第12話
こうなる未来を無視していたわけではない。
頭の片隅には常に存在していた可能性だった。
でも僕はそれに蓋をして、目に見えるものだけを信じようとしていた。
「会いたかった……」
目に涙を滲ませそう呟いた彼女は、紛れもない『相瀬梨乃』だった。
でもそれは、僕が真実としていた『相瀬梨乃』とは全く異なる存在。あの時別れを告げたはずの元カノと今、僕は数カ月ぶりに再会したのだ。
「凄く寂しかったよ……」
そんな信じがたい現実を前に、ただ立ち尽くすしか出来ない。真っ白な世界に置き去りにされたかのような。思考が虚空へと落ちた僕の身体を、彼女は強く抱きしめた。
光、光……と、僕の下の名前が耳元で囁かれる度に、相瀬はもういないのだという事実が、確かな絶望として僕の全てを灰と変える。
「もうどこにも行かないで……」
今まで心地よくすら思えていたはずの声が、その温もりが。こんなにもいとわしい物に感じられてしまうなんて……
「……君じゃない」
「えっ」
「この漫画を見せたかったのは君じゃない……」
こんな現実、受け止められるわけがない。
僕は相瀬のために漫画を描いた。それはただの自己満足だったかもしれないけど、原稿と向き合った今日までの時間は、僕が求めていた日常そのものだった。
「……っ」
相瀬は消えた。
ならこんな物、もう僕には必要ない。
「光……!」
僕は手にしていた原稿を投げ捨て、現実から逃げるように走った。
走って、走って、走りまくって……ようやく呼吸というものを思い出したその時――僕の手元に残っていたのは、どうしようもない喪失感と相瀬の記憶。
「あぁぁぁぁぁぁっっ……」
膝から地面に崩れ落ち、喉がちぎれるほど嗚咽した。
相瀬が消えたことで、僕は本当の気持ちに気づいてしまった。
この胸を抉られるような痛み……。
間違いない。
僕は相瀬に特別な感情を抱いていたのだ。
それが恋なのかどうかはわからない。でも僕は今、この現実に絶望している。それは心にぽっかりと空いた穴が証明する、紛れもない真実だった。
◇
あの日からどれくらいの時間が過ぎただろう。
少なくとも十日……いや、二週間は家から出ていない。
食事も片手で数えるほどしか摂っていないし、大学もバイトも休みっぱなし。あれほど熱中していた絵すらも、いつしか描くことをやめてしまっていた。
「何やってるんだよ、僕……」
自らに呆れるように呟いて、テーブルに置いていたスマホを立ち上げた。
すると表示されるのは、未読のまま放置していたメッセージ。その大半は梨乃からの物で、「今何してるの」とか「会って話をしたい」とか、過去にもよく目にした内容だった。
思えば今日まで、何度かインターフォンが鳴っていた。
僕はその全てを無視したけど、おそらくあれは梨乃だったんだと思う。
「単位……やばいよな……」
僕はもともと、出席率が高い方ではない。
だからたった二週間の欠席でも、成績に関わる痛手だった。
「行くか……」
いつまでもこうしてはいられない。
相瀬は消えた。それは確かな事実だとしても、言ってしまえば元の日常に戻っただけのこと。僕と梨乃は幼馴染で元恋人。それ以上でもそれ以下でもないのだ。
◇
家から一歩出れば、暗闇に慣れた僕の目に陽の光が突き刺さった。
栄養不足で力の入らない身体を何とか動かして、僕は久しぶりに大学の正門をくぐった。まずは生協で軽い食事とお茶を調達し、食べながら講義室を目指す。
まるでお経のような教授の話を一時間半ほど聞いた後は、いつもの休憩室へと向かった。相変わらず誰もいない快適な空間に安堵しつつ、僕はすぐさま机に突っ伏した。
「はぁぁ……」
その時、大きなため息が漏れて、何のやる気も起きない僕をより一層沈ませた。まるで底なし沼にはまったような気分だ。
徐々に奪われていく意識。このまま眠ってしまいたいけど、目を閉じると必ず浮かんでくるのは、記憶に新しい相瀬との時間だった。
あの時くれたハッピー〇ーンの味が鮮明に思い出されて、眠りにつこうとする僕を現実に引き戻す。
もう、帰ろう――僕はそう決めて、重い身体を無理やり起こした。
「間宮くん」
その時――不意にそんな声が静寂に響いた。
馴染み深いその声は、僕を下の名前ではなく”苗字”で呼んだ。
「久しぶりね。少し痩せたんじゃないかしら」
「君は……」
振り返った先にいたのは、紛れもない僕の幼馴染だった。でも、彼女は梨乃じゃない。そのどこかつかみどころのない笑みが、『相瀬』であることを証明していた。
「どうして相瀬が……」
灰色だったはずの世界に色が戻る。
突然のことに困惑するしかなかった僕に対し、彼女は落ち着いた口調で言った。
「どうやらワタシは消えてなくなったわけじゃないみたいね」
「それはどういう……」
「今、この身体には二つの人格が混在しているのよ」
二つの人格が混在している……?
「待ってくれ……意味が分からない」
長いこと思考することのなかった脳には、あまりに難しい話だった。
「言葉通りの意味よ。相瀬梨乃とワタシ、そのどちらかの人格が表に現れるの」
「つまり……今はたまたま相瀬だけど、梨乃の人格になる時もあるってことか?」
「ええ。先日、相瀬梨乃が病院に行ったみたいだけど、原因は不明だったみたい」
「そんなバカな……」
こんな展開フィクションとしか思えない。
でも事実として、僕の目の前には消えたはずの相瀬がいる。
「そういえば。漫画、読ませてもらったわよ」
「えっ……」
僕が困惑している最中、相瀬は平然とした様子で言った。
「凄く良かったわ。やっぱり間宮くんは絵が上手いわね」
「漫画って……あの漫画だよな」
「ええ、その漫画よ」
相瀬に見せるはずだった漫画は、あの日盛大に投げ捨てたはず。
「どうしてあの漫画を……?」
「相瀬梨乃が拾ってくれていたのよ」
すると相瀬は、その希薄な表情をほんの少し不服に染めた。
「間宮くん、ワタシが消えたとわかった瞬間、漫画を捨てて逃げたそうじゃない」
「それは梨乃から聞いたのか?」
「ええ。こんな状態だから、数日前からメモでやり取りをしているの」
なるほど……それなら確かに同じ身体でもコンタクトを取れる。
「会いたがってたわよ、あなたに」
「……っ」
しかもこの感じ、どうやら二人の関係は想像以上に良好らしい。でなければあの嫉妬しいで、僕に近づく女性を嫌う梨乃が、メモのやり取りに応じるわけがない。
「僕だって、別に会いたくないわけじゃない」
「なら、今からワタシの家に来るのはどうかしら」
「へっ?」
何の脈略もなく相瀬は言った。
おかげで僕からは素っ頓狂な声が漏れた。
「今のワタシはあなたの元恋人じゃない。なら家に来るのも平気でしょ?」
「平気でしょって……君の家じゃないだろ」
「今の相瀬梨乃はワタシ。だから誰を家にあげようが問題ないわ」
すると相瀬は思い立ったように人差し指を立てた。
その顔は心なしか活き活きしているように見える。
「それに、間宮くんに見せたい物があるの」
「見せたい物……?」
「ええ。きっとそれを見れば、あなたの疑念も少しは晴れると思う」
僕の疑念が晴れる物……全くもって心当たりがないけど、相瀬が何の理由も無しにこんなことを言うとは思えない。
「僕、この後授業なんだけど」
「もちろん、終わってからで構わないわ」
そう言うと相瀬は僕に背中を向けた。
「ワタシは先に帰ってクッキーでも焼いておくから」
そんな言葉を残し、独り休憩室を出る。
断る理由を失った僕に、もはや選択肢はなかった。
夏の頃よりほんの少し伸びた、その艶のある黒髪を見つめては、「はぁ……」というため息を溢し、僕は去り行く彼女をこんな風に表現する。
やっぱり相瀬は変わっている――と。不可解な現実を当たり前のように受け入れている彼女には、感情というものが存在しないのではとさえ思う。
でも彼女は希薄ながらもその表情に笑みを宿す。怒りも見せる。そしてそんな相瀬が存在するという事実に、ホッとしている自分がいるのもまた確かなこと。
「仕方ない」
僕はほんの少し軽やかになった足で、次の講義室へと向かった。
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