第5話
◆一年前 1◆
かつては順風満帆とはいかずとも平穏な日々があった。
いまではこの時代が目の前にあるすべてで、それが終わらないような気がしている。
未知のウィルスで世界は滅んだ。
危険で得体のしれない症状は世界の各地で報告され始めた。最初はだれもさして気に留めていなかった。
けれど人の社会は文字通り一変した。急激なスピードだった。
これはもしかすると、まずいかもしれない。一般的な庶民がそう思ったときにはもう手遅れだった。
歴史をみれば伝染病は何度も人類を脅かしている。しかし今回のものはまるで性質が異なっていたのである。
それから、どれだけの月日が経っただろうか。
都から、そして郊外から、山奥から、命の姿は消えた。
砂ぼこりの舞う荒れ果てた道路の上で、俺は乾パンなどの保存食料とペットボトルの水が詰まったリュックを激しく揺らしながら、二匹のバグに後ろから追われ走っていた。
放棄されサビついた車を避けながら後ろを振り返る。人間だったもの――それらが口から血を吐き、腹から臓物を垂れ流しながら向かってくる。
それらは全身がススや泥にまみれていて、土色そのものであった。地獄からよみがえったかのようである。
バグは決して早くはないが、身を隠しても音や匂いに反応して、足が擦り切れても追いかけてくる。
長野に人の集落があると聞いてきたものの、そんなものはどこにも見つからなかった。
もうひとつの手掛かりは、岐阜県の川というところだった。
水たまりを踏み抜き、自分の車に乗り込む。車のガラスは外からの衝撃に強く作られているから、とりあえずはこれで安全である。
呼吸が落ち着くのを待たずドライブをはじめる。
揖斐川はもとから田舎里だったらしい。人の姿はない。
見晴らしのいい田んぼ道のところで、車を降り狼煙をあげる準備をした。
拾った鍋を焚火缶代わりに、持っていた新聞紙や段ボール、それから集めておいた枯れ木や草をそこに入れて、最後にどの車にも原則的に備え付けてある発煙筒を着火剤として放り込み、車のなかで誰かが気づくのを待った。
車はマツダのフレアクロスオーバーモデルである。真っ青な車体で遠くからでも人なら目につくはずだ。
すぐに待ち人はあらわれた。やけに古めかしいデザインの車から出てきたのは、白髪交じりで眉間にしわを寄せた男。黒茶の革ジャンを着ていて、かなり年上に見えたがその割には痩せていて背筋がいい。
「お前がウワサに聞く探偵か」
こちらの車に、他に誰もいないかを気にしながら男は言い、続けて「用件は」とたずねてくる。
「家族を探しています。あなたは色んなところに行っているとききました。見覚えありませんか」
俺は手に持っていた写真を見せる。最後に会った時より少し若い、自宅のリビングで両親二人並んでいるのを撮ったものだ。
「知らんな」
男はその濁った眼で写真を見たあと、そっけなく答える。
「近くに徳山村というところがある。そこで休んでいくといい。駐車場に車を停めるぞ。そっから先は、ボートでいく」
男の言葉に耳を疑った。
「ボート?」
これから離島にでも行くのだろうか、と思った。
「川を渡る?」
「湖さ」
男は肯定しつつ、自分の車のドアに手をかけようとする。
疑っているわけではないが無条件で他人を信じていいような時代じゃない。俺は何も考えずついていっていいものか、躊躇していた。
「どうした」
男はこちらを見て、それに気づいたらしい。
「念のためおたがい手のひらを見せあいませんか。武器を隠し持ってないか。警戒するのはバグだけの方が楽でしょう」
提案はすんなりと受けいられた。こちらが先に手を広げて見せる。男も革ジャンを開き、ショルダーホルスターを見せてくれた。逆向きに銃が収まっている。
本物の拳銃だ。アーチェリーに使われるリカーブボウと十得ナイフしか持っていないこの身からすると心底うらやましい。あとは交渉用などのためにモデルガンを持ち歩いているだけ。バグにかこまれたら、まともに戦うことはできない。
「行きましょう」
男のあとについて移動する。銃を持っている人をよく見かけることはある。そういう人は警察や兵隊の死体などからくすねたんだろう。しかし運がなかったのか自分はどうもそれらを入手する機会がなかった。音の出る銃より静かな弓矢の方があらゆる局面で使い勝手はいいのだが、殺傷力は心もとない。相手は人ではないからだ。一度頭を貫いて倒したはずのバグが、起き上がってきて怖い思いをしたことがある。矢を回収しようとしたときのことだった。
封鎖されているゲートを通り、湖に来る。何隻かボートがほとりに置いてあった。向こう岸にはまるで島のように陸地が見える。
戸惑ったが、彼と同じように電動モーターつきのボートに揺られる。
「交通困難地というのを知っているか」と男に訊かれ、
「いや」
「険しい山奥なんかにあって、郵便物も届かないような僻地のことだ」
説かれた通り陸の孤島だった。普通の坂が水に浸食され岸になっていて、舟はそこに向かっていた。
「こんなところが」
これなら集落の片側は深い水路のおかげでバグは通れない。しかしもう反対のほうは陸地になっているのではないか。ボートに乗る前の方角からはこのあたりの後ろには森が広がっているように見えた。
「山の方はフェンスなんかを張ってる。住民も数人だけだったから、生き残った」
陸にあがったあと、彼はそう教えてくれた。
坂をあがると徳山村についた。家や畑がいくつかある。
ざっとここにいるのは50人ほどか。これだけ多い同胞に一斉にお目にかかるのはそう機会がない。その光景に目を疑いつつ、彼らの様子を眺める。
荷物を運ぶ人。テントの下でなにか会議している人。野菜などの食料を運んでいる人。炊き出しを作っている人たちが、村の中央の広場を絶え間なく行きかっている。
来訪者には気づいていないらしい。まあこちらはゴーグルに、さらに分厚いストールを首に巻き、レーサー用の手袋という完全外歩き用の不審者にしか見えない恰好だったから、歓迎されても困ったのだが。リアクションくらいはあってもいいんじゃないかと心のどこかで期待していた。
たぶんさすがに生き残った人たちだからこの手の防護服はもう見慣れていて、顔が見えないために知り合いの誰かだと思っているんだろう。
「近々、掃討作戦をやるからな」
その言葉に、思わず俺は彼のほうを振り返った。
「掃討作戦? ……でもそれは」
「ああ。政府主導のもんは失敗した」
彼の言っているのは、以前のものとは別ということか。
今ではカタストロフと呼ばれているパンデミック(感染爆発)が起きた直後は、各国が協力してバグを武力によって制圧していた。
しかしその結果は言うまでもない。警察や兵隊の奮戦も甲斐なく生ける屍がいたるところでしている。何度か感染が収まりかけたこともあったようだが、そもそも発生原因がはっきりとは判明していないために根源的な対策がとれなかったらしい。
「まだ自衛隊の生き残りもいる。各地の生き残りと連携をとって安全地帯をつくり、要塞をつくる計画が持ち上がってる」
彼はそう教えてくれた。
「要塞……」
「そうだ。それを作るには工事期間の間、バグを追い払わなきゃならん」
それはたしかにそうだ。だが人類の生存者をかき集めたとしても、過疎地ならいざ知らず市街地のバグを除去しきれるなどその図は想像できない。
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