Ⅱ-ⅲ
声ひとつなくリボンの男は鞘を払い下段に低く構える。
剛剣の丈は嬉しそうに目を細め、手にした刀を旋転させる。
「さて、ひとつ間違った噂が出回っているが、教えてやる」
音がした。
納刀の音だ。
「さっき死んだ連中のような素人紛いでも木や橋ぐらいは容易く斬れる。本来は、蒸気刀はこう使う」
剛剣の鞘が蒸気を吹いて、一瞬の後、高い音と低い音が連続して耳の穴を貫いた。
ひとつは抜刀音。風切りと金属の擦れる悲鳴が混じったつんざく音色。もうひとつは轟音。吹き荒れる蒸気の奔流と、斬られた諸々があげる崩壊の音色。
蒸気で延伸された不可視の斬撃の軌跡が、冗談のように区画単位で家屋を抉るように輪切りにした。斜めにずれて崩れ落ち、無残な切り口を晒すその手前で、真っ二つに切り裂かれたリボンの男と花の姿がある。とっさの回避で面頬を地面に張り付けたまま、切り離された自分の上半身と下半身を、古桟寺花は眺めている。
なんのこっちゃこれは。
鼻息で積もった灰を噴き上げながら、花は五体の満足を確かめる。手も足も間違いなくついている。首ももげていない。
無事でない方の花が、隣のリボンと文字通り霧散した。
「――なるほど。つまり蒸気刀とは、曲芸の玩具だな」
リボンの声が、唐突に背後から聞えてきた。
転がって振り返る。
既に勝負はついていた。
噛み合わさった八重歯と八重歯の間から、息を吐く。大きく吊り上がった凶悪な笑みと共に剛剣の懐でリボンの男が蒸気を噴いていた。
その刀の切っ先が、蒸気刀を握る剛剣の右手の腱を貫いている。力をなくした指々から、蒸気刀が取りこぼれて落ちていく。破れかぶれに振り下ろされた左腕はリボンの男を捉えるが、その身はまたも霧散し、剛剣の手は掴みどころのない蒸気を握りしめる。
ようやく理解する。あれは蒸気に投影された虚像だ。たしかに、蒸気にはそういう性質がある。立ち込めた蒸気と光の加減によっては居もしない場所に物や人間を映し出すことはあると聞く。
だが。
二度の蒸気抜刀で辺りは蒸気に満ちては居ても、それを意図的に起こすなど聞いたこともない。
剛剣が地面に突き立った蒸気刀を左の逆手に握り直しリボンに向けて振るう。
リボンはその雑な剣筋を容易く掻い潜り、剛剣を刺し通した。分厚い肉の鎧を貫き、致命の臓腑を食い破って切っ先が背中から顔を出す。
花は地面から身を起こし、ゆっくりと立ち上がる。
終わりだ。
リボンは突き刺さった得物を蹴り抜くと二歩三歩後退して残身を崩し、刀を振るって血を飛ばす。
巨体がくずおれ、どうと音を立てて地に臥せた。
リボンの男が、未だくゆる蒸気の中で、大きく息を吸う。
信じがたい異様が目の前にあった。
蒸気を喰っている。
蒸気が人を喰らうのではなく、人が蒸気を喰らっている。そもそも蒸気とは、人の身を蝕む畏るべき毒であるのがこの世の理ではなかったか。神に抗い人が手にした諸刃の剣でなかったか。
常人が吸えば一刻も持たずにこの世を去ると言われる劇毒の蒸気を、この男は当然のように食し身の内に取り入れている。
化け物を見た。
花の顔が呆然と驚愕から、喜色満面に塗り替えられていく。
すごいものを見つけた。
ほんとうにすごい。言葉が追い付かない。感激にはちきれるように拳を握りしめて、行儀良く体に沿えらえた腕が隠すように小さく振り回される。膝が笑う。思わず噛み締めた下唇がついにせり上がる口角に負けて、花はにかりと牙を見せて笑う。
常日頃からみっともないと自省している癖はいつもなら指摘されると耳まで真っ赤にするところだが、今ばかりは気にも留めるまい、意味の見つからない叫びを口の中で迷子にさせながら歩き方も忘れたように半端にリボンの男に駆け寄るその背後、
殺気。
剛剣の丈がまだ動く。
「がぁあああっ!!」
大音声の獣じみた叫びが辺りの空気を震わせ、全身を血に塗れさせながら呆れた頑健さで機敏に立ち上がり、蒸気刀が花を引き裂く軌道で振るわれる。
――死に損ないの分際で。
つい先刻たがの外れた感情のせいで、冷たい怒りが瞬時に心頭に達した。
振られた刀の下を身を低くしてくぐる。勢いのまま足を踏みつけ、相手の膝を抱え込むようにして腿へ肘を打ち込んだ。反撃に降ってきた柄尻で殴りつける一撃をほとんどうずくまるように受け流して、下がった急所に狙いをつける。
地面から右半身へ螺旋に力を汲み上げ、右の掌で突き上げる一撃を頭と同じ高さにある胸に叩きこむ。
全身をばねにした踏み込みを、左の掌に乗せて一撃目と触れ合う近さに捻りを加え、剛剣の丈の
三角は、線より遥かに完成した形である。
初撃で通じた力の道筋に二撃目の道を繋げ、二本目。三本目は肩から肩、自らの身の内へ。三本の力の線がお互いをお互いの支えとして、閉じた力の流れを男の身の内に作り出す。
分厚い肉の鎧に覆われた大男でも、はらわた自体を鍛え上げることはできない。むしろ大きさが変わらないにもかかわらず、巨躯ゆえに常人よりも大きな負荷の掛かり続ける臓器というものがある。
心の臓もまた、そういう臓のひとつである。
三本の勁道――堤の内で氾濫する力の濁流を逃さず急所に流し込まれ、波打つように男の四肢が痙攣する。
遅れて丈は弾け飛ぶように宙を舞う。川の中ほどへと叩き込まれた巨体が煤灰に濁った飛沫を上げた。
残身を解く。
その薄い胸のどこにというほどの呼気を一気に吐き出しながら、花は落ち着き払って煤に塗れた手を叩きながらくるりとリボンに向き直る。
「嫌よね、戦う前は偉そうなのに負けたら急に声がでかくなる。成りの割に大した小物」
血が付いてないかしら、と自分の服を一通り見渡して、笑う。
「古桟寺花よ。よろしく」
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