水面を叩く光が只々眩しくて

花恋亡

其れは眼では見えない何かなのかも知れ無い

 僕が中学一年生の時に父が大病を患った。


身体を喰んでいた悪性物質とそれが生み出した膿が、行き場を失って破裂し体外へ溢れた。


その時の、鼻を刺し脳を歪ませた臭いは今でも覚えている。


僕はそれを拭き取りながら助けを求める電話をした。


この時点で余命は幾ばくも無く、告げられた猶予は虫が縁を運び紡ぎ、その身を膨らませた風待草かぜまちぐさの実が落ちる撚りも短かった。


病床での父の口癖は

「お前が中学を卒業するまでは死ねない」だった。


僕は何と応えたのだろう。




病名や身体に付いた人口装置の名前は、只々長ったらしく、漢字が羅列するだけの暗号にさえ思えた。




父は医師が首を傾げる程にかろうじて細く生きた。




「お前が中学を卒業するまでは死ねない」が


「お前が高校を卒業するまでは死ねない」に変わり


「お前が成人式をするまでは死ねない」になった。


ともすれば薄桃色の霞草の様な父の想いは成った。




父は在宅を強く望んだ。

その希に誰しもが協力をした。


僕はフリーターを選んだ。

適当な選択が他に無かった。


父の唯一の気分転換は買い物だった。

父には只の食材の買い出しでも、誰かにとっての美容室へ行った日の午後の様な気分だったのだろう。

父はチラシに油性ペンで丸を付け、時には三件程店舗を回っただろうか。

僕の運転する灰色の軽自動車で。




僕は軽自動車を運転し、店舗の入口で父を降ろす。

直ぐ様に駐車し入口で待つ父の下へ向かう。

店舗入口に二台置かれている車椅子を遠慮無く広げ、それを押し商品棚を訊ね回った。


店内は思いの外に寒く、橙色のフリースを着た父に寒くないかと尋ねた。

小さく答える父の肌は白く、肉を失った皮は余り、肩は落ち、背は丸まり、最早あの頃の僕程しか無いその身体に、あの頃の父程に成った僕の身体は淋しさで力が入った。


この光景を見た誰かは寂しく感じるだろうか。

それとも温かく感じるのだろうか。


此処にしか無い僕の瞳では判断出来無い。


父の落ち込んでしまった眼窩でも同じだろう。


どれ程経っただろうか。

どれ程だっただろうか。


僅か数十分をゆっくりゆっくり消費していく。

それは短編映画一本分にも感じられた。


父を残し商品と共に車へ向い、また入口へ横付けする。

車を待つ父の姿に、託児所で親と手を繋ぎ帰って行く友達を目で追う時と同じ様な感情を覚えた。


いつ憶えた感情なのだろうか。

泣くしか出来無い頃から備わっていたのだろうか。

いつか棄ててしまえたら良いと思う。


父を乗せ温泉施設へ向かう。

いつ振りだろうか。

温泉が好きな父と昔は良く行った。

父が病気を患ってからは一度も行っていなかった。


少年野球の練習でも大会でも終わった後は決まって温泉だった。


野球を何故始めたのだったろうか。

野球が好きな父に喜んで欲しかったのかも知れない。

そうであったら良いと思う。


転ばない様に気を付けてと父に言い、その後ろからついて行く。

小さいその背中に骨が幾つもこぶを作るのを眺めながら。


内湯へ浸かる。

硝子窓から明かり射す場所を背にして二人で並んだ。

硝子窓は湿度で僅かに曇っている。


立ち籠める蒸気のせいなのか、直前に掌で掛けたお湯のせいなのかピントが合わない。

一等に空の低くなった季節に、白雲を蓄えた山の頂きを下界から覗った時の様に、父の顔を鮮明に窺う事が出来無かった。


喜んでくれているのだろうか。

そうだったら悦ばしいと思う。


楽しんでくれているのだろうか。

そうだったら僕もきっと愉しい。


躰が弛くなっていく。

父もそうだろうか。

それまでの何かが緩くなってくれていたら嬉しい。


余韻の様なたわみ。

何かが搖るぐ想い。


空気の密度、水分の飽和量、空間の密閉度。

材質の高度、それの遮音性、木霊す反響音。


人々が居るという実感。

賑わう音が、此処に存在しているという体感。




拍子。


途端に音が張り詰めて聞こえた。

高音の、しゃんと張り詰めた弦を弾く様な。

そんな音。

父の顔はまだ上手く視えない。


僕の頭は重くなる。

後ろへと後ろへと何故か引き寄せられる。

何かに惹き寄せられるかの様に。

抗う事は出来なそうだ。


そのまま、後ろから水面へと入る。

僕の身体を充たしていた物がゆっくりと抜けていく。

大きく、沢山に、濁音を立てて。


揺れる水面を叩く光が、碧色を吸収する液体に透けて眩しい。


父の姿はまだその向こうにぼんやりと、不確かに揺ら揺らとその輪郭を湯が搖らしている。


空気色の液体。

気体を拒んだ結果に生まれる無数の透明の珠。

絶え間無く聞こえる濁音。

沈む体。

少し手を伸ばした。



嗚呼。


嗚呼、そうか。


そうだった。


父さん。


もう居ないのか。

もう居なかったのか。


幸せな。


夢か。


ならもういっそ此の儘。

この水に躯を預けてしまおうか。


青が撚り蒼く観える所まで。

沈んで行ってしまおうか。


只々、水面を叩く光が眩しくて。

僕はそれから目が離せない。


碧色を吸収する液体が撚り濃さをますまで。


只々沈んでいく。

何時の間にかもう僕を充たしていた物は出なくなっていた。


揺れる間に間に。

僕も揺れる。

まるで天へと手を伸ばし願う様に。

叶う筈の無い願いを乞う様に。

一羽の鳩を空へ放つ様に。

大切な物をそっと離す様に。

慈しむ何かをそっと仕舞う様に。

この両の手があの丸く煌く明かりへ届く様に。


何処までも落ちてゆく。


ならいっそこのまま。


なんて素敵な夢だったんだ。

なんて幸せな夢だったんだ。


ありがとう。

父さん。

楽しかったよ。

生きてる内に言えなくてごめんね。


苦しかったし、辛かったし、大変だった。

でもそれは父さんも同じだね。

貴方の苦しみを少し持てて僕は良かったと思う。

貴方はどうですか。

その荷は軽くなりましたか。


貴方の苦しみと共に歩けたあの日々を。

幸せと呼ぶんだと。

この夢で教えて貰えたよ。


幸せな夢を魅せてくれてありがとう。


でもやっぱり生きてる内に気付かなくてごめんね。


でもやっぱり生きてる内に言えなくてごめんね。






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