第21話 妹の初恋

「ここで本当に大丈夫かい。家までまだ距離があるんじゃないか」

「ちょっと歩きたいんだよね。あ、支払いは向こうによろしく、ありがとね!」

「お疲れさん。気をつけてなぁ」

 

 御者にお礼を言って別れると、家までの残りの距離を歩き始めた。長閑な畑の間をのんびり歩く間に、作業中だった農夫がちらほら顔を上げる。このあたりはみなが顔なじみで、近隣同士で助け合ってきた人々だ。ベルベットは労りの言葉に応えながら帰路につく。

 家に人はいなかった。

 馬車を使えたから帰りは日中だ。家の中は思ったより片付いているが、汚れた鍋や皿はそのままで片付いていない。着替えが散らかっている様に弟の苦労を忍び、家畜小屋を確認しに外へ出た。ハーナット家の家畜は馬を除くと鶏のみで、牛と豚は世話に限界を感じた数年前に隣家へ譲った。

 馬房は空で、ベルベットは裏に向かってゆっくり歩を進める。

 ハーナット家は裕福ではないけれど、土地だけは余っている。畑にするにも耕しにくく、二束三文にしかならない場所に作ってあるのは二つの馬場で、ハーナット家が移り住む前の住人が作ったものを改修しながら利用させてもらっている。基本は馬も自由にさせているが、住人がいないときは柵に囲んだ場所に置いていた。

 馬場は殊の外広く、それぞれの馬場で馬たちが草を食んでいる。ベルベットが呼びかける前に栗毛が首を持ち上げ、彼女の姿を認めるや嘶いた。


「セロ!」


 愛馬の名を呼べば尻尾を持ち上げながら駆けつけてくれる。セロは興奮状態のため木柵越しの再会だが、頭をゴツゴツとぶつけられるだけでもベルベットの身体は揺れてしまう。倒れそうになるも愛馬の愛情表現が愛おしく、充分に舐められ服を伸ばされ終わると、控えめに近寄ってきていた葦毛のジンクスに手を伸ばした。

 愛馬と違いこちら控えめな性格だ。気を許した相手にしか懐かないセロと違い、誰にでも懐きやすい甘えん坊。頭も良いので序列をよく理解しており大変愛らしいのだが、懐きやすい性格ゆえに果たして軍馬として大成するのかは甚だ疑問である。

 帰ってきた彼女が存分に堪能したのは休息でもなんでもなく、馬たちとの触れ合いだった。


「…………なごむ」


 大人げなく全体重をかけしがみついても受け入れてくれるのが、信頼関係を築いた大型動物の良いところだ。

 弟妹達を甘やかす立場にあっても、甘える対象が限られるベルベットにとっては、セロがその対象といっても過言ではなかった。辛いときはこっそり馬房に入って休んだ回数も数知れず、セロも彼女に限っては受け入れるので蹴りはしない。

 休みをもらったしこのまま一日中過ごしていたいところだが、生憎ベッドに横になってはいられない。

 顔を洗い、着替えを済ませると取り掛かるのは残りの家事で、部屋の片付け、掃除、洗濯、馬房の藁の入れ替えや餌の準備をしている間に、あっという間に弟妹達の帰宅だ。

 ハーナット家が世話になっている教会は親切で、荷馬車で近隣の子供達を送迎してくれる。迎えにやってきた親たちの中にベルベットも交じるのだが、我先にと飛び降りたのは双子の兄弟だった。片足の不自由な妹の降車を助けるべく手を差し出す中で、まずラウラがベルベットの姿に気付いた。

 妹に釣られた双子が視線を動かし、姉の姿を認めた途端に目を見開き、あんぐりと口を開いて息を呑む。ぐしゃりと顔を歪ませ半泣きになる間にベルベットが近寄り、妹を抱き上げた。ベルベットは妹が肩に目頭を押しつけてくる間に、双子の頭を撫でる。


「ごめんごめん、心配かけた」

 

 双子は揃って生意気でも、まだ十歳くらいの子供だ。ベルベットも怪我は負ったことはあっても大抵家に帰っていたし、リノ以外には秘密にしていた。大怪我で面会謝絶の状況など初めてであり、不安だったに違いない。

 顔を真っ赤にして泣く弟妹達を宥めるとジンクスの背に乗せて帰路につくと、思い出すのはくたくたになりながら暗い夜道を歩いた日だ。

 生死の境を彷徨ったのもあったせいかもしれない。平和な時間に。あの時に間違っても誘惑に負けなくて良かったと心から思うのだ。

 家に帰っても弟妹達は始終ベルベットの傍にいるが、それも数日の内に終わるだろう。


「メイ、ギル。リノが帰ってくるまでにセロを馬房に戻しててもらえる? 二頭のご飯はもう準備してあるからー」

「わかったー」


 双子は本名をメイナード、ギルバートと言うが、ベルベットはいちいち呼ぶのが面倒で名前を略している。元は拾い子だったので当然名付けはハーナット家以外の人となり、当時残されていたメモ書きからそのまま呼んでいた。

 夕方前にはリノも学校から帰宅したが、彼もベルベットの姿を見るなり抱きついた。

 家族全員に迎えられベルベットも一安心だが、まだ再会していない人もいる。


「グロリアが来てない?」


 芋を剥きながらの質問だった。

 ベルベットは料理が得意ではない。味付けは上手だと言われるが、それはグロリアが幼くして天才的な味覚を持っていただけだ。そちらの方面で才能を開花させたのはリノの方で、勉強の合間に料理を作るのが息抜きとなっている。ベルベットは弟の助手を務めながら、言われたとおりに野菜を切っていた。

 リノは細かく刻んだ野菜を和えながら、困ったように教えてくれた。


「リリアナは二日おきくらいに来て手伝ってくれるから、グロリアの頼みだと思ってるんだけど」

「どのくらいから?」

「セノフォンテさんって人が、姉さんが怪我をしたって教えに来てくれた日以降は全然。元気がないし、すごく思い詰めてたから話したかったんだけど……」


 話そうにも逃げるように去ってしまったらしい。リリアナに話を聞こうにも、彼女も返答に窮しているようだったという。グロリアに関しては双子やラウラも思うところがあったようで、ラウラにはこうも心配していた。


「お姉ちゃん、グロリアちゃんもう来なくなる?」

「そんなことないと思う。たぶん、色々あったし忙しいんじゃないかなあ」

「そっか。じゃあ、早く会いたいなぁ」


 グロリアとの再会を待ち遠しそうにしている様子が気になって双子に尋ねたら、どうやらグロリアはラウラと遠乗りの約束をしていたらしい。

 いつの間に……と思わないではないが、片足が不自由なせいか、外に行くのを遠慮してしまいがちな末妹が出かけることを楽しみにするのは良いことだ。ベルベットも野暮を言わず彼女を励ましたものの、翌日になってもグロリアは現れない。

 それどころか、リリアナだけがハーナット家に手伝いにくる有様だ。彼女はベルベットの快気を喜び、グロリアからだと言って食料を届けに来た。


「リリアナ、グロリアっていまどうしてるの?」

「いまは大事な時だとかで、お勉強に集中しておられます」

「……それ、ほんとに? 学校で何かあったとかはない」

「びっくりはされたみたいですが、いまはすっかり立ち直っておられます。皆さまに会えなくて残念だとおっしゃっていました」

「そう、なら勉強頑張ってねって伝えておいてもらえる?」


 少女はそつなく応えるも、ベルベットはたしかに違和感を感じ取っている。一瞬だが視線をずらした所作と、ベルベットが納得したふりをした瞬間の安堵は見逃さない。

 気まずそうなリリアナはラウラや双子の方に逃げ、一生懸命に刺繍に取り組むラウラを褒めた。


「ラウラちゃん、そのお花のモチーフ綺麗ですね。ハンカチに縫ってるんですか」

「……うん」


 ここでベルベットは片眉を顰めた。

 なぜか、ラウラの頬が赤い。ベルベットの変化に気付かないリリアナが無邪気に問うた。


「真っ白なハンカチに赤い刺繍……ベルベットお姉さんのですか?」

「ううん。人に贈りものをしたいなって思って……」

「いったいどなたに差し上げるんです?」


 猛烈に嫌な予感がするのは何故だろう。

 グロリア達に対する疑問はすっかりどこかへ飛んで行ってしまう。目を見開いて妹を凝視するベルベットを、何か知っているらしいリノが「しまった」といった表情で瞑目している。

 ラウラはやや身じろぎして、恥ずかしそうに俯いた。妹の表情にはまるで見たことのない類のもので、まさか、とベルベットの表情が固まって行く。


「……この間、会った人なの。とっても格好良くて、わたしを素敵なお嬢さん、って言って、お花をくれたの。だから……その……お返し……」

「わ。素敵ですね。もしかして教会のお友達でしょうか」

「ううん。ずっと大人の、格好良いお兄さん」

「ラウラちゃんが気になる素敵な人でしたら、わたくしも知りたいです。よかったら名前を聞いても?」


 ひくり、とベルベットの片頬が持ち上がる。

 聞きたくない。聞いてはならない――だが周りの人に話を聞けば、女の子は男の子よりも成熟が早いという。ラウラはかなりの内気でのんびり屋、周りへの引け目から外に行こうとしない姿にベルベットとて心配していたが、だからといってこんな形で、妹の成長など知りたくなどな――。


「…………セノフォンテさん」


 はにかむラウラの天使の如き笑みに、ベルベットの目が血走った。

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