ある男の後悔

初瀬 叶

第1話

私には愛する婚約者が居た。

名前はリリーローズ・タイラー。タイラー侯爵の長女。 私と彼女の婚約が決まったのは、私が十三歳、リリーが十歳の頃だった。


タイラー侯爵は平凡な男だ。 先代から継いだ広大な領地を持ちながら、それを活かすことも出来ず。ある年の水害が農作物に被害を、そして領地のそこかしこに災害の爪痕を残すと、即座に借金に苦しむ事となった。

災害を見越した領地経営も出来ず、蓄えもなく、後妻とその娘の贅沢と散財を許した結果の借金。当然と言えば当然だ。


そこで我がカーライル公爵は金銭的援助と、領地経営の補助をする代わりに、広大な領地の一部を我がカーライル公爵家が只同然買い取り、そこに貴族向けの保養地を作った。 風光明媚なその土地はたちまち貴族からの人気の観光地となった。 もちろんその土地の利益を全て我がカーライル家の物だ。


焦ったタイラー侯爵は、自分の娘と私、ジェームス・カーライルの結婚を打診してきた。 そうすれば、自分の領地を完全に手放す事にはならないと考えたのだろう。 浅はかな考えだ。

しかし、父、ローラン・カーライル公爵はその提案を受けた。 上手くいけば、タイラー侯爵家を乗っ取れると考えていた事は言うまでもない。 そんな完全なる政略結婚の相手として紹介されたのが、リリーローズだった。 プラチナブロンドの髪に美しいエメラルドグリーンの瞳。

たった十歳の少女だというのに、既に女の色気のようなものを携えていた。 私は一目見た時から、彼女に恋をした。初恋だった。

彼女は恐ろしいまでの美貌を持ちながらも、おっとりとした、優しい少女であった。

彼女が笑えば、周りの皆が見惚れる程、その笑顔には破壊力があった。

私はその少女の虜だった。 政略結婚の相手であっても、私とリリーは仲の良い婚約者だったはずだ。

学園に一緒に通う事はなかったが、週に一回はお茶会を。月に二回は二人で出掛けた。 しかし、そこにいつも邪魔が入る。 それが、リリーの義理の妹、マリーだった。

マリーはタイラー侯爵の後妻の娘だ。 リリーの母親はリリーに良く似た美しい女性であったが、体が弱く、リリーを産んで三年後には儚くなってしまった。 そしてタイラー侯爵は喪が明けて直ぐにマリーの母親と再婚をした。

元々マリーの母親はタイラー侯爵の浮気相手。 リリーの母親が存命の頃から、嫌、きっと結婚前から付き合っていたに違いない。 それはリリーとマリーの歳の差が数ヶ月しかない事を見てもハッキリとわかる。 それに、マリーは間違いなくタイラー侯爵の実子だった。

マリーの母親は元々男爵家の娘で、侯爵家に嫁いだ反動か、派手に散財するようになった。 趣味の悪いドレスや宝石を買い漁り、タイラー侯爵の財産を食い潰していった。 娘のマリーもその血を濃く継いだのだろう、全くもって侯爵家の令嬢には相応しくない振る舞いで、淑女とは到底言えず、女神のようなリリーの足元にも及ばない女だった。


私とリリーのお茶会や、逢瀬に乱入し、いつまでも居座った。私は何度か注意をしたが、リリーはその優しさにつけ込まれ、マリーの同席を最後には許してしまうのだった。

私とリリーはリリーが学園を卒業すると同時に結婚する予定だった。 あの日が来なければ。


あの日。私を地獄に突き落としたあの日。 私はリリーを失った。


私は二十歳になると同時に、公爵位を継いだ。 父が事故で半身不随となり、公爵としての仕事が出来なくなった為だ。

父は母と領地でのんびりと療養しながら、余生を送る事となった。

その頃の私は、公爵になったばかりの忙しさと、周りからのプレッシャーで押し潰されそうになっていた。

ストレスから、イライラする事も多く、ついリリーに辛く当たる事もあった。 それでもリリーは優しく私を受け止めてくれた。


『ジェームス様はお疲れなのです。私に出来る事があれば、何なりとお申し付け下さい。 私はジェームス様の隣に並び立つ事が出来るよう、精一杯努力いたします』

そう言って、笑顔で私を癒してくれた。


リリーは成績も優秀だった為、私の仕事も手伝ってくれるようになっていた。

私の心はリリーだけの物だった。


あの日の事は、全く思い出せない。 私は愛しいリリーを亡くした。その事実だけ。

愛するリリーはもう私の人生にいなくなってしまったのだ。

私はあの日から、全く前に進めないでいる。


「ジェームス様、マリー・タイラー侯爵令嬢様がおみえで御座います」

我が家の執事、レイノルズが執務室に居る私に告げる。


「またか」

リリーの義妹、マリー。 何故かリリーが亡くなってから、我が公爵家に何度も何度も訪れるのだ。 何回断っても、性懲りもなく。


「追い返せ」

私はレイノルズに告げ、執務に戻る。

レイノルズは何か言いたそうな顔をしていたが、私がもう会話をする気がない事を悟ると、部屋を出ていった。

あの女だけじゃない、タイラー侯爵夫妻も、リリーを亡くした後、度々我が邸を訪れていた。一度だけ話を聞いたが、何とも馬鹿にした話だ。

リリーの代わりにマリーと結婚しろと言ってきた。

当然私は断った。何故、私があんな女と結婚しなくてはいけないのか?冗談じゃない!私はリリーしか欲しくない。 リリーが居なくなっても、資金援助は続けるように言っているのだ。あのマリーとか言う女と結婚する必要はない。

しかし、私は公爵だ。しかも一人息子。結婚をし、後継を作らなければならない事は理解している。 ただ、頭ではわかっていても、心がついていかない。

心がリリー以外を拒否している。 リリーを失って、もうすぐ一年。 喪が明ける。

そうすれば、もう周りも私を放っておかないだろう。父も母も。

そんな風に過ごしていたある日。


「……ジェームス様。王家主催の夜会の招待状です」

何故かレイノルズは辛そうな顔で、その招待状を私に差し出した。


「そうか…。王家の主催であれば断るわけにもいかないな。もう…一年経ったんだ。そろそろ私も社交に出なければな。これは…出席しよう」


「…よろしいのですか?きっと、これは第二王子、ルーカス殿下の婚約披露の夜会になるかと思いますが」

レイノルズは心配そうな顔をする。


「そうか!ついにルーカスも婚約者を決めたのか。それは目出度いな。是非ともお祝いをしなきゃな。

もう二十二歳になるというのに、婚約者が決まらなかったんだ。やっとあいつも腹をくくったかな」

私は学友だったこの国の第二王子の顔を思い浮かべた。

王族なのに、気安く、皆に平等に優しく明るい男だ。友人とよんでも差し障りのない間柄だ。

第一王子である王太子殿下を尊敬し、支えていきたいと強い信念を持つ。 私はその友人を祝いたいと素直に思った。

だから、その夜会に出席するのに、私は何の疑問も持たなかった。 そんな私の横顔をレイノルズがじっと見詰めている事には気づかずに。


私は、夜会に来ていた。 リリーを亡くしてから初めてだ。 きらびやかな空間に、居たたまれない気持ちになる。

まだ私は暗闇の中にいるからだ。あれからずっと。多分、この先もずっと。

皆、何故か私を遠巻きに見ている気がする。最愛の婚約者を亡くした私を憐れんでいるのだろうか…居心地が悪い。

やはり、まだ私が社交に戻るのは早かったようだ。 もう帰ろうか…。別にバートナーが居るわけでもないのだから、いつ帰ったって自由だろう。ルーカスに挨拶したら、帰ろう。

私がそう思っていると、壇上に王族の面々が並び始めた。 その中で第二王子である、ルーカスとルーカスにエスコートされた令嬢が真ん中に並ぶ。私はその光景を信じられない思いで見詰めていた。 ……………リリーだ。そこに居るのは間違いなく、私の愛したリリーだった。

私は動く事が出来ない。今見ているものが現実なのか、それとも夢なのか。それすらも区別がつかない。

私がその場に縫い付けられたように動けないでいると、陛下の声が聞こえてきた。


「この度我が息子、第二王子のルーカスと、リリーローズ・ベルマン伯爵令嬢の婚約が整った。皆のもの、今後とも二人をよろしく頼む!」

そう高らかに宣言すると、周りからは割れんばかりの拍手が送られた。

私はその拍手の渦に呑み込まれそうになりながら、必死にさっきの言葉を思い出していた。『リリーローズ・?どういうことだ? ベルマン…ベルマン…ベルマン伯爵…。ああ、考えたいのに、考えるのを拒否するように頭が痛くなってきた。


私は、その場に立ち尽くしたまま、右手で頭を抱える。頭にモヤがかかっているようだ。 私は頭痛に耐えるのに必死で、自分に近づいてくる人物に気が付かなかった。

頭を抱えている右腕にその人物が触れる。


「ジェームス!やっと会えたわ。この一年、寂しかったのよ?邸に行っても門前払いで…」

私は横で喚く女に目をやる。マリーだ。

何なんだこんな所で、大声を出して、はしたない。

しかもドレスも品がないほど露出が激しい。どこを取っても、リリーの足元にも及ばない女だ。


「何なんだ。馴れ馴れしい。離してくれ」 私は触られていた右腕を振りほどいた。


「ちょっ。なんなのよ!私には、もうジェームスしかいないのよ?あんな事があって、噂にもなってるし。でも、ジェームス、責任取ってくれるんでしょ?向こうが王子で、こっちが公爵ってのはなんだか悔しいけど、この際それには目をつぶるわ!」

この女…何を言って…責任って…何を…

私の頭の中の霧が晴れていく。その事に恐怖を覚える。ダメだ。思い出してはだ。そう思うのに、私の意思に反して私は思い出してしまった。


あの日、あの悪夢のような日。私がリリーを失った日。 私が何をしたのか…思い出してしまったんだ。 そして私はそのままその場に倒れた。

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