減算法の都合

森本 晃次

第1話 意外と裏を

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年1月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。


「何かの策を練る人間は、自分がすることを練ることができても、相手にそれをされるということを考えることはない」

 とよく言われる。

 それは、策士であればあるほどそうなのかも知れないが、策士だと、どうしても自信家が多かったりするので、

「俺の考えていることを、他のやつに見抜かれるわけはない」

 と思うのだろう。

 それは、自分に絶対的な自信を持っている人が思うことだろう。相手の出方を、えてして甘く見てしまうことになるのだろう。

 下手をすると、

「相手がどう出るかなどということを、考えない」

 という人もいるかも知れない。ほとんどの場合まったく考えないということはないとは思うが、こちらが、どう考えるかを相手が考えていることくらいは、察知できるくらいでなければ、軍師のようなものにはなれないだろう。

 そういう意味では、

「兵法をたくさん知っているというだけでは、うまくいかない。相手との駆け引きを考えることができるという意味では、数が少ない方が、洗練された考えということで、作戦を組み立てる上ではいいのかも知れない」

 そういう意味で、作戦があまりにも突出していて、その方法が、うまくいかなかった時のことを考えていなければ、完全に作戦とともに、心中ということになるのではないだろうか?

 そんなことになってしまうと、部下も作戦を実行するリーダーも、疑問を持ってしまうと、皆が疑心暗鬼の状態で戦をしないといけないということは、ほぼ、

「自殺行為だ」

 といってもいいだろう。

 特に戦国時代などは、いろいろな軍師がいて、さまざまな作戦を立てたことだろう。

 例えば、

「薩摩島津」

 の作戦として、

「釣り野伏せ」

 という、相手を引き付けてから、包囲戦耗するやり方で、これは、

「寡兵で大量の兵を相手にする」

 という作戦であるが、ただでさえ寡兵なのに、それを、

「3つに兵を分断する」

 という危険な方法でもある。

 そういう意味では、

「一歩間違うと全滅してしまう」

 という、開き直り的な作戦だといっても過言ではないだろう。

 島津の場合は、これが、

「今津の真骨頂」

 とばかりの作戦であったが、中には、

「有名な作戦であるが、うまくいかずに、失敗した」

 ということで、歴史に残っているというものがある。

 それが、第4次川中島合戦で行われた、

「キツツキ戦法」

 である。

 この戦いは、言わずと知れた、武田信玄と、上杉謙信の戦いであり、この作戦は、武田信玄の軍師といわれた、山本勘助によるものである。

 味方を、本隊と別動隊に分け、まず、別動隊を、敵の陣を張っている地区の背後に進める。

 相手が油断しているところを背後からつき、相手がビックリして混乱しているところ、さらに推すことで、相手はたまらず、前に出てくることになる。

 そこに、見方本隊が待ち構えていて、前と後ろから挟み撃ちにする。

 というものだった。

 しかし、これは、相手に悟られたはいけない作戦である。

 あくまでも、相手の虚を突いて、相手が飛び出したところに、ちょうど、自軍の本隊がいるということでなければ、成功はしない。

「キツツキが、木の幹に穴をあけて、そこをつつくことで、虫が出てきたところを、食べるということにあやかった作戦」

 ということになるのだ。

 だから、まず、

「相手に悟られてはいけない」

 ということが前提で、

「相手が溜まらず飛び出すように仕向けないといけないわけで、しかも、飛び出す先が、本隊の前でなければいけない」

 という問題もある。

 この時の失敗は、

「相手に悟られてしまった」

 ということだ。

 相手がこちらの陣を見た時、

「飯を炊く煙が多い」

 ということから、

「相手が奇襲をかけてくる」

 と気づいたことで、先回りし、夜のうちに陣を捨て、山を下りる」

 ということであった。

 別動隊はもぬけの殻の敵陣に襲い掛かり、本隊は、おびき出されて出てくると思った相手の軍がm普通に待ち構えているのを見て、

「作戦の失敗」

 を悟ったのだ。

 なんといっても、別動隊は、まだ山の上である、数的有利はあっちにあるのだ。

 それでも、何とか、武田本隊は持ちこたえ、有名な、

「謙信の刃を、信玄が受け止めた」

 と言われる伝説に繋がるのだ。

 もちろん、本当にあったことなのかどうか、怪しいものだが、この話は、後世に有名な話として伝わっている。

 一時は押していた上杉軍であったが、次第に武田軍が盛り返してきた。しかも、そこに、別動隊が山から下りて、襲い掛かってきたのだった。

 こうなると、時間差ではあるが、

「キツツキ作戦」

 としての、

「挟み撃ち」

 というのが完成する形になるのだが、いかんせん、そこまでに、武田本隊が、崩れまくってしまっているので、うまくはいかない。

 お互いに弱っているので、結局、上杉軍は退却することになるのだが、それを追いかける力が、武田軍には残っていなかった。

 いくら、最後には、まがりなりにも形ができていたといっても、やはり、最初の作戦通りでなければ、うまくいくはずがない。

 何といっても、相手は、誘い出されて飛び出してきたわけではなく、相手が、満を持して待っていたのであれば、予期していなかったということもあり、全軍が浮足立ってしまうだろう。

 何と言っても、

「キツツキ作戦用」

 の布陣を敷いていたのだろうから、それも致し方のないことである。

 それを思うと、この戦が痛み分けだったというのも、無理もないことであろう。

 一応、

「戦国最強の騎馬軍団」

 と謳われた武田軍であるが、上杉軍のように、

「どうしても勝てない」

 という相手もいるのだ。

 信濃の、村上義清にだけは、2度の大敗を喫したこともあって、いわゆる天敵だったということだろう。

 あの徳川家康を、一言坂、二股城、三方ヶ原の戦いと、徹底的にやっつけた武田軍である。

 そもそも、作戦勝ちといってもいい。

 自陣の城である浜松城に籠城しているところを、素通りされて、まんまと武田軍の作戦に乗り、野戦の引き釣り出された徳川軍は、待ち構えていた武田軍に、完膚なきまでにやられてしまうのであった。

 もっとも、徳川軍は、真田軍にも弱かった。

 第一次、第二次と、圧倒的な兵力で、上田城を取り囲んだにも関わらず、二度とも大敗をしている。

 しかも、第二次の方は、軍を任された息子の秀忠が、

「行き掛けの駄賃」

 程度に思ったのか、真田昌幸の挑発に乗り、本来であれば、急いで決戦の地に向かうはずだったのに、足止めを食ってしまい、結局、本戦に間に合わないという失態を演じることで、秀忠は、家康から、しばらく距離を置かれてしまうことになった。

 もちろん、真田も、いろいろな罠を仕掛けておいての挑発行為、相手の士気の高さを巧みに利用したり、精神状態を計算しての作戦に、頭に血が上った状態の敵軍に、勝ち目はないということであろう。

 特に、戦上手の将というのは、

「一度やられたら、その作戦を相手に仕掛ける」

 ということをやったようだ。

 それだけ、

「まさか、相手も同じ手を使ってくるとは」

 と言わせてしまえば、こちらの勝ち。

 相手は、そんな敵に対して、正直、頭に血が上ることであろう。

 また、もう一つとして、

「灯台下暗し」

 ということもある。

 というのは、これは、ミステリーなどのお話でよくあることであるが、

「一番の隠し場所というのは、どこなのか?」

 ということを聞かれた時、

「警察が一度探した場所だ」

 と答える場合があり、実際に、探偵小説などでは、そのことがよく書かれているではないだろうか。

 というのも、例えば、凶器などを隠すのに、しばらくの間は、犯人が持っていても、いきなり警察が、いきなり見つけるなどというのは、最初から犯人が分かっていなければできないことなので、ないだろう。

 だから、警察が、見付けることができなかった場所が、どんどん、安全な場所として、浮かび上がってくるのだ。

 これは、

「探偵小説としては、基本中の基本なのかも知れないが、意外と実際に犯行では、うまくいくということが、往々にしてあったりする」

 と言えるだろう。

 何といっても、警察はプライドの塊であるといえよう。

「捜査に関してはプロだ」

 と思っているのだろう。

 どんない検挙率が悪くても、それでも、

「俺たちは警察だ」

 という意識があると、そのプライドが邪魔をして、

「一度探したところに、犯人が隠す」

 などということを思うのかも知れないが、プライドから、

「一度捜した場所を、もう一度捜す」

 ということは、決してできないのだ。

 それをするということは警察としての敗北であり、認められないことだった。

 警察が、何に対して喧嘩を売っているのか分からないが、

「警察には警察の、譲れないラインがある」

 ということなのだろう。

 だから、一度捜したところは、よほどの証拠でもない限り、もう一度捜したりはしない。

「そんな暇があるんだったら、それ以外の場所を探す」

 ということであろう。

 それを思うと、

「確かに、一度警察は探して、何もなかったその場所が、一番安全な隠し場所だ」

 と言えるだろう。

 だからこそ、

「探偵小説の中でも、基本中の基本」

 と言われるが、それでも警察は、その基本を実行しようとは思わないのだ。

 実際に探して、また出てこなかったら、そのショックは計り知れない。

「俺の自分の勘を信じればよかった」

 と感じることだろう。

 本当は、冷静に考えれば、分かることなのだろうが、どうしても、

「そんな暇があるのであれば、他を探せ」

 と、いうのが、警察のメンツなのだろう。

 警察は、さすがに公務員。マニュアル通りの捜査を行う。

「事件では、捜査本部が開かれて、いろいろな意見は出るだろうが、最終的には、本部長の意見が採用となる。どんなに無能な本部長であっても、それは必要なことである。警部補まではキャリアですぐになれるが、そこからの昇進は、本人次第。だから、本部長とおなれば、無能ではなれないだろうが、警察機構というものを、ただ机上で勉強しただけの本部長であれば、そのまわりの取り巻き、参謀と呼ばれる人がしっかりとしていなければ、捜査がまともに行くはずもない」

 というものだ。

 つまり、

「捜査本部で決まったことであれば、それ以外の行動をすることは、たとえ管理官であっても、許されることではない」

 という。

 それだけ、

「公務員の公務員たるゆえん」

 なのであろう。

 そんな時、警察は、とにかく融通が利かないから、素人が見ても、

「あぁ、またムダなことをしている」

 と思うようなことを平気でしている。

 さすがに面と向かっては言えないが、捜査員は、そのことを分かっているのだろうか?

 実際に分かっていて、やっているのであれば、

「相当、精神的につらいんだろうな」

 と、無能な上司のいうことを聞かなければいけない部下の気持ちが分からなくもない。

 何といっても、

「あの連中は、現場を知らないんだ」

 と思うからだ。

 実際にはそうでもないのかも知れないが、やはり、テレビ番組の影響は大きいのかも知れない。

 特に、

「あの、レインボーブリッジをどうのこうの言っていた映画」

 などは、特にそうで、最初にテレビ放送があったのは、まだ20世紀の頃だっただろうか?

 そうそう、

「都知事と同じ名前の」

 というフレーズがあったではないか。

 相当昔の番組だということを物語っている。

 あの番組は、それまでの刑事番組とはまったく違った感じだった。

 昭和の頃の刑事番組というと、いわゆる、

「人情もの」

 が多かったような気がする。

 当時の時代風刺もあったり、当時は、まだまだ、暴力団などが、法律の目をかいくぐって、暗躍していた時代だった。刑事の悲哀があったりで、一時間番組が、ほぼ、一話完結系だった。

 それが、今度は、一人(あるいは2人)の刑事にスポットライトを当てる番組が多くなった。得に、1980年代くらいは、カーチェイスや、アクションのようなものを派手にやる番組も出てきて、

「凶悪犯罪に立ち向かうアクション集団」

 という感じであった。

 それと同じくらいの時期からか。今度は、刑事ドラマというよりも、サスペンス劇場のような、いわゆる、

「2時間ドラマ」

 が出てきた。

 その頃から、いわゆる、

「安楽椅子探偵」

 と言われるような、

「様々な職業の人は、犯罪捜査に関わってくる」

 という感じである。

 医者であったり、法医学の先生、ルポライターから、葬式屋までが、警察に協力して事件を解決していくのだ。

 普通の警察ならありえない。素人の探偵でも何でもない人が、以前、事件解決に協力してくれたからといって、

「この人たちはいいんだ」

 とばかりに、刑事が、その人たちに意見を求めるなど、普通なら考えられないだろう。

 ただ、それらの番組は、一種の、

「勧善懲悪」

 とでもいえばいいのか、たぶん、

「一般の素人であっても、警察に協力して事件を解決する」

 というシチュエーションに自分を照らし合わせているのかも知れない。

 ただ、問題は、防犯上、

「それでいいのか?」

 ということである。

 本来であれば、事件現場には、いくら、以前協力してくれたとはいえ、勝手に入ってきて、刑事が、べらべらと、捜査内容を話している。

 普通であれば、刑事には、

「守秘義務」

 というのがあるはずだ。

 捜査会議で分かった事実や、証拠、あるいは、証拠となるべきもの。それらを、簡単に素人に話すのである。

 いくら何でもありえない。

 しかも、さらに問題は、事件解決をする人が、刑事の奥さんという設定の時、

「いつものパターン」

 として、旦那に黙って、犯人とおぼしき人に近づき、その人に、自分が推理した内容を話し、

「あなたが、犯人だ」

 と言えばどうなるだろう?

 しかも、いつも同じ場所である、

「断崖絶壁の崖の上」

 で、犯人に対して、

「あなたが犯人だ」

 などといえば、普通であれば、相手も必死なのだから、崖に追い詰められて、殺されそうになるのがオチである。

 それなのに、なぜ毎回同じ断崖絶壁なのだろうか?

 それを考えると、滑稽で仕方がないのだ。

 旦那の方も、危機一髪のところでやってきて、事なきを得ることになるのだが、それを性懲りもなく、毎回同じパターンなのだ。

「いい加減、学習しろよ」

 と思うのは、自分たちだけではないだろう。

 ただこれこそ、ワンパターンなのだが、これが面白いのだ。

 昔からの、勧善懲悪の番組、

 たとえば、時代劇の、

「徳川家康の孫にあたる、御三家の老人が諸国漫遊に出かける話、あるいは、町奉行が、町人の、しかも遊び人の恰好をして、街で悪党をやっつけて、最後には白洲で、背中の彫り物を見せるという番組」

 それらは、基本的に、毎回ワンパターンであった。

「印籠を出す」

「背中の入れ墨を出す」

 という形で、悪党を懲らしめ、白洲では、

「打ち首獄門」

 などという裁きをして、最後に、

「一件落着」

 といって終わるという、毎回のパターンである。

 つまり、テレビを見ている側も、そのワンパターンを楽しみにするようになっているのだ。

 だから、

「ワンパターンでなければ、勧善懲悪ではない」

 というイメージが染みついているのか、サスペンス劇場でのワンパターンは、当然といえば、当然なのだ。

 そんな番組も、結構長く続いたりしたが、次第に、少なくなってきた。

 というのも、テレビの在り方が変わってきたのだ。

 この頃から、テレビというと、

「有線テレビ」

 という、

「ケーブルテレビ」

 であったり、

「衛星放送などが、それぞれの専用チャンネルを作って、月額数百円で、見放題などという風にすると、皆、好きな番組だけを見るようになるから、有線であったり、衛星放送であったりが、重宝される」

 ということになる。

 となると、それらの放送は、自分たちで番組を作るというよりも、

「昔の懐かしい番組をずっと放送する」

 ということになるので、民放で、お金を出して、ドラマを作るということが、なくなってきたのだ。

 そこで、民放もドラマの時間はどうしても必要なので、

「新しいジャンルの番組」

 というものを組みなおすことになるだろう。

 そんな時代に先駆けて出てきたのは、また別の形態の刑事ドラマだった。

 それが、前述のような、

「警察機構というものに対しての挑戦」

 と言えるような番組であった。

 それが、いわゆる、

「キャリア組と、ノンキャリア組」

 というものの対立のようなものであった。

 物語としては、普通に事件が起こり、それに対して、捜査本部の長であるキャリア組の管理官と、叩き上げ刑事との間で芽生える友情と、立場の違いによる葛藤との間に起こる、物語という感じであった。

 キャリア組というのは、国家公務員試験に合格した人が警察に入ってくると、階級世界であるその階級が、普通の地方公務員試験合格者である、一般の人たちが、巡査スタートであるのに、隊士、キャリア組は、警部補スタートということになるのであった。

 だから、まだまだ若いのに、管理官として、捜査本部の長で、捜査の指揮を取ったりするのである。

 しかし、キャリア組の中には、さらにその中にも、葛藤が存在し、さらに上に行かなければならないという、管理官であっても、

「ただの、通過点でしかない」

 ということになるのだった。

 たたき上げの刑事では、せめて署長どまりだというのに、キャリア組は、若いうちから、さらに高みを目指している。その違いは、

「まったく見えている世界が違う」

 といってもいいだろう。

 もっとも、それだけ違う目を持っている存在が、それぞれあることで、警察機構の、

「層の厚さ」

 というものがあるということもできるであろう。

 そういう意味でもバランスが大切だということで、せっかくの機能をうまくコントロールできる人間が、悲しいかな、今はいないということが、一番の問題だといってもいいだろう。

 そういう問題をドラマにした番組が、1990年代から始まった。

 最初は新鮮で、見ていてサスペンスタッチでもあり、面白かった気がしたのだが、そのうちに、見る気がしなくなってきた。

 その理由としては、昨今叫ばれている、

「コンプライアンス」

 などという問題ではないだろうか。

 いわゆる、

「いろいろなものに対しての遵守」

 と言われるものであり、一般的には、

「法令順守」

 などという場合に使われることが多い。

 例えば、会社などでの、

「ハラスメント違反」

 などは、人の自由や権利を奪うものとして、

「苛め」

 あるいは、

「嫌がらせ」

 などというものが、

「コンプライアンスに違反している」

 というものだ。

 特に、よく言われているものとして、会社などにおいて、

「上司が部下に対して、その優位性を武器に命令したり、嫌がらせをする、パワハラであったり、男性が女性に対して、性的な嫌がらせを行う、セクハラであったり」

 そんなものが、以前は公然と行われていた。今では、必要以上に厳しくなっているようで、下手をすると、パワハラをあまり厳しくしすぎると、今度は仕事が回らなくなってしまうということになりかねない。

 ただ、仕事もないのに、会議で上司が定時に終われないからということで、

「事務所に残っていなければならない」

 という、残業手当が出るわけでもない、

「サービス残業」

 というものが、なくなるのはいいことだった。

 さらには、以前であれば、自分たちの課で主催する飲み会には、

「全員参加が必須」

 などということで、酒が飲めない人、上司のセクハラに耐えられない人まで参加させられ、挙句の果てに、

「俺の酒が飲めんのか?」

 という状態にさせられてのパワハラ。

 今の時代では、そのすべてがアウトなのだが、今から二十数年前くらいまでは、

「それが普通だ」

 という状態だったのだ。

「新入社員の、会社での初仕事が、花見の場所取り」

 などという時代もあった。

 しかも、昔の、アットホームと言われたアニメでさえも、そんな父親の姿を、

「サラリーマンの悲哀」

 として描いていて、それを非難するどころか、

「サラリーマンになったら、それくらいのことは、甘んじてやらなければならないのだ」

 ということを、教えているかのような内容である。

 それが、昭和の、ほんわかとしたアニメや漫画で描かれているのだから、今から思えばとんでもない話である。

 ただ、だからと言って、

「今が一番正しい」

 と言い切れるかどうかは難しいところだ。

 今は、

「どうしてあんな時代があったんだ」

 と言われているかも知れないが、あれが当たり前であり。悲哀ではあるが、

「あれが正しい」

 と、誰もが思っていた時代だったのだろう。

 たぶん、何か問題が起こったから、社会問題になり、今のような、コンプライアンスに厳しい時代になったのだろう。

 例えば、警察の捜査においても、

「取り調べというと、今から思えば、拷問ではないかと思われるようなことを平気でやっていた」

 という時代だった。

 昔は、取調室を閉め切って、容疑者を白状させるために、電気スタンドを顔の近くにモテ行ったり、脅迫めいた罵詈雑言を浴びせたりと、確かに事件解決のために必要なことであろうし、

「凶悪な犯人を許せない」

 という思いに至るのは当たり前のことであろう。

 そんな、捜査をしていると、もし、その人が犯人ではなくとも、脅迫によって、白状させられ、冤罪の罪となったことが後から分かったり、弁護士の入れ知恵で、白状したふりをして、実際に裁判になった時、

「警察から、拷問を受けて、白状させられました」

 といって、警察の捜査のひどさを訴えることだってあるだろう。

 しかし、警察は、

「閉め切った密室で取り調べをしているのだから、被告の主張を否定できない」

 ということになる。

 警察側にも不利なので、取り調べは、

「部屋の扉を開けたまま行い、コンプライアンス違反がない」

 ということを、警察が示さなければいけなくなってきた。

 それよりも、やはり冤罪を生み出すというのは、一番まずいわけで、人の人生をメチャクチャにしておいて、警察も非難されるとなると、一番裁かれなければいけない犯人を野放しにして、

「警察は何をやっているんだ」

 と言われても、しょうがないということになるだろう。

 最近の刑事ドラマというと、そういうコンプライアンス関係のドラマが多かったりするのだ。

 もっとも、それ以降は、正直、刑事ものの番組を見ていない。

 自分が、見るなら、

「ほのぼのとした番組が気楽でいい」

 と思うからであり、実際に、テレビはついていても、

「何かをしながら」

 という、昔からいわれていた、

「ながら」

 ということになるであろう。

 それでも、最近のドラマには、何が面白いのか、刑事ドラマ系は、必ず数本は入っている。

 しかも、

「シーズン2」

 などという形で、前回クールの続編という形である。

 実際に、民放のドラマを見なくなると、衛星放送系の有料場組をどうしても見るようになる。

 ミステリーや、サスペンスの専門チャンネルというものも、いくつか存在し、日本のもの、海外のものと、ドラマや映画を流しているのだ。

 最近見ているのは、

「戦前、戦後の探偵小説ブーム」

 というものがあった時代。

 つまり、小説として、原作がある作品である。

 どうしても、社会派ミステリーと呼ばれた時代から新しいものは、前述の、

「人情派ドラマ」

 から、サスペンス系に続いていくもので、

「重たいものが嫌だ」

 と思っていると、昔のように、そんなカーアクションや、爆破のシーンなどという、映像的に衝撃のある作品は敬遠してしまう。

 しかし、昔の探偵小説の映像化は、正直、かなり衝撃的なものも多い。トリックを重んじる昔の作品などでは、結構、犯行現場というのは、ドロドロとしたシーンが多かったりする。

 しかし、そんなシーンでも、カーチェイスなどよりマシだと思うのは、

「自分の知らない時代背景がある」

 ということだからであろう。

「戦前、戦後の動乱の時代」

 というのは、それこそドラマなどでしかイメージができない。

 それを頭の中に持っておいて、先に原作を読む。

 そして、ドラマを見ることになるのだが、そのドラマというのは、

「相当、イメージと違う」

 と感じるからなのか、原作を読んでから、映像作品を見ると、

「あれ? 何かが違う」

 と感じ、がっかりさせられることがどうしてもあるのだ。

 以前、映画のキャッチコピーえ、

「読んでから見るか? 診てから読むか?」

 というものがあったが、まさにその通り。

 見てから読むと、それほど、悪い印象はないのだが、読んでから映像を見ると、そんな中には、

「見るんじゃなかった」

 と思えるほどのものも多々あるのだ。

 やはり、

「原作が一番」

 ということなのか、それとも、

「想像力が豊かになることで、読書が一番だ」

 という具体的な発想になるのかということであろう。

 そういう意味で、一度原作を以前に読んだことがあるかも知れないという程度の作品であれば、今になってみる昔の作品は、きっと新鮮なものとなることであろう。

 そんなドラマを見ていると、昔の探偵小説と言われていたものの種類が2種類であることに気づくだろう。

 一つは、時代背景が織りなすものというべきか、陰湿でドロドロとした作品が多い。

 例えば、SM系で会ったり、異常性癖、近親相姦などというものから生まれる、ドロドロした人間関係が、犯罪というものを生むという作品である。

 そこにトリックなどもあるのだろうが、あくまでも、

「変質的なことがテーマ」

 となった作品で、中には、

「美というものが、一番尊い」

 と言われる、

「耽美主義」

 なる作品もあったりした。

 いわゆる、

「変格探偵小説」

 と言われるものである。

 もう一つは、ストーリー性や背景に奇抜さはないが、ただでさえ時代背景が、そのまま描くことで、カオスな状態なので、それよりも、トリックなどを重視した。本来の、

「探偵が謎解きを行う」

 という、オーソドックスな探偵小説、いわゆる、

「本格派探偵小説」

 と呼ばれるものである。

 これらの作品は、

「衝撃的な映像」

 という意味では、一番なのかも知れないが、正直、この時代というものを、知らない。肌で感じたこともないわけなので、それこそ、世界が、

「架空の世界」

 といってもいいだろう。

 そもそもが、架空と言われる、フィクションではないか。

 だから、これらの小説を読んでいて、

「どうせ架空なのだ」

 ということで、映像作品を見ていても、そこまで衝撃的に感じなかった。

「元々が、かつて原作を読んでいる」

 という意識があり。

「原作を読んでいるのだから、それほどの衝撃はない」

 ということで、ながらであっても、十分なのだと感じるのだろう。

 そう思うと、昔の小説を、原作でも、ドラマでも、

「何度見ていても飽きない」

 と感じさせるまでになるのだった。

 食べ物などは、最近、飽きっぽくなってきた。

 二十歳未満の頃までは、

「好きなメニューであれば、半年でも一年でも飽きることはなかった」

 といってもいいほどだったが、ある一定の年齢に達すると、

「一週間も続けると、見るのも嫌なくらいになる」

 というのだった。

 なぜなのか?

 と考えてみたが、どうやら、一度、本当に飽きるところまで食べてしまったのであろう。

 好きなものであればあるほど、飽きるという感覚に鈍くなっていて、気がついたら、

「もう見たくもない」

 という感覚になっているのではないだろうか?

 それを思うと。

「ああ、嫌だ」

 と感じるようになり、まわりが見ると、

「そんなのはわがままだ」

 というかも知れないが、そもそも、食べたくないものを、何を無理して食べなければいけないというのか?

 親世代、あるいは、もっと上の人たちは、

「昔は、貧乏で食べれなかった」

「戦時中だったので、モノがなくて」

 といって、

「嫌なものは食べない」

 という状態を、

「贅沢だ」

 と決めつけるようになっている。

 確かに、贅沢なのかも知れないが、それだけ、時代が違うということだ。

 今であれば、

「食いたくもないものを、無理にでも食わせよう」

 などとすれば、それこそ、パワハラで、コンプライアンス違反となるだろう。

 それだけ、時代が変わったといってもいい。

 さらに、そんな古い時代を知っている人も減ってきていることで、その言葉の説得力もない。

 だが、自分たちの世代の中には、

「忘れてはいけない」

 という、そういう気持ちもあるのも事実である。

 これは、何か遺伝子のようなもので繋がっているからなのか。それとも、言っていることが理不尽だとは思いながら、その時代を想像できないことで、余計にその時代を思うからなのか、自分でもうまく消化できていないような気がしているのだった。

 そんな時代のトリックの中で、よく用いられていたのが、

「警察が一度調べたところが、実は一番安全な隠し場所ではないか?」

 と言われることであった。

 そんな昔の探偵小説を、最近では、

「あれは、減算法なのか? 加算法なのか?」

 と考えるようになっていた。

 それは、意識してのことではないが、何か無意識のことのように思えるのだった。

 減算法というのは、

「最初が、100であり、そこから無運していたり、つじつまの合わないことなどを削っていって、最終的に完璧にしてしまうことで推理していく場合をいう」

 推理ではないが、以前言われたことで、将棋の好きな人から、

「将棋で、一番隙の無い布陣とは、どういうものか分かるか?」

 と聞かれたことがあった。

「いいえ」

 と答えると、その人は、まるで、鬼の首を取ったかのように嬉々として、

「それはね。最初に並べた形なのさ。あの形が完璧な布陣で、そこから一手差すごとに隙が生まれる。だから、後はお互いの個性によるオリジナルな戦法なのさ」

 というのであった。

「ああ、なるほど、減算方式か」

 と、そんな風に感じたものだった。

 そういえば、そうである。

「相手に少しでも隙がなければ、こっちだって動けないからな」

 と、当たり前のことを思うのだった。

 では加算法というのはどうであろう。

 加算法というのは、

「元々がゼロであり、そこから一つずつ積み重ねていく」

 というものである。

 いわゆる、

「ゼロからの出発」

 といってもいいのだろうが、そもそも、ゼロというものの考え方として、他の人と違う考えを持っていることで、加算法にも、少し納得する何かがほしいと思うようになっていたのだが、

「まず、ゼロというものの考え方」

 である。

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョーシカ人形」

 という考え方は、

「ゼロというものに、対していかなる考えを抱いているかということである。

 合わせ鏡というのは、

「自分の前後、あるいは、左右に鏡をおいて、その鏡を見ていくと、鏡に写った自分というものが、どんどん小さくなっていき、無限に続いているように見えるもの」

 である。

 無限ということであれば、

「どんなに小さくなっていても、ゼロになるということはない」

 ということであり、これは数学でも証明されている。

「ゼロ以外のものを、何で割っても、ゼロには、絶対にならない」

 ということで、どんなに小さくなったとしても、そこに存在しているものは、

「限りなくゼロに近い」

 ということで、

「ゼロとは、似て非なるものだ」

 ということになるのであろう。

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