第5話 クリスマスより大変じゃない? 

 さて、パティスリーでの春の思い出というと、もう一つ。

 それがラマダンです。


 イスラム(ヒジュラ)暦第9月のことをラマダンと呼び、ムスリム(イスラム教を信仰する人のこと)の方は、日の出から日没までの間、断食と禁欲を行います* ヒジュラ歴は太陰暦で、一年は354日。つまり第9月が春に当たるとは限りません。毎年11日ずつずれるので、冬になることもあります。

 私がパティスリーで働いていた時は、ラマダンは春に当たったのです。


 フランスでは人口の8%がムスリムです。西ヨーロッパ諸国の中で最もムスリムの割合が多い国の一つです。

 私の勤めたパティスリーでもそこはしっかり考えられていて、例えば、イスラム教の戒律では豚肉は食べられません。ゼラチンは豚由来ではなく、魚由来のものを使っていました。

 豚肉が使われたプティフール・サレ(一口サイズで、アペリティフの時に摘まめるようなもの)のアソートプレートも、サーモンのタルトや、トマトとオリーブのケークサレなどに置き換えられるようになっていました。

 最初はそういった事情を全く分かっていませんでしたから、「このケーキにはアルコール入ってる?」と聞かれれば、子供が食べるのかなと思っていましたし、「ゼラチンを使ってないケーキはどれ?」という問いには、面白い質問だな、ゼラチンはアレルギー物質なのだろうか、と見当違いのことを考えていました。

 周囲にムスリムの方がいらっしゃらなかったので、全く思い至らなかったんです。


 さあ、そんな国フランスでのラマダンです。

 宗教行事に絡んで忙しくなるパティスリーでしたが、個人的に一番大変だったのが、実はこのラマダンです。

 そう言えば「えっ! クリスマスより?」と驚かれましたが、クリスマスはケーキ予約の電話やメールが止まらず大変でしたが、それでもクリスマスは1日で終わります。ラマダンは一か月続くのです。


 主語を大きくすると書きにくいのですが、ムスリムの方は男性でも甘い物をお好きな方が多いです。中東のお菓子はナッツたっぷりで揚げてあったり、その上蜂蜜やシュガーシロップに漬けられた、カロリーどっさり、甘さたっぷりなものが多いですよね。じーんと染みこむような甘さというか。

 宗教上の理由でお酒を飲まないので、甘い物を楽しむのではないかと思います。

 

 ラマダン期間は日中の飲食ができないので、日没後にたっぷりの食事を取ることになります。この食事には友達や親戚を招いたりするので、その手土産にお菓子を持っていくことが多いそう。**

 フランスのスーパーではこの時期ラマダン特設コーナーができ、中東の甘いお菓子がたくさん見つかります。そういった伝統的菓子ももちろん用意されるけれど、それだけでは飽きてしまう(実際にお客様がそう言っていた)ので、そこでフレンチな甘味の出番です。


 この期間、とにかくムスリムのお客様が増えます。

 ただでさえ店の前には常に行列ができているのに、その列が倍以上に長くなるのです。クリスマス(の忙しさ)が毎日ですよ。

 そして買い方も豪快です。

 親戚、友人、近所の方に配るのでしょう。ショーケースの端から端を指して「ここから、ここまで」なんていう方もいれば、シュークリームを二十個近く選び「数個ずつわけて入れて」とおっしゃる方、8個に切り分けて一人分ずつ売られているフランを「ホールで4台欲しい」とか。***

 こういう買い方はラマダンに増え、パティシェと十分な量(閉店ずっと前に無くならない、でも売り残しがでない)を見極めるのが大変でした。「無くなりました!」で、すぐに次が用意できるものでもないので、午後イチに冷蔵庫の様子を見て夕方までに増量した方がいいものを考えるのですが、お客様はに一気に増えてくるのですよ。パティシェに「なんでもっと早く言わないんだ」って叱られても「だって、この30分で出たのですよ!」としか言えないんですよ。

 「シュークリーム20個」「シュークリーム16個」「フランをホールで3台」「こっちは2台」というのが続くと、心の中では「予約してくれえ」と思ったものです。

 人気商品はもちろん多めに用意してあるのですけれど、ね。

 

 そしてヒジュラ暦の第10月となる新月が来ると、ラマダン終了です。「イード・アル・フィトル(Aïd el-Fitr)」と呼ばれるラマダン明けの大祭があります。

 イードは祝宴という意味で、フィトルは断食の終わりという意味です。

 祝祭ですから、御馳走が準備されます。もちろん甘いお菓子も大事です。パティスリーでも備えないとなりません。ラマダンを通して思いましたが、購入量がすごいのですよ。

 この日が休業日にあたっても、(朝に特別な礼拝があるので、その後にくる方のため)午前中のみの特別営業をしたこともあります。

 面白いのは、1週間前になってもこのイードが正確にいつになるのかわからないこと。どうやら新月を観測して決まるらしいのです。「だいたいこの日ぐらい」だと、商品を(それからスタッフを)用意するこちらも困ってしまいます。だって日持ちはしない商品ですから。休業日にオープンするのかしないのかさえ決められません。本当にギリギリになって決まるのでした。


 イード・ムバラク(Aïd Moubarak)というのが、「イードおめでとう」といった、明けましておめでとう、というようなお祝いの言葉のようです。


 パティスリーで、ケーキの上に「Joyeux Anniversaire, ○○(お誕生日おめでとう。○○ちゃん)」とか、「Joyeux Noël ! (メリークリスマス!)」とか、「Bonne Fête, Maman! (ママ、おめでとう)」などとチョコプレートに書くのは販売員の役目でした。

 こういった行事でよく使うフランス語の綴りは、予め調べて覚えていたのです。上の三つぐらいは聞き馴染みがあるし、フランス生活で見たこともあったのですが、例えば「Profession de foi」あたりになると、クリスチャン文化で育っていない私には「それはいったい何?」となるのです。綴りを見たこともなく、かと言ってお客様にも聞けないですしね。「Profession de foi」は、堅信式を受ける子供さんのためのケーキの上に載せられました。


 「イード・ムバラクと書いてくれ」と最初に言われた時は、「しまった! 行事はクリスチャンだけじゃなかったよ!」と大いに慌てたものです。


 今年は3月11日からラマダンが始まりました。

 日没後の食事は水とデーツ(ナツメヤシ)から始まるらしく、この時期デーツもよく売られています。お砂糖とは違った柔らかさを感じる甘みがあります。干し柿をもっとねっとりと濃厚に甘くしたような感じの。


 私も箱入りのデーツ(ナツメヤシ)を買いました。お茶とともに楽しもうと思います。




*乳幼児、妊婦、授乳中の女性、病人、高齢者の方などは断食を免除されます。


**フランスはサマータイムが導入されているので、夏至の日没は22時。

6時から22時まで、水さえも飲めず断食です。「ラマダンが春だと、まだ大変じゃないさ」とおっしゃる方も。


***こっそり書きますと、一番大変だったのは、言われた通りの分配でちょうどいい大きさの箱に入れ、最後の会計時に「あ、これもその箱に足して!(同じ箱には入らない)」とか「あ、やっぱりこれはあっちの箱。あれをこっちの箱に入れ替えて」「あとひと箱!」というお客様がぐんと増え、一人一人が長いのです。そして列はどんどん長くなり……。



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