ワニキーボード
相生生音
ワニキーボード
早く、早く書かなければ。
私は焦燥に駆られながら懸命に指を動かしていた。
その度に、ぬるりとした生温かい感触が指先をねぶり、ぶるりと身震いしたくなる。しかしそうするわけにはいかなかった。自分の腕の上にずらりとならぶ鋭い歯を見れば、誰だって多少の不快さは我慢するだろう。
私は今、ワニの口の中に手を、それも両手を、つっこんでいるのだ。
がばりと大きく開かれた二匹のワニの口。ぎらりと鋭く光る三角の歯。何かを期待してぬとぬととこぼれ落ちるよだれ。肌越しに感じられるは虫類独特のぬるい体温。
どうしてこんなことになったのか。
原因ははっきりしている。私のせいだ。
私の職業は小説家、それも、自分で言うのもなんだが売れっ子小説家だ。
出す本は軒並み百万部を越えるベストセラー、文学誌はもとよりファッション誌にまで連載を抱え、当然本にまつわる賞はひと通り受賞、残るは例の文学賞くらい。
普段本を読まないような人間でも、私の本が原作の映画やドラマを観たことがない者はほとんどいないだろう。
これもまた自分で言うのもなんだが、文学界の寵児と言ってもいいだろう。
そんな私が、なぜこんな状況に陥っているのか。
端的に言おう。自業自得だ。
私は天狗になってしまったのだ。
金と地位と名誉を手にした私は、簡単に思い上がった。
次々と舞い込む原稿の依頼をほいほいと後先考えずに引き受けたあげくに遊びほうけ、一切原稿には手をつけず、多くの出版社の締め切りを破ってきていたのだ。
いわば書く書く詐欺である。
そんな私にさすがの各出版社も堪忍袋の緒が切れ、一致団結した編集者たちが、私に原稿を書かせるべく送り込んできたのが、このワニキーボードだった。
仕掛けは見た目通り単純である。
二匹のワニの口の中に分割されたキーボードがそれぞれ飲み込まれているのだ。
そして、迂闊にもそこに手を突っ込んでしまったが最後、いつワニの口が閉じその歯が振り下ろされるのかびくびくと怯えながら、キーを打ち続けなければならない。
そんなものさっさと手を引き抜いてしまえばいいと思うかもしれないが、本物のワニを前するとそう簡単には考えられない。少しでも腕を引いたその瞬間、食いちぎられるのではないか、その恐怖を振り切って一か八かの賭けをするほどにまだ覚悟は決まっていなかった。
ちなみに、それならそもそもなんでこんな馬鹿げたものに手を突っ込んだのだと思うかもしれないが、鬼気迫る編集者たちの恐ろしさは、飢えたワニよりも恐ろしかったのだ。
もちろん、もうしわけなさもあった。
それに、この地獄から抜け出す方法はきちんと用意されており、また絶対不可能な方法でもないのだから、まだわざわざ危険を冒すような段階ではない。
この場を無事に納めるには、原稿を書けばいいのだ。
それならできる。
そんなわけで、恐怖と贖罪の二人三脚で執筆に取りかかり始めたのだが、その見通しは甘かったと今にして思う。
滑り出しは順調だった。するすると頭の中から湧き出てくる文章を、そのまま指先を通じてキーボードに流し込めばよかった。
やはり自分は天才だったのだ。そう再び勘違いして天狗になってしまいそうなほどに、次々と原稿は完成し、受け取った編集者は今までの恨みもどこへやら、にこにこ顔で私に頭を何度も下げながら帰って行った。
今にもスキップしそうなその後ろ姿に、勝手ながら作家としての満足感を得つつ、ひとつまたひとつと着実に負債を返済していった。
そうしてなんとか残るはあと一人までたどり着いたのだが。
突然、ぴたりと筆が止まった。先ほどまで滾々と尽きることないかのように溢れ出していた頭の中の文章が、誰かに元栓を閉められたかのように出てこなくなった。
まずい。
事態を即座に理解した脳が、たちまち背中にじわりと嫌な汗をにじませる。
不幸中の幸いと言うべきか、対面に座る今取りかかっている原稿の編集者には、まだ気がつかれてはいない。
モニターはもちろん見えないし、手元はまさにワニの口で隠れていて、タイピングが止まったこともわからないだろう。
だが、それも時間の問題だ。すぐに様子の変化に気がついた編集者は不審に思い、確認しようとするはずだ。
こと原稿のことに関しては編集者に嘘は通じない。たとえ電話越し、あるいはSNSやメールなどの文字を通してでも、彼らは作家の嘘偽りには敏感に気がつく。
何か出版社に代々伝わる見破る方法があるのか、編集者としての経験が勘を鋭くしていくのかはわからないが、とにかく彼らを騙すのは無理と言っていいだろう。
今も、そろりと目だけでモニター越しに編集者を疑うと、早くも怪訝そうな視線を返された。
即座に慌てて何気なく視線をモニターへとそらしたのだが、どうやらやぶ蛇だったらしい。
「どうかしましたか」
言葉も声のトーンもなんてことのない平板なものなのだが、冷たい手で心臓を掴まれたかのように全身がぎゅっと縮こまる。
「あともう少しなんだけれどね。はは、やっぱり腕は錆つくもんなんだな。まいったよ」
そんな内心を極力見透かされないように、細心の注意を払っておどけてみせる。
編集者はそんな私にくすりともせず、「でしたら」と言葉をつなげた。
「より集中できる環境をご用意しましょう。実は、このワニキーボード、セット商品の一部でして、本当はもうひとつ機材があるのです。今、お持ちしますね」
「え、あ、いや……」
これのセット商品? 聞くからに不吉な予感しかないその提案にまごついている間に、編集者は返答も待たずにてきぱきと準備を始め出す。
部屋の外へと一度出ると、その“残りのセット内容”を部屋へと運んできた、というか連れてきた。
そして手慣れた様子で設置していく。完了までにそう時間はかからなかった。フルセットのセッティングを終えた編集者が、淡々とそれの名前を教えてくれた。
「これはカバモニターです。使い方はーー」
「いや、わかるよ。ワニキーボードと同じだろう?」
つまりはそういうしろものだった。
ずんぐりとした巨体ががばりと口を開き、その中にはモニターがセットされている。
ワニキーボードと異なるのはその口の大きさで、向こうが手首がすっぽりなら、こちらは人間の頭が丸ごと入ってしまう。ワニのように細かい歯に縁取られてこそいないものの、上下から数本、太い牙が突き出た杭のように間隔をおいて生えており、それがそのまま振り下ろされれば人間の頭蓋骨などたやすく砕かれる。
いや、牙など使わずともたやすくスイカを砕き飲み込んでしまうカバのことを考えれば、その口が閉じられるだけで、スイカ同様人間の頭もたやすく砕かれてしまうだろう。
そう考えると、目の前のくすんだピンク色をしたカバの口内が、ギロチンにしか見えなかった。
「この環境ならより集中でき、原稿のラストスパートも捗ると思います」
編集者が言外にさっさと頭をつっこめと促す。
冗談じゃない! 私は心の中で叫んだ。
百歩譲ってワニなら万が一の事態があっても手首だけですむ。(もちろん絶対に譲りたくはないが)しかし、カバは手首じゃすまない。たとえ甘噛みでも命が持って行かれる。当たり前だが死にたくはない。
「どうしました」
しかし、そんな当たり前の抗議すら受け付けてくれそうにない。編集者の表情こそいつもと変わりないものの、その視線には有無を言わさぬ迫力がある。自分で入らなければこちらから蹴ってでも頭を突っ込ませる、そう言いたげですらあった。
さすがに、そんな犯罪行為をするはずがない、と常識にすがるのは、ワニに手を突っ込ませている時点で今さらだろう。
彼らは編集者なのだ。原稿がとれるなら、悪魔にだって魂を売るし、それが作家の魂なら喜んで売り飛ばす人種だ。
ひどい職業的偏見だと言う者がいるなら、まずこの私の状況を、その“偏見”以外に合理的な理由をつけてから言って欲しい。
「さあ、どうぞ。なに残りの原稿は我が社のものだけです。居心地は多少悪いかもしれませんがそれも後一息、一緒にがんばりましょう」
「肉体的にも精神的にもがんばるのは私一人だけどね……」
そしてもうがんばることもできそうにない。
本当に頭の中はすっかりカラカラで、一文どころか一文字すら転がり出てくる様子はなかった。ここまでで、今までのすべてを搾りに搾って搾りきってしまったのだ。
たとえ恐怖で尻を叩かれたところでどうにもならないだろう。一度干上がった池が勝手に元通りになることなどないように、放っておけば(ましてやすぐに)再び湧き出してくるような簡単なものではない。
しかし、そのことを編集者にどれだけ懸命に訴えたところで、わかってもらえるはずがない。いや、本気で受け取ろうが受け取るまいが、彼ら彼女らの態度対応は変わらない。
作家が書き終わるまでただただ辛抱強く残酷に、待ち続けるのだ。仮にその末路が死であることが明らかであったとしても、その一秒一瞬前まで手を緩めることはない。
だから、私を待ち受ける結末は二つしかない。
何かの奇跡によって無事に最後の一本を書き上げるか。
枯渇した己の才を恨みながらここで餓死するか、焦れたカバが落とす気まぐれなギロチンに散るかだ。(これだと厳密には三つだが)
そして、今のところ後者のバッドエンドになる可能性が限りなく高かった。
いや、待てよ。
疲労と焦燥で朦朧としてきた頭の中を、ひとつの考えがひらめいた。
本来なら、理性や倫理道徳で壁が作られた思考の迷宮においけして出口とはなり得ない選択肢に、今の私はつながってしまっていた。
おそらく疲れが壁を壊し、焦りがコースアウトも辞さない最短路を選ばせたのだ。でなければ、普段の自分なら、こんな考えはしない。
何より信じられないのは、自分がそれを思いついたことではなく、すでに実行をするのは当然と考えてしまっていることだった。
いや背に腹は代えられまい。それ以上考えると、迷宮に後戻りすることになる。そして、それは私にとっては死を意味した。代えられない以上、腹はくくるしかない。
スイッチを切り替えるように、いやシャッターを降ろすように、私は思考の中のすべての横道隘路を塞いでいった。
「すみません、あのモニターの調子が何かおかしい気がしして」
私の嘘に、原稿第一の編集者は健気にもすぐに対応する様子を見せた。
横に来ると、視線の高さを合わせてモニターをのぞき込む。原因を探るように眉根が微かに動いた。
「たぶん、電源を入れ直せばきちんと動くと思うんですけど、なにぶん私の手はこれこの通り塞がってまして」
両手のワニに視線を送り肩をすくめておどけて見せる。横目でそれを一瞥すると編集者は了解と頷いた。
「分かりました。すぐに再起動します」
言うや、私の両腕が作るアーチをくぐり、私とカバモニターの間に編集者が入り込む。そのままためらう様子もなく、大きく開いた口内へと頭から突っ込んだ。
牙の鋭さも垂れる涎も意に介さず、ぐいぐいとモニターの裏に位置する電源をめざし手を伸ばして体をねじ込んでいく。
その意識はこちらにはない。ならチャンスは今だ。
少し先にある背中を、私は思い切り蹴り飛ばした。
ぐしゃりと、水の入った瓶が割れるような音が、耳に響いた。
小気味のよいその音に、知らず指が動いていることに気がついた。モニターは見えない。しかしブラインドタッチに慣れた私には、画面を見ずとも自分がどんな文章を紡いでいるのかは手に取るようにわかった。
“人を殺す”という強烈な経験が、枯渇していた私の想像力の泉の底をぶち抜いたのだ。新たな水源からは間欠泉のごとくインスピレーションが湧き、その勢いが水車のように両手十指をフル回転させる。
さっきまでの苦悩ぶりが嘘のように、次から次へと打つべき文字が書くべき文章が描くべき物語が湧いてくる。
指先の高ぶりに連動して、私の頭も興奮していった。
これはすごい。
間違いなく今までで最高傑作、いや私の生涯における最高傑作になる。ことによっては文学史に金字塔として燦然と輝き、世界的文学賞すら朝飯前ではないか。
もはや自分のコントロールを離れ別の生き物のような指先の打鍵の軌跡を、閉じた目の裏に文章としてシミュレーションしながら、ひとつ重要なことに気がついて、小さくため息をついた。
この最高傑作の最大の功労者は、今やそれを読むことができないのだ。
了
ワニキーボード 相生生音 @aioiion
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