キズモノ娘娘の絵空事 ~自称傾国は絵筆で覇王と戦います~
中村朱里
1 大根と猫
きらきら、と。月の光を受けて、それらはまばゆいばかりの金色に輝いていた。人も獣も草木も寝静まる、深い深い夜の中、目の前に立つ青年の金の髪と瞳は、それこそまるで、真夜中の太陽のようだった。
「――――まあ、そういうわけだ。僕と君で、賭けをしようじゃないか」
私と、彼以外には、誰もいないのだという、この国の後宮の一角。かつて暮らしていた、今は廃妃とされた女性はもちろんのこと、その一族どころか、管理する女官や宦官の一人すらいないのだというこの宮はどこまでも静かで、いっそ怖いほどのしじまに満ちている。
そんな宮に私をさらってきたのだという青年の声は、誘拐犯にあるまじき、驚くほど穏やかな声だ。
甘く、優しく、男も女も老いも若きも、うっとりと聞き惚れるに違いない、耳に心地よい声。その声の持ち主としてこれ以上はない、圧倒的な麗しき美貌。
どこか中性的な彼の美貌は、当たり前だけれど男性的であり、けれど確かな女性的な魅力も持ち合わせていて、「ははぁ、これはこれはお見事なもので」なんて、現実逃避のような感想を抱いた。
けれどいつまでもそうやってぼんやりうっとりしているわけにもいかないので、私は両手を握り締め、きゅっと一度唇を引き結んでから、もう一度その唇を開く。
「……その賭け、乗らせていただきます」
元より他に選択肢はない。たとえどれだけ彼の言う『賭け』が理不尽なものであったとしても、悲しいかな、私は文句が言えない。何分、命が惜しいものでして。
――ああもう! どうしてこんなことになったの!?
そう内心で滂沱の涙を流しながら喚き立てても、もうすべてが遅いのだ。
そもそもなぜこんなことになってしまったのか。それは、日が暮れる前――――ちょうど本日、いや、正確には昨日の、夕暮れ時に遡る。
***
本日、晴天なり。
気持ちのいい青空の下、私、
視界を半分以上遮るくらいに深く被った外套の下、懐の財布の存在を確かめる。
目的は本日の食事のための材料である。安価であればあるほどありがたい。
「
時折耳を打つその呼び声に、職業柄ついついいちいちそちらを見てしまう。
あ、あれは力自慢の小人衆だ。主人の召喚に従って呼び出された彼らは、えっさほいさと、農家を営む老齢のご夫婦が市場に持ち込んだとっておきの野菜を、山と抱えて店先に並べていく。
すべてを並べ終えた小人達が、誇らしげに老夫婦に向かって胸を張ると、奥様が相好を崩してそれぞれに干し柿を一つずつ与え、早速それにかじりつく小人達に向かって「
そこを見計らって、私も店先を覗き込む。
「こんにちは。おすすめのお野菜をお願いしたいんですけれど」
「おやぁ、そうかい! だったらこの大根なんてどうだい? わしの嫁さんの次に美人さんの水精――
立派な大根を前にして、深いしわの刻まれた顔ににやりと笑みを浮かべたご主人が、懐から取り出した札、もとい
なるほどこれは美人さん、と、その
「ほら、わしの嫁さんの次に美人さんだろう? ほれほれ
「もう、じいさん! いくらこの
早く早くと急かすご主人に、困ったように曖昧に水精――
彼女的には、これがイチオシ、ということらしい。なるほど、確かに大きく立派で、見るからにみずみずしい。
「では、こちらを一本お願いします」
「あいよ! お嬢ちゃん、ちょっと待ってくんな。
どうやら私に
ありがたくそれを受け取り、いくらかの金子とともに一礼してから店を後にする。
とりあえず今日の買い出しはこれで終了だ。本音を言えばお肉とかお肉とかお肉とか、もっと言えば新しい顔料をもっと買い込みたいのだけれど、おあいにく様、私の財布にそんな余裕は皆無である。
今日の食事は大根の水煮に決定。味気ないけれどお腹には貯まる、素晴らしい献立である。
のんびりと市場を闊歩しながら、ついつい気にかけてしまうのは、相変わらずあちこちから聞こえてくる「
この国において、もっとも多用されている言葉の一つとして挙げられる、二つの言葉である。
ほら、あちらでは「
他にもあちこちで、人ならざる精霊達が、「
そんな精霊達と人間を繋ぐのが、先にも述べた通り、『
地図上において、大陸の東方の多くを……いいや、そのほとんどを占めるのが、私が暮らすこの国、
森羅万象に息づく精霊の力や能力、その精霊そのものが封じられた絵札。それを扱うために、人間は自身の中の『
だからこそ、余計に
「ただいま、
大根を片手に市場を抜けて辿り着いたのは、花の都の中でも下町とされる一角。ほったて小屋と言っても過言ではない粗末な家だけれど、一人で暮らすには十分だ。
「
申し訳程度に作られた窓枠に飾られている、今は亡き養い親の絵姿に手を合わせ、小さく笑う。十八歳のうら若き乙女がこんな家に住み続けるだなんて不用心な……と、養父は嘆くだろうけれど、二年前に亡くなったばかりの彼との思い出が詰まったこの家から出ていくという選択肢はない。
「そもそも、今以上の物件に暮らせるほどの稼ぎはないんだし」
だから仕方ないの、と再び繰り返して、私は深く被っていた外套をようやく脱いだ。ほったて小屋の片隅に、申し訳程度に置いてある鏡台に、自分の姿が映り込む。
いざというとき売れるように、できる限り長く伸ばした胡桃色の髪。飴玉みたいな琥珀色の瞳。そして何よりも、私の顔で目を引くのは。
「我ながら立派な傷跡よねぇ……」
額から顎にかけて斜めに大きく走る、「いたましい」だとか「醜い」だとか「もったいない」だとか、他人様に言わせてみるとそういう風に言われてしまう、大きな傷跡だ。十年前から存在するこの傷跡は、私を要らない好奇心や同情や嘲笑の的にしたけれど、同時に確かに守ってくれてきた。
都の下町でうら若き乙女が無事に暮らしていくにあたって、これくらいの傷跡はちょうどいい。何度驚かれ、目を背けられたことだろう。まったく気にしていない……ことはないけれども、うーん、そのほかの利と不利を鑑みると、やはりこの傷跡は必要で、どんな視線もどんとこいである。
「さて、食事を作る前にお仕事しましょうか」
気合いを入れて、道具箱を広げる。取り出したるは一本の絵筆。そして並べるのは何色もの鮮やかな顔料だ。そして目の前に鎮座するのは、つい先日、ご近所さんに頼まれた、風をまとう子猫の絵が描かれた
「思ったより軽度の損傷ね。これなら今日中に修繕できるわ」
絵筆の先に墨を浸し、まずは輪郭を整える。それから、にじんで薄くなった白い毛並みを一本一本、心を、魂を込めて、書き加えていく。絵筆を動かすたびに、少しずつ、けれど確かにその姿がはっきりと浮かび上がっていく子猫が、
――――
それが、私の職業だ。今は亡き養父を師として仰ぎ、私が生計を立てるための職である。
まず
精霊と対話し、その力や存在を絵姿として
たまに例外があって、市井の生まれでうっかり大成してしまう
「……よし、完成。
子猫の尻尾の先に最後の一筆を入れて、いざ、とばかりに召還の文句を口にする。途端に、
「こんにちは。あなたのご主人様からお願いされて、少し手を入れさせてもらったわ。かわいらしい風の眷属さん、調子はどう?」
――にゃあ!
「きゃっ!?」
私が問いかけ終わるのを待っていたとばかりに、風の白猫は元気よく私の肩に飛び乗り、すりすりと頬にすり寄ってくる。ついでに、私の周りを、さわやかな風が取り巻いた。
よしよし、この調子だと、修繕はばっちりだということだろう。子猫もご機嫌で何よりだ。この子の
今回は上等な墨と顔料で、強めに描かせてもらったから、当分大丈夫だろう。ありがと、ありがと! と嬉しそうに私の肩の上で喉を鳴らし続ける子猫の頭を撫でていると、不意にその子猫がぴくりと耳を動かし、ほったて小屋の扉へと視線を向けた。
ん? とそちらを見遣ると、私が動くよりも先に、子猫がダッと扉へと駆けだす。それを待っていたかのように、家主である私の了解も取らずに、扉が開け放たれた。
「おい、
「…………
「細かいこと言うなよ、嫁ぎ遅れのくせに。それより
「足元、足元」
突然、狭くとも楽しく心安らげる我が家に乱入してきたのは、白猫の
今年十歳になるのだという彼は、言うまでもなくご近所さんであり、何かと我が家にやってくる、年の離れた友人のようなものだと私としては思っている。
おそらく、ではなく確実に、祖母が大切にしている
「
「たった今だけれどね。まだ顔料が完全に乾いたわけじゃないから、いったん
私の言葉に従って、
「はい。おばあさまによろしくね」
「おう。これ、ばあちゃんからの代金……なんだけど、なぁ、本当にこれだけでいいのか? ばあちゃん、言ってたぞ。ほんとならこの倍以上、
「あー……」
まあ、それはそうだ。
だからこそ、
とはいえ、物事にはどんな場合においても得てして例外が存在するものだ。まれに、はぐれ
「別に私は今の生活が続けられるならそれでいいのよ。子供がそんなこと気にするもんじゃありません」
「子供って言うな! 嫁き遅れのくせに!」
「仕方ないじゃない。こんなキズモノの女を娶りたがる殿方なんていないもの」
「き、キズモノがなんだよ! っだ、だったら、俺が成人したら、お前のこと、嫁にしてやるから、待ってろよな!」
「わー、ありがとう、慰めてくれるのね」
「違う!! 俺は、ほんとにっ!」
私を傷付けてしまったと思ったのだろう、
この子のおばあさまも素敵なご婦人だし、ご教育のたまもの、といったやつか。
将来有望で何より……と、私がほっこりしていた、そのときだ。
――――――――――ダァンッ!!
突然大きく蹴り開けられた扉に、私は
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