朝がくるまで待ってて

夏波ミチル

1 雨はまだやまない

 


 幼い頃からいつも、兄の真似ばかりしたがる子供だった。



 塾を終えて外に出たら、雨が降っていた。

 とうに日が暮れたあとの暗い空から、小さな雨粒がさあさあと降りそそいでいる。

 十二月の雨は冷たい。

 少しだけ手を出した私は、濡れた手を眺めてから、きゅっと握りしめた。


「えー、雨じゃん。さむーっ!」

「うちの車、乗ってく?」

「いいの? でも、自転車どうしよ?」

「明日取りにくればいいじゃん」

 あとから出てきた同じクラスの女の子たちが、賑やかに騒ぎながら、白い車に乗り込んでいく。


 他の子たちもだいたい親が車で迎えにきているみたいだった。


 視線を周囲にめぐらせると、塾の隣の歯科医院の前あたりに、黒い車がひっそりと停車していた。

 運転手と視線が合うと、運転席から、傘を持った男が降りてくる。

小夜子さよこ

 名前を呼ばれて、男の傘に入る。


 乗り込んだのは、助手席ではなく後部座席だった。

 私を乗せると、車はすぐに発進する。

 塾の前を通りかかる際、何人かの同級生の視線がこちらに向けられる気配があったが、私はまっすぐ前を向いたまま、気にもせずに座っていた。


「夕飯は食べたのか?」

 優しげな男の声が問いかけてくる。

「一応」

 正確には、十六時くらいに栄養補助食品を少し。


 今は二十時すぎだ。今更帰ったあとになにか食べる気も起きなかったから、そう答えた。たいして食べていないと伝えたなら、きっとこの男は無用な心配をするだろうから。

 会話はそれっきり途切れた。

 

 車のガラスに、雨粒がひっきりなしに落ちては流れていく。

 雨はあまり好きじゃない。

 耳鳴りがしてきた。

 頭が痛い。

 打ち消すように、目を伏せる。


「小夜子? 小夜子……寝ているのか?」

 いつの間にか、車は止まっていた。

 窓に視線を向けると、水滴でにじんだガラス越しに、自分の家の壁の色がうっすら見えた。


「……寝ていないわ」

 意識が現実から遠のいていた感覚はあったが、移動中にうっかりうたた寝をしてしまったとか、そんな穏やかな感覚とはほど遠い。

 私はけだるげな動きでドアを開け、車を降りた。


 同じく車を降りた男が、傘を差し出してくる。玄関はすぐそこなのに。

 私は女子としては比較的身長が高い方だが、それよりもさらに高い位置から、心配そうな眼差しが私を見下ろしてくる。


「今夜はオレも泊まろうか?」

「……なあに? そろそろ『女』として見てくれるようになったの?」

「ち、ちがう……! ただ、一人にしておくのは心配で……いやでも、女として魅力がないって言っているわけじゃ……」

 普段は落ち着いていて『クール』と言われがちなこの男は、見かけによらずこの手の話が苦手だ。

 慌てふためくさまに、私は掌で口元を押さえてクスクスと笑う。


「別にいいのよ、襲っても。私に欲情できるならの話だけど」

「小夜子……冗談でも、そういうことは男に言うものじゃない」

 わずかに赤くなった顔が可愛いと思っていたのに、今度はまた、心配そうな顔に戻ってしまう。

 この男はあくまでも私の『保護者』でいるつもりなのだ。

そのことに、ほっとしつつもどこかで呆れている自分もいる。

「わかっているわ。冗談よ」


 私は家の門を開けて中に入った。私が濡れないように、男もぴったりついてくる。

 玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。

 いつものことだ。両親は海外赴任中で、おそらく次に家に戻ってくるとしたら、年末頃になるだろう。


「シャッターだけでも閉めていこうか?」

「……そうね、お願いするわ。志岐しき

 男の名前は志岐。

 近所に住む従兄弟で、昔からよくこの家に遊びにきていた、いわゆる幼なじみ的な存在でもある。

 もっとも、七歳年上の志岐の遊び相手は私ではなく、ほとんどが私の兄だったのだけれど。


 真っ暗だった室内に、少しずつ明かりが灯っていく。


 一階のリビングから順に、志岐はシャッターを閉めていった。

 いつもは私が自分でやっていることだけれど、今日は雨が降っているので助かる。


 雨粒は、シャッターに当たれば音が響くけど、窓を通して雨の景色が見えなくなったことに、私は内心ほっとしていた。

 両親の部屋は元よりシャッターが閉めっぱなしで、週に一度換気で開けるくらいなので、リビングの次は二階の部屋だ。


 これでも一応年頃の女の子である私の部屋には平然と入ってくるくせに、志岐は、兄さんの部屋に入る時だけ、やけに緊張した仕草を見せる。


 明かりをつけたのは私だった。

 綺麗に整頓されたままの部屋が視界に映る。

「……相変わらず、七年前に死んだやつの部屋とは思えないくらい綺麗だな」

 志岐がぽつりと呟いた。整った顔立ちには、苦々しい表情が浮かんでいる。


「兄さんは今もここにいるもの。ね、そうでしょう? 志岐」

「…………」

 志岐はなにも答えず、ただ黙ってシャッターをおろし、落ち着いた青い色のカーテンを閉めた。


 死んだ人間を『生きている』と認識するほど私が狂っているわけではないことを、志岐はちゃんと理解しているはずだ。

 でもやっぱり『ここにいる』のだ。それはきっと、志岐にとっても同じ。

 この部屋ですごした兄さんとの思い出が、私たちにとってはすべてで、それが色褪せることなんて、決してないのだから。


 物憂げな視線で机のあたりをぼんやり見つめる志岐を、私はじっと見ていた。

 私たち、といっても、ここで兄と志岐と私の三人ですごしたことはほとんどない。

 志岐が遊びにきている時、私はこの部屋には入れてもらえなかった。勉強をするから、といつも部屋を追い出されていた。

 兄と志岐は同い年で、同じ学校に通っていたから、二人はいつも私の知らない話ばかりしていた。


 手持ち無沙汰になった私はベッドに腰掛け、脚を組み、顎に手をやった。かつての兄がよくそうしていたように。

「ねぇ、私、最近よく、『お兄さんに似てきた』って言われるの。志岐から見てどう?」


 挑発的な視線に、志岐はゆっくりと目を瞬かせた。

「……同じ制服を着ているからじゃないかな?」

 そう、高校も、兄と同じところを選んだ。小夜子なら名門の某女子校がいいんじゃないか、と両親には言われたけれど、綺麗に無視した。

「それだけ?」


 志岐が目の前まで歩いてくる。

 白く長い指が、赤みがかった栗色の髪を一房、すくいあげる。

「髪の色はよく似ているな。玲司れいじの髪は、もっと癖が強かったけど」

「……そうね」

 優美な指の仕草に、妙な緊張感が走る。

 多分、一般的に言うと『ドキッとする』という感覚に似ていると思うけど、そんな甘ったるいものではないので、どう表現していいのか、私にもわからない。


「瞳の色も、睫毛の長さもそっくりだ。目の形……というか目つきは、最近よく似てきたかな」

 私よりも淡い色合いをした瞳がまっすぐに覗き込んでくる。

 私たちは従兄弟だけど、似ていると言われたことは今まで一度もない。

 整ってはいるがキツめの顔立ちをしている私や兄とは違い、志岐はやわらかく甘い色と顔立ちをしていた。


「でも、小夜子と玲司は、別の人だよ。似ていると言われて嬉しいならそれでもいいと思うけど、小夜子は小夜子だ」

 一瞬だけふっと緩んだ表情は、すぐによそよそしい無表情に変わる。

 あの、とろけそうに甘い表情は、本来なら兄さんだけに向けられるものだったのだ。私のものじゃない。


「そうね」

 そんなことはわかりきっている。

 どんなにがんばっても自分は兄と同じ存在にはなれないし、死んだ兄が戻ってくることもないのだ。

 それぞれの人生を生きるしかない。

 わかって、いるのだ。


 あまりにもつまらない志岐の態度に私は軽くため息をつき、腰の近くまで伸びた髪を、肩から無造作に払った。

「もういいわ。帰って」

「うん……それじゃあ、おやすみ。鍵はオレが閉めておくから」


 実に紳士的な態度で、志岐はさっさと帰っていった。

 とっくに社会人になった志岐は、今は実家から離れて一人暮らしをしている。でも、車で十五分ぐらいの距離だから、なにかあればすぐに来てくれるし、雨が降れば、必ず迎えにきてくれる。


 そういえば、雨はまだ降っているのだろうか。

 兄の部屋を綺麗に整え直してから自分の部屋に戻った私は、シャッターのついていない小窓を少しだけあけて、そっと外を覗き込んでみた。


 さっきまで小降りだった雨は本格的に大降りになり、ざあざあと激しい音が部屋に入り込んでくる。

 私はすぐに窓を閉め、ベッドの上に制服を脱ぎ捨てると、下着姿で同じ二階にあるバスルームへと向かった。


 まだあたたまりきらないままのシャワーの湯を頭からかぶる。

 赤みがかった栗色の髪が、水を吸って色を濃くしていった。

 少し髪を伸ばしすぎたかもしれない。最近、洗うのが面倒になってきた。

 でも、シャワーの音を聞いていると安心する。雨の音が聞こえなくなるから。


 兄さんが死んだ日にも雨が降っていた。

 私たちはあの日から、雨が苦手だ。


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