僕の現代思想

すけだい

第1話

『僕の現代思想』

 現代の思想を自分なりに考えることにした。2つの書物を見比べている。違う2つを結びつける理論は素晴らしいけど、自分はそんな立派な人間ではない。

 僕が見比べている書物は、大学の時に得た教授の教科書。一方は僕の指導教官であり東大卒で阪大教授から関学へ老後に転職した人の本。もう一方は僕と講義以外で関わりがなく京大卒で神大教授である人の本。

 対比するような経歴の2人。昔の卒論指導で指導教官から、別の2つから繋がる何かを得たらいいと言われた。その卒論は力不足から散々な出来だったけど、話を戻す。

一方の理論は、ポストモダンもグローバリゼーションも明治維新と似た特性だと述べる。ハイブリッドモダンと名付けられた上からの近代化は、本来は中産階級から起こる近代化と違う。相対主義や様々な様相の張り合わせといった特徴があるらしい。

もう一方の理論は、リスクを確率による数値化した監視社会が人々を生かす権力となると述べている。自律した人間ではなくデータ化された正常な人間を求められて演じる人間。データ化した人間を生かす福祉国家と生かしてもらう人間との関係。

 この2つを見比べても難しいものである。要するにこうか? 数字によって上流から近代化されたということか。

 物事の根拠には2種類あると習った。古典と数字だ。伝統とデータだ。

 伝統を数字で説得したことはいくらでもある。明治維新は理数をメインとする実学によって日本の伝統から近代化に貢献した。データ化社会はハイブリッドモダンに近しい。

 数値化によって相対化された人間。様々なデータの張り合わせになった人間。他のポストモダンの特性も数値データ化で説明できそうだ。

 グローバリゼーションは国の枠組みを壊し、越えて世界規模の枠組みを作り直す。福祉国家がそれで壊れて行くと言われるが、新しい福祉共同体ができることだろう。理論的にはそうである。

 国の枠を超えて数値化による上流階級からの近代化が起きるのである。例えばスポーツの枠組みの中ではデータが結果を残しデータ至上主義になっている。選手は上から出されたデータをもとにして練習・実践するのみ。

 データによるリスク監視のハイブリッドモダン。むりやり言葉を繋げたらこういう理論名になるのだろうか? この一貫性のない張り合わせ方はハイブリッドモダンらしい。

 弁証法的に問い直すとこうか。ハイブリッドモダンという上流からの近代化がある。もう一方で、数値化による個人のリスク監視化がある。その結果、上流から中産階級・下流の個人をリスク監視化するようになる。

 それにより現代は数字によるポストモダン化をする。数字による戯れ・数字による理想の模倣・数字による……

 マルクスが労働等を下部構造に入れたように、数字が下部構造に入るのだろうか? 数字と数字を求める欲望による上部構造の生成。数字による疎外。

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