煙草

あの日から二日後の金曜日、僕はまたしても女装をしていた。

と言うのも昨晩、舞菜からお誘いを受けたのだ。



* * *



『あ、遥?明日の放課後って暇?

ガッコー終わったらカラオケ行かない?』


普段滅多に耳にしない”カラオケ”という言葉に興奮した僕は、二つ返事で誘いに応じた。

以前司馬に誘われて一度だけ行ったことがあるのだが、あのやや暗い照明や、個室という非日常感満載の空間が印象に残っている。


『ただし!私服で来ること。

着替えたら駅前のカラパリに六時ね。じゃっ!』


「…え!ちょっ」


そうして通話は終了した。

そっと添えられたような「私服」という言葉に、僕は端的に言って終わりを感じた。

制服はセーラーだった上にニーソという奥の手を使ったことでシルエットや雰囲気が違和感無く済んだと思うのだが、私服、それもこの時期に着るものとなると話は変わってくる。どうしたって布地は薄くなるし、肌の露出だって…


僕はさっそく桜井に電話をかけた。


『何~?』


「服、貸してくれないかな」


『…は?服?

え、また女装すんの?』


「それが…かくかくしかじかで…」


『なるほどねぇ…まあ遥ぼっちだもんね。カラオケも私らとしか行ったことないもんね。

友達が出来たらなるべく遊びたいもんね』


「ぼっち…まあうん、だから僕に似合いそうな服を明日だけでいいから貸してもらえないかなって」


『いいけど…昨日一日で凄いことんなったね』


「マジでそれすぎる…」


『面白そうだからいいよ。とりあえず私の独断と偏見で一着だけ用意しとくね。文句は一切禁止で』


「文句?」


桜井は僕の返事を待つことも無く通話を切ると


『楽しみにしてな』


とだけ、メッセージを寄越してきた。


…不安だ。



* * *



そんなわけで受け取ったストリート系の服と巻かれたウィッグが、気になって仕方ない。まだまだ残暑が厳しいのにシャツインとか正気か…?それとも今の流行りはこんな感じなのか…?

硝子に反射する全身を見る限り違和感はないが、僕にはややハードルが高い格好だ。

だからこその文句禁止か…くそ、完全に楽しんでるな。


うしていると、舞菜と愛瑠の高い声が、硬いヒールの音と共に聞こえてきた。


「お待たせぇ~」


「ごめんねぇ!待った?待ったよね?」


「大丈夫だよ。ちょうど六時」


膝に手をつき肩で息をする二人は、遅刻していると思っていたのか、申し訳なさそうにこちらを見上げながらも安堵した様子を見せる。少し遅れて凛々と唯も小走りでやってくると、未だ息の整わない舞菜が、相も変わらずの快活さでまくし立ててきた。


「私何着ていこうか直前で迷っちゃってさぁ、やっぱオケオールなら気合も入るよね!

てか遥いいね!似合うねぇ!」


開口一番矢継ぎ早に来る言葉の雨あられの中から、僕は最も聞き慣れない言葉を拾い上げた。


「オケオール?」


「…あれ?」


聞いてない!聞いてないぞそんなこと!

ちょっと待ってオケオールってあれでしょ!?朝までずっとカラオケってことでしょ!?お泊りでしょ!?そんなの無理に決まってんじゃんこちとら女装だぞ!!


「待って舞菜さ、遥にちゃんと伝えた?」


愛瑠のこの反応から心配そうにこちらを見る唯や、舞菜を撫でている凛々。恐らく彼女達には情報が正しく行き渡っていたのだろう。

そうか、皆一回家に帰って、お風呂に入ってから来たのか。だからこの時間なのか。

だから香水とシャンプーのいい匂いがするのか。

まあ僕も一応お風呂は済ましてから来たけど…。


「伝え…てぅ」


スマホを取り出し操作しながら、舞菜は自信なさげにそう答えた。


「は?何て?」


「ま、舞菜さんからは六時にこことしか…」


「…あ、ホントだ。メッセ送ってない…

…うぅ」


どうやら舞菜自身も完全に送ったと思い込んでいたようだ。断ろうにも、今にも泣きそうなこの子犬のような顔を見せられては良心が痛む。


「…だ、大丈夫!私も明日は休みだから!」


一先ず参加だけして、途中で急用とか言って帰ればいいか。


「ホント…?ごめんね?」


「っとにもぉ…次から気をつけなね」


「よしよし」


愛瑠が窘め、凛々が慰めることでその場は収まった。

この三人の関係性は割とわかりやすいな。

とにかく元気で明るい舞菜、見た目は派手だが面倒見がよくしっかりした姉御肌の愛瑠、舞菜以外にあまり関心を持たない凛々って感じか。


「とりあえず入ろうぜ~」


愛瑠がそう言うとほぼ同時に、唯がこちらへ向けていた目線を外すのがほのかに見えた。


そういえば、今日はまだ唯の声を聴いてないな。

会話をしてないとかじゃなく、一言も発してなくないか…?

一昨日は声の調子こそ落ち着いてるけどテンションは割と髙いって印象だっただけに、無言に加えて目も合わないとなると、何と言うか…何かあったのか心配になるな…。


そう思い声をかけようとするも、舞菜に腕を掴まれた僕はそのまま店内へと引きずられてしまった。


…まさか僕が、人と目が合わないことを気にする日が来るとは…。


なんて変化を胸中に、僕達は入店した。



「しゃせ~」


「私らここで何回もオールしてるからね、大丈夫だよ」


舞菜は僕にそう耳打ちして教えてくれた。いい匂いがした。

何度も経験しているからか、それとも受付けがふざけた金髪のギャル男だからか、確かに何の問題もなく入室出来た。


「ウチお手洗い~」


「私も~」


「舞菜が行くなら私も」


舞菜達三人はそう言って、荷物を置くと部屋を出て行った。

深呼吸をしてからシートの最奥に座ると、隣に来た唯が心配そうな顔で尋ねてくる。


「今日本当に大丈夫?何か予定とかあったりしない?」


その語調や雰囲気に特段変わった様子はないことから、僕は一先ず安堵した。

今日の唯はあの日と比べて、少し元気がなさそうだったから。


「急でびっくりしちゃっただけだよ。大丈夫。ありがとう」


そう言うと会話は終わり、お互い無言の時間がしばし続いた。

僕は無言の気まずさを紛らわそうと、飲食のメニュー表からコマーシャルを流しているモニターへと目を移した。特に興味のない男性アイドルのミュージックビデオが終わり、アニメ主題歌の宣伝へと切り替わる。


とす。と、肩に何かが当たった。


「遥ちゃん、ストリート系似合うね。可愛い」


それは唯の頭だった。

肩にもたれかかられる感覚。

それは服を経ているのにもかかわらず、まるで素肌で触れているかのように、髪の毛の一本一本で僕の触覚を刺激してくる。

頭部の重量から髪の毛越しに彼女の頭蓋骨を感じた僕は、なぜだろう、彼女の頭部は小さくて丸くていい形だなぁなんて考えてしまう。


大量の情報が次から次へと処理されると、次第に僕は賢者タイムのような全能感に包まれていった。



「そう?ありがとう。

唯さんも大人びてて、綺麗で羨ましいよ」


賢者だからか、普段よりずいぶんと賢くスマートな受け答えまで難なくこなせてしまう。

最強かよ賢者タイム。


「ホント?うれしいな」


そう言い頬を赤らめる彼女をリードしようと、僕は狭いシートとテーブルの間で脚を組んでみせた。


「そういえば唯さんは、普段どんな歌歌うの?」


不思議と話題もポンポン出るな!やるな僕!賢者タイム様々だな!


しかし、そう思えたのも束の間、彼女の次の一言で、僕のこの賢者タイムはあっという間に終わりを迎えた。


「…ねぇ、何で呼び捨てにしてくれないの?」


彼女は僕の耳の真横からささやくように、言葉を僕の耳の奥の奥に優しく置くように、そう言った。

吐息がかかり、彼女の口腔の温度、声の振動をこれでもかと与えられる。その物理的な急接近に賢者タイムはどこへやら。

瞬く間に化けの皮を剝がされ、見るも無残にキョドった童貞が姿を現した。


「おぁ、な、なんか…お、お姉さん、感、あるから…」


「呼び捨てするのやだ?」


声が鼓膜を震わせ、吐息が耳孔を舐め上げ、僕を溶かしていく。

少しずつ、近づいてくる。


「ち、近い…」


「や?」


自分の顔が熱を纏っているのがわかる。それも、眩暈がして頭から冷静さを奪うような熱だ。

耐えられないと悟った僕はイキった脚をなおすと、この場から逃げ出すために立ち上がった。


「わ、私トイレ!」


そうして立ち上がってから思い出した。僕とドアの間には唯がいるのだ。反対側へ行ったところで、回り込まれるのがオチか…。

僕は少し強引に、テーブルと唯の隙間を通り抜けたが…


「待って。私も行く」


そう言う彼女に手首を掴まれてしまった。

ドクン、と、心臓が大きく脈打つ。

ここまで軽いボディタッチは何度かあったが、素肌、それも腕を掴まれたのは初めてだ。


「…?

なんか…スポーツやってた?女の子にしては少し…」


当然、気付かれる。


「少し硬くない?」


「えっ…そそう…?普通じゃない…?」


もう駄目だと思ったその時、救世主は現れた。


「たっだいま~!もう始めてる!?」


舞菜達が戻ってきたのである。


「私もトイレ!」


「わわっ!えっ!?」


捕まれる力が緩んだ一瞬の隙を突き、僕は彼女達の隙間をすり抜けるように部屋を飛び出した。


「そんなに限界だったのかぁ?」


「…」


「唯てゃも行って来たら?

帰ってきたらジュース取り行こ~」


「…うん。行ってくるね」



なんか普通に女子トイレ入っちゃったけど、今はこれでいいんだよね…?恰好が格好だから仕方ないよね…?

ていうかそんなことよりヤバいぞなんだ唯さんめちゃくちゃ距離近かったぞ?あんなの恋人の距離感でしょ……えもしかして僕のこと好きなの?そうなの?って、いや僕今女装…


「遥ちゃん?」


「うゎはいっ!?」


唯の声が個室のドア越しに聞こえてきた。とっさに返事をしたためか、僕の声はかなり無様に裏返ってしまった…。


ってかいつの間に入ってきたんだ?入室に気付かないとか…どんだけ動転してんだ僕は…。


「さっきはごめんね…私、あんまり人と仲良くできたことなくて、遥ちゃんいい子だし可愛いから、どうしても仲良くなりたかったの」


「あ…」


唯のその言葉に思い起こされたのは、そう遠くないあの頃の自分だった。


「いきなり距離近すぎたよね…ごめんね」


この感じ…覚えがある。

僕も新学期などの人間関係が入れ替わるタイミングには、それなりに人との交流を試みていた。しかし気負いすぎてか、生来のものか、距離感が上手く図れなかった。

僕はから回ってばかりだった。いつも結局その場で少し話してそれっきり。次の春には一言も交わさずにさようなら。

だから僕は、中学に入ると同時に自分から人と関わることを諦めたんだ。その方が楽だから。

新しく関係を築き始める時のあの気まずい感じも、意見のすれ違いから冷たく接し合い、そのまま離れていくような寂しさも、何もない。

実際、凄く楽だった。


…でも…


人と関わるのは大変だ。その場で軽く言葉を交わすだけならまだしも、仲を継続するなんて、僕からすれば考えただけで億劫になる。

でもこの人は諦めなかった。僕とは違って楽な方へ行かず、未だ積極的に頑張っているんだ。

距離感が上手く図れなくても、から回っても、それでもめげずに。


「本当にごめんね…。もう、変に絡まないようにするから…」


そう謝罪する彼女の声は震えていた。

少しでも傷付けてしまったら終わり。

綱渡りみたいだよね。

その感じ、わかる。



「私も!」


うっわ思ったよりでかい声出た!


「…私も、仲良くしたいから。さっきのはびっくりしただけで…だから、気にしなくていいよ。

……唯」


僕は個室のドアを開けた。逃げてしまった申し訳なさと言うか、僕なりの誠意と言うか、そういう気持ちを込めて。

するとドアが開ききるや否や、唯が僕の胸に抱き着く様に飛び込んできた。


「ちょっ!!うぇっ!?」


桜井から賜った「遥は女でも絶対貧乳!!」というアドバイスを参考に小さめの胸パッドを入れているため、抱き着かれることでバレる可能性は低いと思う。しかし僕の胸が当たるということは彼女の胸も当たるというわけで。割とたわわなわけで。当方異性とはハグはおろか、手すら繋いだことがないわけで。

僕の腰は抜けたのか、倒れるように便座へと落ちた。


「ゆ…唯?どうしたの?」


僕の心臓は大きく早く脈打っていた。そして恐らくそれは唯にも伝わっていると思ったのだが、彼女が、それどころではないと言うように身体を震わすものだから、僕の鼓動は少しずつ落ち着いていった。

鼻をすする音や嗚咽を漏らす気配はなかった。そのため、泣いているわけではないと辛うじてわかったのだが、こういう時、同性の友達はどうするものなのか。

交友経験の希薄な僕には皆目見当もつかなかった。

何が正解かわからないまま、僕は気休め程度に彼女の頭を撫でた。


「なにしてるの?」


ハッとして声のする方を確認すると、トイレの入り口に凛々が立っており、無表情にこちらを見つめていた。


「え…っと…」


「リップ忘れたから取りに来たんだけど…

お楽しみ中?」


「おたっ…!ち、違う!違うよ!すぐ戻るから!

ほら唯、行こ!」


その時、唯の垂れた髪の隙間からわずかに見えた口の両端は、わかりやすすぎる程に吊り上がっていた。

さっきの震えは、嬉しさからか。

そうとわかると、自然と僕も笑みを浮かべてしまう。僕は無表情の中にどこか怪訝な雰囲気を漂わす凛々の横を、唯の手を引いて小走りで抜けていった。

そうしてふと思う。唯は、嬉しさに震える程の強い思いで、僕との関りを持とうとしてくれた。厳密には、遥ちゃんに向けられた思いなのかもしれないが…。


しかしそれを踏まえても、ここまで好意的な感情を僕は今まで、人から向けられたことがあっただろうか。


向けたことはあっただろうか…。


…向けていけるだろうか。



「おかえり~!ね、ここソフトもあるんだよ!行こ行こ!」


「あ、ホント?行こ~」


部屋に戻ると唯はケロッとしていて、でも僕の胸には確かに彼女の体温が残っていて、それが何だかむず痒かった。


「大丈夫?」


唯が舞菜、愛瑠と部屋を出たタイミングで、凛々がスマホ片手に声をかけてきた。

もしあの時彼女が来なければ、僕と唯はどうなっていたのだろう。

少しピンク色の妄想をしてしまいたくはなるが、正直な話、僕にあの状況であれ以上のことが出来たとは到底思えない。それに、もしかしたら何かのきっかけで、彼女を酷く傷付けてしまうことになっていたかもしれない。

…可能性で言ったらキリがないな。


「凛々さん」


「凛々」


ギャルは自分の名前を敬称略で呼ばれたい生き物なのか…?言っとくけど僕は童貞だぞ。


「凛…々、さっきはありがとう。助かったよ」


「別に。

それより、遥は距離が近いの、苦手?舞菜は大丈夫?」


この人…一見すると無表情だし、スマホばっか見てるし、舞菜にべったりで周りにあまり興味がない様に見えるけど、意外と人のこと見てるんだな。


「大丈夫だよ。今まではあの人達みたいにさ、距離感近かったり、ボディタッチしてくる人が私の周りにはいなかったから、戸惑っちゃっただけ」


「そう」


「ぶっちゃけ、凛々くらいの距離感が今はまだ程良いかな。

気にかけてくれてありがとね」


「友達だから普通だよ」


「でも、トイレにリップなんて忘れてなかったじゃない?」


それを聞いた凛々は少しだけ表情を変化させた。眉がピクっとするとか、スマホからこちらへ一瞬視線が移ったとか、その程度だけど。


「…よく見てるね」


「お互い様だよ。心配してくれたんでしょ?ありがと」


「…うん」


凛々は、僕が慌ててトイレに行った様子を見て違和感を感じ、心配して様子を見に来てくれたのだ。今までは舞菜にしか興味関心がないように思っていたが、実際は友達みんなが大切なんだと、よくわかった。


「二人ともまだぁ?早くしないと愛瑠がアイス全部取っちゃうよ!」


通路から顔だけを出した舞菜にそう急かされ、話し込んでしまっていたことに気付いた。僕より少し背の高い凛々をちらっと見上げると、一瞬目が合った。

心臓がキュッと締め付けられる。


でも、それでも、僕はこの姿でなら…

少しだけ、本当に少しだけ、人と目が合っても平気なのかもしれない。



* * *



「イェーーーイ!!アッリィーナァーッ!!」


「舞菜ぁ!こっち向いてぇ~!!」


凛々の黄色い声援に、舞菜はアイドル顔負けの歌とファンサを送る。


「キャァァアアアッ!」


いざカラオケが始まると彼女らはやはりギャルと言うか、僕とは住む世界が違った。

それでもこの舞菜と凛々のアイドルとそのオタクの様なノリもだいぶ見慣れたもので、僕ですら合いの手を入れ始めていた。


「センキュッ!」


流行りっぽいアイドルの曲を振り付けまで完コピした舞菜は、凛々の目からでなくてもアイドルに見えた。

得点は九十六。踊りながらファンサしながらでこの点数とか、アイドル適正高すぎないか…?


「舞菜ぁ”~!」


「凛々喉生きてる?」


「じんでも”い”い”~!」


絶えず歓声を送り続けていた凛々の声は既に枯れ切っており、持参していたキンブレの煌々としたピンクは見る影をなくしていた。


「あ、ごめん。私お手洗い」


開始から四時間程が経過したそんな時、唯が席を立った。

僕は僕でリンゴジュースを飲み干し尿意を催していたため、彼女に続く様に部屋を出た。

少し先を歩く彼女の姿が目に入ったが、先程のこともあって僕は声をかけられずにいたが、その姿は、曲がった先にトイレがある角を通り過ぎ、突き当りにある部屋へと入って行った。

そこは喫煙室だった。

中の様子を伺うとそこには彼女一人だけ。丁度煙草を取り出しているところで、火をつけるまでの慣れた手つきに目を奪われてしまった僕は、ふとこちらへ顔を向けた彼女に見つかってしまった。


「入りなよ」


硝子越しからわずかにそう聞こえ、僕は生まれて初めて喫煙室に入った。


「煙草…未成年は吸っちゃだめだよ」


そう言うのが精一杯で


「大丈夫だよ。未成年に見えないでしょ?」


どこか怪しく微笑む唯のその顔は、先程トイレで見たそれとも、一昨日駅前で見たそれとも、似ても似つかない別人のように映った。


「そういう問題じゃ…」


辛うじて窘める言葉が続いたが、唯は吸いかけの煙草を僕の口に咥えさせることで、それを無理矢理に止めてきた。


「これで共犯だね」


少し湿ったフィルターからは、バニラのような味がした。


「吸わないの?」


その問いに、僕は答えられなかった。


「なんだ」


そう言うと、つまらなさそうに煙草を自分の口へ運んだ。

「スゥ」と吸い、「フゥ」と吐く。

少し、どこか、いや、一挙手一投足が艶めかしい唯の、その口から漏れる小さな音に僕は聞き入り、壁の向こうを見るような遠い目や、煙を吐く時の少し尖った唇から、目が離せなかった。

僕の視線に気付いた彼女は、指先で煙草をくるりと回転させ、フィルターをこちらへ向けると言った。


「熱いスープを飲むみたいに」


僕は…


僕は、言われるがままに吸ってしまった。

生まれて初めて吸う煙草は、口内と喉が少し痺れるばかりで、美味しくも何ともなかった。

しかし唯があの帰り際のような笑顔で


「今度こそ共犯」


だなんて言うものだから、安心した僕は自嘲気味に笑ってしまった。

この背徳感と、話すたびに別人になるかのような顔を、笑顔を見せる彼女に、僕は魅入られてしまったのかもしれない。そう思うと尚更笑えた。

結局、この日は朝までカラオケにいた。凛々にこの状況を見られないかが気掛かりだったが、日付けが変わるころには歌い疲れて眠る舞菜を抱きしめながら眠っていた。

それからは愛瑠と唯、そしてたまに僕も歌った。しかし愛瑠も午前二時頃には大きく舟を漕いでいて、


「てきとうにおこして」


そう言い残すと眠りについた。

僕と唯は何度も喫煙室に行き、その度に取り留めのない話をした。互いの好きな食べ物や趣味の話、最近ハマっているものから好きなタイプまで、割と赤裸々に。


「え、ダチョウってそんなに頭悪いの」


「それがこの動画で…」


「じゃあじゃあ、このゲームも知ってる?」


「知ってる知ってる。何ならやってたよ」


「このYouTuberシュールでヤバいよ」


「アッハハハ!!キッツ~!」


そして


「遥ってまだ経験ないの?」


いつの間にか唯は僕をちゃん付けで呼ばなくなっていたし、


「うん。カ…レシも、できたことないから…

唯は?どうなの?」


僕は唯の呼び捨てに慣れていた。


「え~…まぁ私もだけど…」


時間を忘れて話し込んだ。いつの間にか煙草も最後の二本になっていて、先に火を点けた唯がライターを振りながら言った。


「百円のだから、死んだかも」


確かに彼女の言う通り、いくらヤスリを擦っても辛うじて火花が飛ぶだけだった。


「点かない…」


僕はすっかり煙草にハマってしまっていた。今日はもう吸えないのか、そう思った矢先のことだった。


「煙草咥えて、こっち向いて」


唯はそう言い、僕の肩をトンと叩く。言われるがまま煙草を咥えて顔を向けると、すぐそこまで顔を近づけてきていた唯に、煙草の先端でキスをされた。


「吸って」


シガーキスと言うらしい。火の点いた煙草と点いていない煙草をくっつけて火を分けること。

あっけに取られながらも煙草には火が点いたため、一先ず僕は煙を吸い込んだ。

目のやり場に困った僕は伏し目がちにはぁと煙を吐き、照れ隠しに言った。


「普通にキスするよりエロいな…」


「普通のキス、したことあるの?」


少し驚いたような反応の唯。話の雰囲気から僕はつい、そう発した彼女の唇に目線を送ってしまう。


「ないけど、なんかそんな感じしない?」


それを聞いた彼女は煙を吐くと僕の頬に手を添えた。


「ふぇっ!?」


スローモーションの様に彼女の顔が迫って来る。

蕩けるように目を細め、唇を尖らせる。


してもいい、いやむしろしたい。


素直にそう思ってしまった僕は咄嗟に強く目を閉じた。




「キスされると思った?」


目を開けると、文字通りまさに目と鼻の先に、いたずらっぽく笑う彼女の顔があった。

その瞳の中には僕の顔しか映っておらず、それは僕の瞳も同様に、彼女だけを映しているんだろう。と、どこか冷静に思った。


「さ…さすがにされるかと…」


「だよね。ごめんね」


彼女はそう言ってはにかむと、今度は本当にキスをしてきた。


もはや声も出なくなっていた僕は、すっかり吸うことを忘れていた煙草の灰が床に落ちるのを見て、静かに目を閉じた。ただ唇を合わせているだけのこの時間が、永遠の様にも、儚い一瞬の様にも思え、僕はその間目を開けることが出来なかった。

もしもこれが夢だったなら、目を開くことで覚めてしまうと思ったから。

けれどいつのまにか唇は離れていて、気付いた僕は名残惜しさに目を開いた。目の前には何事もなかったかのように、スマホの画面をスクロールしながら煙草を吸う彼女がいた。

言葉が出てこなかった僕は、残り僅かの煙草を早口に吸い切った。

味は全くわからなかった。


ただ一つ、手を伸ばした先に何もなかったかのような虚しさだけが、じんわりと口の中へ広がっていった。


「出よっか」


唯は本当に自然に、ただお互いが煙草を吸い終わっただけのように僕を促した。僕は、たった今交わしたキスは僕が見た幻覚なんじゃないかと思ってしまったが、唇には確かに何かが触れたような微妙な熱と感触が残っていた。

それにこの、鼓動だって…。


「うん…」


でも、この熱とともに残っている、胸を刺すような虚しさの正体は…

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