限りなくブラックに近いグレー

糸田三工

第1話 二葉の写真

私(Y)の手元には、勤続二十年の同期会に集合した総勢二十四名の集合写真がある。


就職氷河期のど真ん中で、総合職の採用も最初で最後の二桁だった年次であることを考慮すれば、驚異の集合率(勤続二十年組は欠席者を含めても三十人弱なので、今回の出席者も十三名だけで残りは転職組若しくは出戻り組)である。


二葉とも二十三名は全く同じ場所になっているのだが、前列中央だけ私と彼(W)が入れ替わっている。


「折角の機会なので、店員さんにお願いして全員の集合写真を撮ろう」と彼及び殆ど全員が主張したのだが、「歓送迎会シーズンで混雑しているので、私とWが交代でカメラマンになろう」と私一人が強弁した。


典型的な調整型である私の反応に彼及び転職組は一瞬だけ面食らったようであったが、勤続二十年組の暗黙の同意もあり、私の思惑通りとなった。


彼と私の関係を説明すると、二人とも関西採用であり、大阪支店ホールで開催された内定者懇親会で初めて言葉を交わした。


内定者よりも若手社員に熱心に質問をして回る彼に違和感と同時に興味を覚えたので、彼のテーブルに移動して話し掛けた。


現役入学、卒業している彼は、付属校出身者、浪人及び留年経験者に対して「人生に対して何か余裕がある」と不思議なコンプレックスを持っており、東京出身者に対して恐怖に近い感情を持っているように感じた。


当時の大学生にとっての必須アイテムであるポケベルを持っていなかったので、彼は入社式まで完全に存在を消していた。


千葉県郊外にあった研修所で再会した際には、満面の笑みで近付いてくる彼の目標が私であったとは声を掛けられる直前まで全く気が付かなかった。


空気を読むことが出来ない彼は、同期の中でも何となく浮いた存在であり、私も少し距離を置いていたつもりであったが、一人でいると近付いて来るので、数少ない友人と考えられていたと思う。


彼が心を開いたのは、懇親会で二人きりになった時、「実を言うと、周りのテーブルの会話が聞こえてしまうので、知りたくない情報を得てしまうことで気苦労も多く、人間関係に疲れてしまう」という告白であった。


実は、私自身も苦しみ、耳鼻咽喉科ではなく脳外科若しくは神経外科を紹介された経験があったのだが、驚いたことを押し隠して、「それは豊聡耳(とよとみみ)と言って、聖徳太子が同時に複数の人と会話出来たという能力であり、むしろ羨ましい」と答えた。


空気を読むことが出来ないと思っていた彼は、情報過多に陥って的確な対応が出来なくなっていたのであり、私は意識的に情報を蓄積しない当たり障りのない会話を心掛けているだけの差異だった。


研修後、彼は名古屋支店で私は大阪支店に


配属されたので、特に意識をしていなかったが、下馬評は周囲に馴染むことの出来ない彼は辞める奴の筆頭と考えられていたことは間違いなかった。


一年後、事前予想は見事に覆された、一位こそ同じく名古屋支店の同僚であったが、肉薄した二位であり、三位以下とは異次元の戦いを繰り広げていた。


名古屋支店を率いるX課長は鉄のカーテンと呼ばれる厳戒態勢を敷き、全員が上位に名を連ねる状況であり、私が卒業した大学の先輩でもあった。


勢いはそのまま彼は同期のトップランナーに駆け上がり、私は後塵を拝して今にも馬群に沈みつつあった。


転機が訪れたのは証券不況の煽りで、独立を維持出来ずに親会社が外資系になり、その後は親会社銀行と激変する中で、柔軟に対応することが出来ない彼は組織や上司を度々批判する要注意人物とされ足踏み若しくは後退し、私は親会社銀行の取引先でもある父親が経営する会社との関係も少なからず考慮された結果、苦痛であった営業から希望する経営企画部へ異動出来たことであった。


説明が長くなってしまったが、このような経緯もあり、多くの同期から彼は「三つ子の魂百まで」と復活を待望され、私は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と親会社銀行支配の象徴として不満の捌け口となってしまった。


会場は鰻の寝床みたいな中華料理店で、開場の十八時から奥に詰めていくのは心待ちにしていた転職組が占め、彼がその輪の中心に昔話に花を咲かせていた。


週末と雖も定時退社は部室店長以外を除くと難しいのが実情であり、十八時半に私が到着した時点で全く別の団体であるかの如く見事に二層に分断されていた。


「こっちに来いよ」と彼は満面の笑みを浮かべて呼んでいるのだが、両層からの無言の圧力と見えない柵によって、私は手前のテーブルに滑り込んだ。


待っていた面々の関心事は、予定されているグループ子会社である証券会社との経営統合による椅子取りゲーム(規模を考慮すると圧倒的な当社に分があり)と赤字体質(更に先方にとっては棚から牡丹餅の賃上げ)であるのでボーナスの削減が見込まれることだけでなく、親会社である銀行から本部長補佐や副部長として派遣される上司が横暴且つ無能であるにも関わらず、恣意的な顧客紹介等といった影響力を行使して、存在感を徐々に拡大させていることに対する不安や不満ばかりで暗澹な思いにさせられ、その恩恵を受けて人事部の副部長にある私に怨嗟の矛先が向かうのは、ある意味で止むを得なかった。


「現場の苦労も知らずにコンプライアンス研修ばかりさせやがって」や「約定の録音する為、個人携帯電話の禁止等の負担を矢継ぎ早に掛けやがって」や「相変わらず本社は、NATO軍(NotActionTalkOnly:行動を伴わない口先介入)だ」といった愚痴と「お客様より上司様」や「法令よりも数字」といった揶揄が彼の耳に届いていないことを心から祈った。


意識的に彼が座るテーブルの会話に耳を傾けると研修所での自己紹介、外務員試験対策や休憩時間のサッカー、リクリエーションの一環として実施されたソフトボール等のエピソードに私の心も二十年前の思い出に引き込まれてしまった。


「いい加減にしろ、さっきから適当な相槌ばかり打って現場の声を無視するのか」と近隣支店から駆け付けた同期が憤怒の表情で迫って来ているのに気が付いた。


営業一筋二十年で普段は温厚篤実な同期の怒りは尋常でなく、唯々平身低頭して謝り続けるしかなく、私のテーブル全体が一気に鼻白んでいくのが肌で感じられた。


針の蓆というのは、まさにその後の状況を表現するのに相応しい言葉であり、何を言っても虚しいと判断すると人は獣の如く貪り続けることを知ったのもこの時であった。


「結局、自主廃業せざるを得なかった山一證券より二度も倒れかけて親を変えても生きながらえ続ける方が地獄なのかもしれない」と呟いた同期の嘆きも聞こえない振りをするしかなかった。


「全員集合したので、集合写真を撮ろう」といった彼の提案に安堵を覚えたのは私だけではなかったはずだ。


撮影終了後は写真と同様に彼と私がテーブルを変更して、仕切り直しとなったが、あれだけ盛り上がっていた奥のテーブルが嘘のように静まり返り、お通夜のような状況だった手前のテーブルが息を吹き返して、彼が話題の中心になっていることに気が付いた。


DPEショップで人数分プリントして戻った幹事から二葉の写真が手渡されて、再認識させられるとともに決定的な証拠を突き付けられたのだった。


彼の写真は笑顔に溢れ、二十年前の希望に満ちた二十四名が彼を囲み、私の写真は疲れ切った、希望に敗れた現在の二十四名が囲んでいるのだった。


これから彼と一対一で向き合う必要があるので、冷静になろうと考えて怒りの裏には期待があり、六秒間我慢は、アンガー・マネジメントの基本であるが、怒りよりも悪質な妬みの感情が湧き上がって来る自分を抑えられなかった。

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