第7話
こうして本日の営業は無事に終了となった。
全ての閉め作業を終えたところで、キッチンにあるタイムカードを切る。
壁のフックにスタッフルームの鍵はない。
きっと夜谷さんが、先にあがって原稿に取り掛かっているのだろう。
「お疲れ様です」
スタッフルームの扉を開けば、予想通り机に向かう夜谷さんがいた。
「あ、間宮くん。お疲れさま」
「バイト後なのに大変ですね」
「まあ、締め切りがあるからね」
僕と会話をしている間も、常に夜谷さんの意識は目の前の原稿に向いていた。作業中に悪いとは思いつつも、僕はつい気になってしまい、その原稿を覗き見する。
『ミラード・インフィニティ』
二つの世界線が接触し生まれた世界の歪。異なる世界が繋がったことで起きたパラドックスにより、アランたち第一の人類は、『ミラード』と呼ばれる第二の人類と戦うことになる。全てはたった一つの地球を我が物とするために。
これが夜谷さん、もとい闇ノシャドウ先生のデビュー作だ。
もちろん僕は、最新刊まで単行本を揃えている。
話が面白いのは当然のこと、何よりも凄いのはその画力。同じ絵描きとして嫉妬してしまうくらい、夜谷さんの絵には人を魅了する何かがある。
「相瀬さんに聞いたよ。記憶喪失のこと」
相変わらずペンを走らせながら、夜谷さんは言った。
「驚いたよ。ほんとに人格が変わってるんだもん」
「気を遣わせてしまってすみません」
「いいのいいの。自分こそごめんね。深入りしちゃったみたいで」
会話しているというのに、手元に一切の乱れがない。アナログでのペン入れはかなり神経を使う作業のはずだけど……さすがはプロだ。
「プロの漫画家さんにこんなことを言うのも失礼だと思うんですけど」
僕は走るペン先を目で追いながら続ける。
「夜谷さんって、絵めちゃくちゃ上手いですよね」
「そ、そうかな」
「ほんと、凄い才能ですよ」
お世辞とかではなく、これは本心からの感想だった。
でも夜谷さんは、ピタリと手を止めると、
「才能か……」
どういうわけか、困ったように笑ったのだ。
「多分だけど、自分に絵の才能はないよ」
「えっ」
「今、間宮くんが才能だと感じてくれたそれは、自分が今までに積み上げてきた、幾多ものボツ絵の上に成り立っている才能とは対極にあるもの」
夜谷さんは続ける。
「物心ついた時から絵を描き始めて、今ようやくこのレベルだから。たった数年で売れっ子漫画家になっちゃう人がいる以上、自分に絵の才能があるとは思えないかな」
すると夜谷さんは、力なく笑い頬を掻いた。
「そういう人は素直に羨ましいし、嫉妬しちゃうよね」
「夜谷さんも嫉妬とかするんですか?」
「そりゃ人間だからね。嫉妬くらいするよ」
これだけの絵が描けても嫉妬する相手がいるのか。
さすがはプロの世界だけあって、戦う土俵は遥か雲の上らしい。
「ほんと、不平等な世界だよね。才能には努力で対抗するしかないんだから」
「それ、凄くわかります」
夜谷さんの言葉を僕は強く肯定する。
というのも、僕には絵の才能というものが無かった。今でこそそれなりの絵を描けるようになったけど、ここまで来るのに相当のボツ絵を生み出したのは間違いない。
「僕も昔は、才能の有無に悩まされました」
「間宮くんも漫画描いたりするんだっけ」
「はい。とはいっても、僕の場合は作画専門ですけど」
二人で漫画を描いていた当時、僕は梨乃の才能に嫉妬していた。
そのきっかけになったのは、中学時代のとある出来事。初めてまともな漫画を完成させた僕たちは、それを某有名出版社に持ち込んだのだ。
所詮中学生が描いた漫画。
当然僕の絵は、対応してくれた編集者から見事なダメ出しを食らった。でも、梨乃のシナリオはそうならなかった。全ては才能が生んだ差だ。
「もっと自分に才能があればって、絵を描き上げる度に思いますよ」
苦笑いしながら僕が言うと、夜谷さんはミリペンの先をじっと見た。
「そりゃ才能があるに越したことはないだろうけど、人には限界ってものがあるからね。どんな天才にだって、努力次第では勝てる可能性は十分にあると自分は思うな」
すると夜谷さんは、得意げに人差し指を立てる。
「天才ってね。凡人よりもちょっと得意が多いだけの凡人なんだよね。だからその得意を増やす、あるいは伸ばす努力をすれば、凡人だって天才を超えられるんだ」
そう言うと、全てを受け入れたような潔い笑みを浮かべた。
「そうでも思わないとやってられないから、この仕事」
夜谷さんのその言葉は、才能という言葉に囚われていた僕の心を大きく揺さぶった。
自分には才能がない。
そう思い込むことによって、振るわない現実に言い訳をしていただけだったのだと、初めて自分が稚拙な人間であることを自覚できた気がした。
「天才に勝てないのは自分のせい。努力が足りてないからなんだよね、結局」
「そう、ですよね」
僕なんかよりも遥かに凄い技術者である夜谷さんですら、これほどまでにストイックな心持ちで努力を続けている。
プロと呼ばれる存在の凄さを改めて実感したのと同時に、今まで才能が無いなどと言い訳ばかりしていた自分が、恥ずかしくて仕方がなかった。
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