硝子の剣 鉄の円冠

空烏 有架(カラクロアリカ)

†...1...釣り合わない二人

 男は虜囚だ。身に枷こそ帯びずとも、心は首輪を嵌められている。

 諦念と怨嗟とで編まれたその鎖は、若い女が腰かける、一段上の玉座に繋がれていた。


 喪色の重い羽織マントの下は鎧めいた暗酔紅ワインレッドのドレス、黒革の手袋。細腰に片手剣サーベルを提げ、艶やかな長い蜂蜜色の髪のいただきには、装飾のない鉄の円冠サークレットが鎮座している。

 礼服としてはいかめしいが、軍装としては開けた襟許えりもとが甘い。


 冷たい美貌を見上げ、彼は腹底でせせら笑った――子どもじゃないか。


「ザイワン殿下、ようこそヴェーレンへ。長旅でお疲れかしら」

「いえ。船には慣れています」


 朗らかに答えた男の故郷は南西の海だ。百を超す島を巨大な回廊で繋ぎ、海底に都市を築く文字どおりの海洋王国、タナック。

 北の鉱山国たるここヴェーレン王国とは、大陸南岸の土地を巡って戦火を交えてきた。


 転機は先月、勝利を目前にして、ヴェーレン王が戦死した。

 やむなく一人娘が新たな君主となったが、彼女――フィルガレーデは弱冠十五歳。知識も経験も足りない若輩の女王は、家臣にとっては不安の種だ。

 まして今は非常の時、せっかく有利に進んでいる戦況をみすみす覆されるわけにはいかない。


 宰相らは一計を案じた。

 敵国の王子を女王の伴侶として迎え入れ、これを和平の証として休戦できないか。


 分の悪いタナック側も提案をすんなり呑んだ。

 ただ、やはり若すぎる女王を侮ったのであろう。寄越されたのは齢三十二、つまりフィルガレーデより倍以上も年嵩の、の立った王子だった。


 女王は玉座を下り、今日から夫となる人の前に立つ。屈礼を崩さないザイワンへ向け、艶のあるの手を、甲を上にして突きつける。


「ここに接吻キスを。正式な婚儀は喪が明けてからにしましょう」

「なるほど。では――失礼」


 ザイワンは急に立ち上がって彼女の手を取った。ヴェーレン人に比べてタナック人は小柄な者が多いというが、それでも彼の背は女王よりずっと高く、身体つきもがっしりしている。

 南方系らしい浅黒い指は、するりと少女の手袋を奪った。


「ちょっと、――ッ」


 むき出しの真っ白な手に湿った感触が落とされる。フィルガレーデはあからさまに顔をしかめた。

 わざと手袋を脱がなかったのだ。たとえ婚礼だろうと初対面の男に触れられるのが我慢ならなかったから、まして親ほども歳の離れた相手では尚更に。

 それを見抜き、嘲笑うようなキスは、これだけでは済まなかった。


 ザイワンは力付くで彼女を引き寄せ、花青の瞳を無遠慮に覗き込む。


「私の国では婚礼の口づけは唇にするものです。ヴェーレンでは手に……とは、初耳だ」

「ッ……」

「両国の婚姻です、双方の流儀でいきましょう。

 ――目を逸らさないで。それとも負けを認めたと見做していいのかな?」


 後半はフィルガレーデにだけ聞こえるように、小声で耳うちされた。女王は湧き上がる怒りと嫌悪とを手の内に握り潰し、血を吐く思いで、毅然とザイワンを見返す。

 朗らかな微笑みとは裏腹に、彼の眼は少しも笑っていない。


 つり合いの取れない最悪な政略結婚は、飲み込まれるようなおぞましい口づけを以て、ここに成った。




「信じがたいわ」フィルガレーデは自室に戻るなり羽織を脱ぎ捨てた。脇の寝台へ放り投げながら、我慢の限界とばかりに深い溜息を吐く。

と人生を共にするなんて」


 細いウエストを締め上げていた高帯コルセットの紐を解きながら、愚痴を聞いていた侍女も苦笑いで頷いている。


「正直私も驚きました。第四王子と伺ったので、せめてもう少しお若い方かと……」

「ええ、きっと嘘を吐かれたのよ。タナックで一番若い王子は九つと聞いたもの。あの男は替え玉の類かも」

「――残念ながら本物ですよ」


 思わぬ乱入者に二人ははっと振り返る。閉じられていたはずの扉の片方が開き、そこに片腕をもたれさせるようにして佇む、ザイワンの姿があった。

 彼の肌色は廊下の闇と溶け交じり、そばの燭台の光を吸った茜色の瞳だけがぼんやりと輝いている。


「……何の用? 見てのとおり私は着替えの途中なのだけど、遣いも挟まずにいきなり女の部屋を訪ねるのは、貴方の国では無礼にならないの?」

「他人ならね。でも我々は夫婦です」

「ついさっき逢ったばかりだ、という事実にさえ眼を瞑れば、その言い分に不服はないわ」


 フィルガレーデはあくまで強気を崩さなかった。しょせんこの男は敗戦寸前の国が寄越した、半ば人質も同然の身で、生殺与奪の権はこちらにある。


 すでにヴェーレンは充分な武力をタナックに見せつけた。大陸で最上級トップクラスの魔導科学技術を有し、軍隊は向かう所敵なし、今はまだフィルガレーデにそれを動かす用意が整っていないだけ。

 父王の死の影響さえ拭い去れれば、いつだって彼の国を叩き潰せる。そうなればこの男の利用価値も消える。

 ――私は女王。彼は形ばかりの王配で、ここでは何の権限もない。


 けれどザイワンはまるで動じることなくおっとり微笑んだまま、侍女に言った。


「君、もう下がって。意味はわかるね」



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