刺して 抜く

@reizouko

刺して、抜く

刺して、抜く

刺して、抜く

午前7時。起床。目覚ましはかけない。私の体内時計はグリニッジ天文台より精巧に作られている。嘘だと思うなら、私を録画してみるがいい。

起床後即座にナイフを握りしめる(即座とは——3秒。断言する、3秒)。

は私を狙っている。なんの変哲もない日常に、奴らは注意深く潜んでいる。隣の芝生に、白いフェンスの裏側に、雪だるまの後ろに、家族用ボックスカーの後ろに。我々はいつ刺されるかわからない。だが、終わらないデスゲームに屈するわけにはいかない。生きなければならない。人間は生きるために作られている。そう作られているのだから、生きなければならない。これは当たり前のことだ。

私はナイフを構える訓練を欠かさない。起床して5分後、ドアの前に立ち、きっかり4回、心臓のあたりを突き刺すように素振りする。望まない来訪者にドアを開けられた時、これで自分の命を守ることができる。

30分後、母親が自室のドアをノックする。

「   、朝よ 起きて ごはん 冷蔵庫に入ってるから」

母親!これこそが罠なのだ。

敵はどこに潜んでいるかわからない。先入観はいらない。味方が敵に寝返ることは、この世界では日常茶飯事だ。したがって敵味方の区別は生き延びる上で不要だと、哀れな人々はわかっていない。

自家用車のエンジンがかかる音がする。親が仕事に出かけると、私は階段を降りる。

私は母の用意した朝食(目玉焼き、ソーセージ、という家庭科みたいなメニュー)を15分かけて食べる。

私は生活をしている。そのため、家事をする。

刺して、抜く

刺して、抜く

ルーティーンが大事だ。太陽と月が交互に上るように。雨が大地にふり注ぎ風が吹くように。毎週火曜日、右隣の家に見知らぬ軽トラックが午後1時にやってきて、午後4時に帰っていくように。向かい家の16歳の女が毎日午後10時に家を出て、午前3時に帰ってくるように。左隣の家の窓に午後12時、女を叩く男の影が映るように。ルーティーン。人間はルーティーンなしには生きられない。

私はよくわかっている。

刺して、抜く。私は夕飯の準備をする。家に住んでいるのだから、両親は食事を作れと言う。たまには、というのは嫌いだ。大嫌い。この世で一番嫌い。たまには、に含まれる膨大すぎる要求に私は応えられない。膨大すぎる要求を押し付けてくる両親も大嫌い。だから私は、毎日夕食を作っている。刺して抜く刺して抜く刺して抜く、を繰り返すうちに、私はハンバーグを作った。

毎日作る必要はない、と両親は言う。私はその言葉を信じない。

そろそろ働いてくれ、と両親は言う。残念だけど、その要求には応じられない。この社会に貢献するようなことはできない。なぜならは、社会に潜んでいるから。何も持っていない私から全てを奪い去ろうとするから。そんなことは当たり前だ。ボロ雑巾を絞ってなけなしの財産を奪い取るのがの手口だ。それが社会というものだ。わかっている。それは受け入れている。だから私は身を守る。この世に生まれたことを嘆いてはいない。そんなのは弱者のすることだ。私は強くなる。そのために午後1時から3時間、腹筋と懸垂を欠かさない。

敵と味方、の区別はない。弱者と強者、の区別はある。

私は家事をする。フローリングを拭く。半年に一度、第一月曜日、ワックスをひく。テレビの埃を拭く。キッチンの汚れをクレンザーで洗い流す。私は家事をしている。刃物の使い方を覚える。薬剤の使い方を覚える。「混ぜるな危険」の意味を理解する。鼠取りの作り方を覚える。私以外にこんなことをしているのは「専業主婦」というカテゴリーの人間だ。

なぜ専業主婦は社会的に認められ、私は貶められるのか。

両親は、そろそろお相手を見つけたらどうだ、と言う。男が嫌なら女でもいいと。とりあえず誰かと一緒にいてくれと。どちらも同じことだ。性別を変えても職業を変えても同じことだ。がもし私の伴侶となったら、あなたたちはどう責任をとってくれる?

は身の回りに潜んでいる。

そのために刃物の鍛錬を欠かさない。

ナイフの素振りを欠かさない。そう育てたのはあなたたちだ。

料理ができるようになってね。家事ができるようになってね。そう育てたのはあなたたちだ。

デスゲームに勝つために、私はルーティーンを守らなければならない。一分一秒正確に、守らなければならない。

「   は、まだ部屋から出てきません  家事は完璧なんですけど そんなのもういいんです 強要したわけじゃありません」

「 歳にもなって 職にもつかず どうしたものですかね もう取り返しがつかないんじゃないでしょうか」

「お母様 心配する必要はありません 誰でも いつでも立ち直れますから」

月に一度、知らない男が部屋の前にやってきて、私に呼びかける。その後、男は両親と話し合いをする。

私は窓からの監視をする。向かいの家から、16歳の女が出てきた。スパンコールで着飾った派手な娘。携帯の明かりが、女の赤い口紅を照らし出している。

女が去る。暗い住宅街が戻ってくる。

遠くの道路に、のろいヘッドライトが通り過ぎていく。午後10時5分ごろ、大型スーパーのスポットライトが消える。

午後10時半、見知らぬ男の車が家のガレージから出ていく。

午後11時、両親が就寝する。私は風呂に入り、午前0時に就寝する。

このルーティーンが守られている限り、安全だ。こうして日々をつましく暮らしていれば、は近寄れない。私のルーティーンを乱すことはできない。


「   、朝よ 起きて ごはん 冷蔵庫に入ってるから」

ルーティーンの大切さを教えてくれたのは母親だ。早寝早起き朝ごはん。学校の決まった時間割。夜は早めに帰ること。このルーティーンを繰り返していれば良いのだと、母親は根気強く説いた。

強い者は、ルーティーンを繰り返している。思考停止などではない。自らを律するためにルーティーンを課している。斜め左向かいの退役軍人は今でも午後2時からトレーニングを欠かさない。

ナイフを握って、ドアの前で、

刺して、抜く

刺して、抜く

「ねえ  頼むから話し合いましょう あなたを助けたいの 怯えているのはわかっているから」

助けたい、だと!これこそが罠なのだ。

助ける、という行為は、暗黙のうちに「助けられる」ことを期待している。はその隙をついてくる。無償の愛など存在しないのだから、無償の助けだって存在しない。

「本当に助けたいの お願い話を聞いて あなたを愛しているの」

の張り巡らした罠。私を完全なる出涸らしにしようと企む罠。出涸らしの末路など、言うまでもないだろう。

斜め右向かいの集合住宅には、一日500キロカロリーも取れていない子供がざっと10人以上は住んでいる。死んでいてもおかしくないのになぜか生きている。その親たちは出涸らしだ。に騙されたのだ。哀れな人たち。毎日水でシャワーを浴びるような人たち。風呂に入ったことなど、人生で一度もないだろう。にそそのかされて、愛だの助け合いだの信じるからそうなる。彼らはルーティーンを守らなかった。だからに潰された。

大きく育った街路樹の下には、浮浪者がもたれかかっている。強いていえばあれこそが無償の愛というものだ。街路樹はなにも拒まない。皆に平等に日陰と屋根を提供する。最後に頼れるのは自然だけだ。

人間なんて。

「わかった 今日は仕事休む だから遊ばない? 午後から雪が降るんだって」

私は答えない。返答できるのは午前7時半から8時までの間、午後7時半から8時までの間と決まっている。

「……雪が降ったら また来るから」

足音が階段の下に降りていく。それから自家用車のエンジンがかかる音。仕事ではなく、スーパーに行くのだろう。

私はいつものように階段を降りて、家事を開始する。

刺して、抜く

刺して、抜く

ロールキャベツ。


「雪 降らなかったね 残念」

午後7時半、母親がノックもせずに話しかけてくる。

「せっかく遊ぼうと思ってたのに」

「遊ぶなんて用事は 私のルーティーンには入ってない」

私が言葉を発すると、ドアの向こうが沈黙した。

「いいじゃない たまには 家にこもっているとよくないよ」

「遊んだら 馬鹿だと思われる」

「どうしてそんなこと言うの」

「遊んだら あなたは不満でしょ」

「不満なわけない こっちから誘ってるのに」

話が通じない。

「ねえ 理由を教えて?」

「自分で考えたら」

「わからないのどうしても でも お母さんが何か悪いことしたなら 謝るから お願いだから部屋から出てきて」

「なぜ? 私はやるべきことをやってる」

「仕事に行って お願い」

が私を狙ってる 私は対抗しなければならない」

母親はまた黙った。

沈黙の後、階段を降りる音が聞こえた。

の監視を開始する。家の前を、右隣の隣の家の男が犬を散歩させている。窓ガラスにつけた額が氷のように冷たい。

みんなと共存しながら、なぜ正気を保っていられるのかわからない。はこちらを容赦無く攻撃してくるのに、ナイフもなしにどう抵抗しているのだろう。

仕事をすればわかるのだろうか。

でも、私を雇ってくれるところなどない。私はには不要だから。

需要と供給。私はそこからこぼれ落ちた。出涸らし。

街路樹に守ってもらわなければならない存在。

……いや、違う。

私は強い。強い方の人間だ。私は決してには屈しない。

まだ、時計の針は7時56分をさしている。

「……ねえ お母さん」

廊下の向こうに呼びかける。少しの間をおいて、母親が階段を登ってくる。

「なあに?」

「仕事をしたらから狙われるよね」

「そんなことない 現にお母さんは平気じゃない」

「それは……お母さんは強いから」

「ならあなたはそれ以上に強い ちゃんとやるべきことをやって生きていれば それなりに幸せになれるんだから 怯えるのが一番よくない」

「……」

「あなたは強いんだから 引きこもってたって料理もできるし掃除もできるし あとは仕事ができれば完璧なんだから どこでもいい そこの携帯ショップなんかいいじゃない いつも店員を募集してる そこから始めよう あなたは強いの なんかに襲われても大丈夫 そのために毎日腹筋しているんでしょ」

母親は必死に私に語りかける。

大半の言葉は耳を素通りしていく。

だが、一理あると思った。

私はに対抗するために確固たるルーティーンを守り続けている。そのルーティーンはを退けるためにある。むしろ私は社会に出ることで、を退治できるかもしれない。

もしかすると私は、よりも強くなっているのかもしれない。その可能性はある。戦ってみなければわからない。

「お願い 毎日やることをやればいいの やることをやれば それ以上望まない」

「……やることって」

「普通の生活 普通の生活を送ってくれればいい」

時計の針が8時を指す。

「だから……お願いね」

母親の足音が遠ざかる。

私は窓の外から、左隣の隣の隣の携帯ショップを覗く。

の棲家。

あんな携帯ショップが営業していたら、世界はもっと悪くなる一方だ。の手口。我々に「必要不可欠」なものを与え、対価として水分を搾り取る。待つのは出涸らしとなる未来。

だが……私にも、差し迫った事情がある。両親はいつ死ぬかわからない。その時私は、ルーティーンを続けられなくなる。そうなれば待つのはからの襲撃だ。大勢のに攻撃を許したら最後、ナイフをもってしても抵抗できないだろう。

ならばいっそ……の懐に入ってでも、生活を続ける努力をしなければならないのかもしれない。

考えるうちに、夜が更けていた。今日の監視ノルマは達成した。とにかく、ルーティーンを守らなければならない。何があってもルーティーンは絶対だ。時計が午前0時の鐘を鳴らすと、私はベッドに潜り込んだ。


午前6時55分、なぜか目が覚めた。今まで、一度もこんなことはなかったのに。

そして、すぐその理由に気がついた。室温が異常に下がっている。

イレギュラーを犯し、ベッドから起き上がる。

窓の外が真っ白だ。

雪が降っている。

温度計は0度を下回っている。私は呆然としながら、雪の降り積もった路上を見つめていた。

雪が降ると、ルーティーンが崩れる。

両親が家を出る時間が、遅くなる。

向かいの家の女が出てこなくなる。左隣の家の男が女を抱きしめる。右隣の家に軽トラが来なくなる。退役軍人がトレーニングをしなくなる。男が犬を散歩させなくなる。見知らぬ男が来なくなる。集合住宅のなぜか生きている子供が死ぬ。

眩暈がしてきた。吐き気が。

私はベッドに潜り込んだ。怖かった。ルーティーンが崩れることは、世界の崩壊と同じだ。人々のルーティーンが崩れたことにつけこんで、は攻撃を始めるだろう。そして私は、出涸らしになる。

出涸らしになるのは嫌だ。出涸らしになるのは怖い。

痩せた子供たち。

出涸らしの親。

街路樹の下の浮浪者。

浮浪者は死んだな。

ほら、の攻撃はもう始まっている。

時計の針が7時を指す。

……私だけはルーティーンを守らなければならない。私だけは抵抗を続けなければ。その日のために、日々鍛錬を積んできた。今こそ、私の真価が発揮される時だ。

ナイフを握る。怖くてたまらない。でも、やるべきことをしなければ。

普通の生活を。

午前7時4分。ナイフを握る手に汗が滲む。凍えそうなほど寒いのに、全身に汗をかいている。たまらず、ベッドを出る。ドアの前に立つ。

ルーティーン。

ドアを開けかけた時——階段を登る足音に気づいた。

「ねえ! 雪降ったよ 一緒に遊ぼう!」

ああ、だめだお母さん。

ドアが開かれた。

だめだ。

母親がその場に立っている。

お母さん。

私はナイフを握っている。

「外 出よう 雪が」

だめだ。

私は普通の生活をしなければならないのに。

「え」

刺して、抜く

刺して、抜く

ドアの前に立ち、きっかり4回、心臓のあたりを突き刺す。


母親がドアの前に倒れている。血を流している。フローリングの床が素足に冷たい。

「どうした!?」

父親が階段の下にいる。私はすでに想定していた、緊急事態用の行動を実行した。

動くものは手当たり次第刺して抜く。

刺して、抜く

刺して、抜く

父親が動かなくなったところで、玄関のドアを開ける。

一歩踏み出した途端、素足の感覚がなくなる。

寒い。

空は大理石のように冷え冷えと白い。

私はナイフをもったまま、当てもなく、足を前へ動かす。

ここから何をすればいいのかわからない。

でも、ルーティーンを続けなければ。

足の指が赤く染まっている。雪に、血が滴り落ちて、じわりと吸い込まれていった。

パジャマの下に、鋭い冬の風が入り込んでくる。

に騙されたな」

街路樹の下の浮浪者が囁いた。

騙された。

凍えてしまう。

嘘だ、自然は信頼できるものだと思っていたのに。こんなにも簡単に、私に牙をむくなんて。私を、殺そうとするなんて。

ああそうか。無償の愛などというものは、無慈悲と同じなんだ。

でも普通の生活を続けなきゃ。どこかの家で。どこか、鍵の開いている家に入り込んで。いつものルーティーンを続けなきゃ。

続けなきゃ。

刺して、抜く

刺して、抜く

刺して……。

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