな正解と言えば正解で、不正解と言えば不正解の、私にとっては不本意極まりないうわさは、既に宮中どころか市井にまで広まっているのだと、毎日のように私の元を訪れる陛下はおっしゃっていた。
ツッコミどころ満載であるが、はたから見ればそうとしか言えないこの状況、完全に詰んでいる。
皇帝陛下が市井にお忍びででかけたところ、子供を守るために勇ましく戦うはぐれの女
――冗談でも勘弁してください!
そう悲鳴を上げたくても、私には地位も権力もお金もなく、地位も権力もお金も何もかもこの国一番の陛下を前に叫べるはずもなく、大人しく後宮で過ごしている、というわけだ。
彼専属の女官兼
と、いうわけで。なんかもう仕方ない。そっちがその気でそういうことなら、私ができることはもうただ一つとしか残されていない。
「さあて、今日はどちら様から私のお相手をしてくださるのかしら?」
たとえ下町のほったて小屋でも、後宮の広間であろうとも、私がすべきこと、私ができることは、何一つ変わらない。
床一杯に広げられた、目をそむけたくなるほどに損傷した数多の
私が絵筆をきゅっと握ると、ぎりぎりのところで未だ
「始めましょう」
自らに、そして、精霊達にそう語りかけて、一番近くにあった
私が今相手にしている
「手持ちの青だけじゃ足りないわ……」
「ん? 何か欲しいものがあるって?」
「きゃあ!?」
背後から突然かけられた声に、文字通り悲鳴を上げて飛び上がる。ついでに絵筆と
「っ陛下! いらっしゃったときは普通にお声がけくださいと何度も申し上げたでしょう!」
「それじゃつまらないじゃないか。僕が」
「陛下がつまらなくても、私の精神と
突然、気配も何もなしに背後に現れて、私の手元を覗き込みつつ、わざわざ身を屈めて耳元でささやいてくれやがった美貌の麗人こそ、諸悪の根源たる皇帝陛下である。
ずささささっと絵筆と
当初こそ、私も彼に対してそれはもう平身低頭の状態で、これ以上ないほどの礼を尽くし、ありとあらゆる面でびくびくしていたものだけれど、今こうして並べられている
それなのに。
「はい、これ。昨日僕が使った
「~~~~っ!!」
よろしく、じゃない、よろしく、じゃ!!
手渡された五枚の
唯一の救いは、これらの
――ぜんぜん、『それだけ』じゃないでしょう!
「あのですね、陛下。これもまた何度でも申し上げますけれど、もう少し
「嫌だよめんどうくさい。そもそも、そういう僕を支えるのが、今の君の役目でしょう?」
「…………」
これで相手が皇帝でなかったら私は間違いなくこの男の顔を思い切りひっぱたいていた。当初こそおの奇麗すぎるお顔に見惚れたり溜息をこぼしたりしていたものの、三日も立てばもう賞賛なんてすっかり忘れて、かわりに子憎たらしさしか感じなくなるのだから、人間が持つ認識とは本当によくできている。
もう反論する気力もわいてこず、込み上げてきた溜息を飲み込んで、大人しく再び絵筆を握り直す。
もういい、とりあえず風の
こんなにも立派な
「まったくもう……。この際申し上げますけれど、本当に陛下は、精霊の皆様をなんだと思っていらっしゃるんですか? こんなに無理させる必要などないでしょうに」
あなたほどの実力ならば、と、言外に私が続けたのを、陛下は敏くくみ取ったらしい。「そうだなぁ」としばし思案した彼は、そうしてにっこりと笑みを深めた。
「便利な道具?」
解っていたがこの男、最低である。既に底辺を突き抜けている好感度が、さらに奈落へと急降下していくのを感じた。
どこまで陛下が本気でおっしゃっているのかは解らないけれど、こうして真っ向から抗議しても無駄なことはよく解った。だったら私がすべきこと、できることは、やはり
「……御前にて失礼いたします。私は作業に戻らせていただきます」
「見てていい?」
「どうぞ、ご自由に。ここは陛下のための宮であり、これらは陛下のための
婉曲に「勝手にしやがれ」と私が言っていることには気付いているだろうに、気分を害した様子もなく、陛下は適当に、私が
その視線が気にならないわけでは決してないのだけれど、絵筆を握ればもうそんなことは関係ない。私の世界には、精霊と、私自身しかいなくなる。
そして。
「
青い鳥の瞳に、漆黒で瞳を描き入れて、ようやく修繕を終えた
「ごきげんよう、調子はいかがかしら?」
私の問いかけに、るる、と短く答えてくれた鳥は、その王冠を被ったような羽が生える小さな頭を、こつん、と私の頬にぶつけてきた。調子も機嫌もなかなか上々らしい。よしよし、悪くはない出来である。完璧では、ないけれど。
その喉をくすぐってやっていると、ぱちぱちぱち、という音が聞こえてきた。そちらを見遣ると、陛下が穏やかに微笑みながら手を打ち鳴らしている。るるる! と青い鳥が嬉しそうに鳴いて、彼の元に飛び立った。それを片手を差し出し止まり木代わりにすることで受け止めた陛下は、そのまなざしを私に改めて向けて、頭のてっぺんから座り込む足のつま先までじっくり見つめたあと、ことりと首を傾げる。
「これだけ見事な画力なのだから、自分の化粧だって、衣装合わせだって、お手のものでしょう。もっと着飾ればいいのに」
それ、と指差されて、自分の恰好を見下ろす。鏡がないから顔は確認しようがないけれど、いつも通りの化粧を施したキズモノ顔。そして衣装は、丈夫な生地で作った、汚れても問題のない、飾り気なんてまったくない作業着。この姿、わざわざ指摘されなくても、十八歳のうら若き花盛りの女が好んで装うものではないことは自覚している。でも絵筆を持ったらそんなことはどうでもよくなってしまうし、夢中になりすぎてあちこち汚して数少ない外出着を無駄にすることないし、それに何より。
「この顔の傷では、どれだけ着飾っても無駄ですよ」
第一印象はやはり顔である。下手に着飾ったって、逆にみじめだと同情されるのが関の山だ。そんなこと考えなくたって解るだろうに、生来格別にお美しいかんばせをお持ちの佳人は、凡人の考えが理解できないらしい。
「そんなことはないと思うよ。色々用意させたから、好きなだけ持っておいき」
「……はい?」
何を言い出したのかと瞳を瞬かせる私の目の前で、陛下は、懐から何枚もの
同時に
思わずその姿に見入ると、天女達も小人達ににっこり笑って、抱えていたお宝の山を私の前に並べてから、陛下に向かって深々と一礼してその姿をかき消した。宙に浮いていた
「ほら、この瑠璃の首飾りとか。君の胡桃色の髪と琥珀の瞳に、よく似合うと思うよ」
ひょいっと大粒の瑠璃がいくつも連ねられた首飾りを、ためらうことなく気安く持ち上げて、陛下はそれを私の首元にあててくる。褒められているのか、それともからかわれているのか。どちらなのか判断がつかずに、陛下の顔を見上げる。穏やかで甘い、見惚れずにはいられない笑みだ。けれどそれは同時に、そこまででしかなくて、それ以上の感情なんて何一つこちらに教えてくれやしない。
そんなこと言われましても恐れ多いことでございますぅ……とかなんとか適当に言っておけばいいのだろうかと思案していると、不意に、るるる、と、陛下の肩に止まったままの青い鳥がさえずった。その瞳が私を……ではなく、陛下が私にあてている瑠璃の首飾りを見つめていることに気付いた瞬間、天啓が下った。
「陛下!」
「うわ驚いた。どうしたの突然」
「この首飾りが欲しいです!」
「……ふぅん? 構わないけど、どうして?」
陛下の瞳が、すぅっとすがめられた。
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