2 告白

 

 私の一日は、兄の部屋のカーテンをあけるところから始まる。


 夜が明ける前に雨はあがっていて、兄がここで暮らしていた頃と寸分変わらぬ部屋に明るい日光が差し込んでいる光景に、ほっとさせられる。

 掃除は週に一回しているけど、カーテンをあけにきたついでに、埃が気になった箇所は軽く拭いておいた。


 顔を洗い、自分のベッドを整えてから階下に降りる。

 誰もいない家はシンと静まりかえっていた。

 私は静かな空間が好きだ。

 だから、一年半前、海外の支店への赴任が決まった銀行員である父とともに母がこの家からいなくなっても、寂しいと思ったことはない。


 一緒に行かないか、と聞かれたのは一度だけ。

 行かないわ、人が住まなくなった家は老朽化が進むっていうし、この家は私がいなくなると困るもの――そう答えた私に、母は諦め顔でため息をついただけだった。


 どうやら志岐に私の面倒をみてくれるよう頼んだみたいだから、母はそれで安心と思っているみたいだ。

 もっとも、母に頼まれなくたって志岐は私の面倒を見てくれただろうから、実に馬鹿馬鹿しいことだった。


「おはよう、兄さん」

 砂糖とミルクをたっぷりと入れたコーヒーを、私は向かい側の席に置く。

 兄には毎朝、コーヒーを淹れることにしている。気が向けば、おいしいお菓子も一緒に添えて。

 この家には仏壇もあるけど、なんとなく、いつもの兄が座っていた席に置く方がいい気がして、そうしていた。


 私には、死んだ人間が見えるわけじゃない。

今も生きているように錯覚しているわけじゃない。


 だけど、『今もそこにいてくれるかもしれない』と思うことは、私にとっては何よりも安心材料なのだった。

 だからこの先も、やめることはない。


 兄は今も昔も、私にとっては欠かせない存在なのだ。



 ◇



「す、好きです……! 付き合ってください!」


 雨上がりの空気は気持ちがいいけど、濡れたままの地面の感触はじめっとしていて好きじゃない。

 靴にまとわりつく水分を鬱陶しく思いながら学校に行ったら、校門の前で待ちかまえていた男にいきなり告白された。


「誰……?」

 違う学校の制服を着た男子生徒だ。告白されるような覚えはない。


「えっ? あの……! 小学校からの同級生で、中学三年の時も同じクラスだった……ほら、村田だよ! 高校は違うけど、いつも同じバスに乗ってるよな……!?」

「……ああ」

 無感動に私は呟く。

 どうりで、顔には見覚えがあると思っていたわけだ。


 彼の制服を見たところ、五つ先の停留所の近くにある高校の生徒だと察することができる。

 告白のために、わざわざ遅刻覚悟で途中下車したのだろうか。暇なことだ。


「オレ、部活やってて、帰りはいつもバスで会えないから、告白するなら今しかないと思って……!」

 聞かれてもないのにわざわざ疑問を解消してくれるとは親切な人だ。悪い人ではなさそうである。

「……そう」


「いつもバスで見かけるたび、綺麗だなって思ってて……奥村おくむらほど綺麗な人、オレ、見たことないんだ! もっといろんな表情をオレの前で見せてほしい! だから、告白しにきた!」

 それはさすがに言いすぎだろう。兄に似た私は、兄ほどではないにせよそれなりに顔が整っている方だとは自覚しているが、地味で華やかさには欠けるし、芸能人になれるほどの美貌でもない。


「残念だけど、私、誰の前でもこの表情なの」

 断るための方便ではなく、事実だ。期待されても、応えられるようなものは持ち合わせていない。相手が失望して去って行くのがオチだ。


「え……でも、小学生の頃は、よく笑ってたよな!? あの頃はオレもガキだったからよくわかんなかったけど、多分、あの頃から好きだったんだと思う!」

 昔の話を持ち出されたことに、ピクリと私の指先が動いた。


 小学校は六年間ある。いつの話だろうか。

「悪いけど……帰ってくれる?」


 登校時間帯としては、遅くもなく早くもない頃合いだ。当然、校門には、多くの生徒集まってくる。

 朝っぱらから堂々と告白している他校生が目立たないわけがない。


 さっきからずっと遠巻きな視線を感じるし、ひそひそとなにか囁き合う声も聞こえてきていた。

 不快だ。

 それを気まずく思わないほど相手も無神経なたちではないらしく、たじろぐような様子を見せた。


「ごめん……あの、出直すから、せめて連絡先だけでも……っ!」

「もう来ないで」

 不快をあらわにするでもなく、かといって優しさを見せるわけでもない淡々とした私の物言いに、相手は泣きそうな顔で「ごめん」と呟いて去って行った。


 肩を落としてしょんぼりと歩く後ろ姿を、校舎に向かう途中で一度だけ振り返ったけど、前に向き直った私の顔には、なんの感慨も残っていなかった。



「小夜子、また告白されたんだって? 朝から忙しいね」

 教室に入って自分の席に鞄を置いたところで、友人の朋美ともみが話しかけてきた。

 男子のように髪を短く切り、冬なのに日に焼けた肌をした彼女はソフトボール部に所属しており、今日も朝練のため早く登校していたのだろう。

 誰かから噂を聞いたような口ぶりだった。


「小学校と中学校が一緒だったらしい村田くん。覚えてる?」

「村田? あー、野球部の?」

「知らないけど」

「ピッチャーで、けっこう上手かったらしいよ。野球の強豪校に推薦で入る予定だったけど、肘を故障しちゃって結局普通の高校に行ったって」

「詳しいわね」

 といっても、彼女は村田自身に興味があるわけではないだろう。野球とかソフトボール全般に関わることに興味があるだけなのだ。

 付き合いが長いのでそのへんがわかっている私は、そっけなく返しながら、今日の分の教科書を鞄から取り出す。


「中学まで一緒だったんなら、小夜子には年上の彼氏がいるって噂聞いたことあるはずなのに、勇気あるね~。ただの元気で真面目な坊主かと思ってたけど、見直しちゃった」


「今は坊主じゃなかったわよ。あと、志岐は彼氏じゃないわ」

「知ってるけど、彼氏ってことにしとけば男避けになっていいのに。志岐さん、カノジョとかいないんでしょ?」

「まあね」

「でも、志岐さんもモテそう。偽装カップルにでもなれば、お互いにとって都合がいい感じになるんじゃないの?」


 中学の頃、部活で帰りが遅くなるたびに迎えにきた志岐のことを私の彼氏だと誤解した者は多く、彼氏ではなく従兄弟だと説明すると、途端に色めき立って『紹介して』と同級生や先輩の女子に頼み込まれることが何度もあった。

 それが面倒で、私は高校に入ってからは、従兄弟だということはあまり言わないようにしている。

 朋美の言うことももっともだった。


「そうね。考えておくわ」

 感情をあまり表に出すことがなく、余計な言葉をほとんど口にしない私の態度は、他人から見るとそっけなく感じられるようだが、小学校から一緒の友人である朋美はそんなことは気にしない。

 相変わらず淡々とした私の態度に、にやっと笑った。


「嫌だって言わないんだね」

 私がわずかに眉をひそめると、「ごめんごめん」と表情を崩した。


「別にさ、ほんとに付き合ってもいいんじゃないかと思うよ。お似合いだもん」

 どういう意味でお似合いと言っているのか気になるところであったが、追及しても何もおもしろいことはないだろうと私は察していた。

「志岐は私を好きにならないわ。私は兄さんじゃないし、男でもないもの」



 間宮志岐まみやしきは同性愛者だ。

 兄さんのことが好きだった。


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