ヤバい男と、もっとヤバい女の話

なすみ

第1話

 我ながら、ダメな奴だと思う。

 上司が、うだつの上がらない俺を気遣ってか、あるいは給料分働けという意味を込めてか、渡してくれた自己啓発本。そのタイトルが正に、自分をダメと思うなとか、人よりあなたは優れているとか、そんな感じだった。しかし、そんな薄っぺらな言葉に感銘を受けられるほど、俺はポジティブな人間じゃない。

 ああ、だからこうなったのか?

 だから、彼女が死んだのか。俺が頼りないから。誰にも縋れない程、追い詰められていたであろう彼女。そんな時、あいつが快速電車に飛び込む瞬間、思い出して足を止めるきっかけになってやれなかった。俺が、あいつにとって、頼るに値しない人間だから。

 大体1週間くらい前だろうか。その出来事を知らされてからの性格な日時を、俺は憶えていない。たかだか7日程度も覚えられないとは、改めて社会人失格なのかもしれないけれど、彼女の自殺を知らされたその夜から、今晩に至るまで、起きている間はずっとアルコールで脳みそを腐らせ続けている俺にとって、大した問題じゃない。

 別に今日が7日目でも、70日目でも関係ない。これから何日進もうと、彼女はもう。

 そこで吐き気を催した俺は、口の中にまで競り上がってきた胃液を道端へと吐き、丁度目的地だった公園。その前へ着いていたことを知る。

 俺の家からそう遠くない距離にある、この公園。生憎と名前も何も知らないし、遊具で遊んだこともないけれど、その代わりにベンチは思い入れがあった。いつも俺の家で、俺と違って酒好きな彼女とご飯を食べた後、ここからもう少し先にあるコンビニ。そこで酒を買い、このベンチで飲み、駄弁り、そして家に帰って寝る。そんな風に、俺の家へ遊びに来たときは過ごしていた。

 車止めポールに片手をやり、体を支えながら、俺はゆっくりと公園の隅から隅へと目をやる。

 あのブランコ、彼女が酔っ払ったら笑いながら漕いでたな。

 シーソー、大人になってから乗ると結構怖かったな。

 腹筋もできるようになってるベンチ、あそこで煙草を吸ってたら、近所の人に怒られたこともあったな。

 この一週間、俺はこんな風に色々なところを巡っては、彼女との思い出を一つずつ、思い出していた。そしてその度に、もうどれだけの金を積もうと、どれだけの天変地異が起ころうと、彼女と過ごせることはないんだ。そう思って、みっともなく泣き崩れていた。

 周りの人からしてみれば、頭がどうかしている奴か、犯罪者だ。実際、幾度も警察を呼ばれているし、何度かパトカーに乗った。まったくもって関係のない警官の手を煩わせて、あまつさえ俺の身の上話まで聞いてもらって、家に送ってもらって。辛いのは理解するけど、他の人に迷惑を掛けてはいけないよ、なんて注意をされて。それでも俺は、これを全くやめられない。

 だってそうだろ。

 彼女が死んだ、なんてのが何か本当に質の悪い冗談で、本当は思い出の場所にいたりして。あるいは、別れるための嘘だったりしたら。

 嫌いになったとか、冷めたとか、外見が気に入らなかったとか、浮気が本気になったとか。どんなのでもいい。生きているなら、その姿をもう一度だけ見たい。

 そんな思いで、朝も晩も、俺は徘徊を続けている。

 もう一度胃が競り上がってきて、俺はすぐに近くの公衆トイレへと駆け込んだ。さすがに何度も道を汚すわけにはいかない。こんな酒臭いゲロ、猶更だ。

「――!」

 一週間ぶり、かどうかは分からないが、しばらく喋らないでいると声の出し方を忘れてしまうらしい。俺は彼女の名前を呼んだはずだが、しかし声が出なかった。その代わりに喉から絞り出されたのは、老犬が唸るような、低い声だった。

 しかしそれは、公園で一人、座る女性を立ち上がらせるには十分だったらしい。公園の奥の方にある、ベンチ。そこに腰掛けていた彼女は、驚いた様子で立ち上がると、公園の入り口付近でカバンとコンビニ袋を落とし、自分の方を見つめている俺に向き直っていた。

 しまった。やってしまった。俺は一気に酔いが醒めていく頭で、そう感じた。

 どう見ても、目の前の女性は、彼女の由紀ではない。ただ髪型が似ている。その程度だ。よくよく見れば背丈や肉付きも由紀とは違い、長身で細身だし、眼鏡もかけているし、服装だって、由紀だったら絶対に着ないような、パンツルックのスーツ。どうして見間違えることが出来ようか。

 そして、俺は同じような失敗を、まさに今朝方、やってしまったところで、そのまま半狂乱になって駆け寄ったところを近くの人に取り押さえられ……つい数時間前、ようやく交番から解放されたところだ。だのに、また。

 すぐに足元の荷物を引っ掴み、駆け寄って謝ろうとする。が、一歩を踏み出す前に、それこそ良くないのでは、と思い直る。

 ここまでくると、先ほどまでの泥酔し切った気持ちはどこへやら、視界は冴え、背筋は凍り付きそうなほど、緊張している。が、それは目の前の彼女も同じらしい。

 距離にして、およそ50mもないほどの距離。あたりはすっかり暗くなり、夜というよりは深夜、という時間帯。そんななか、一つしかない入り口から男が入ってきたかと思うと、公園をおもむろに見渡し、そして自分の方を向いた瞬間、唸ってくる。

 俺が彼女の立場なら、正直、ちびっているかもしれないな。

「っ、ち、違うんです!」

 近寄ることこそ余計に良くない。そう思い、俺はその場から声を張る。

「すみません、人違いをしてしまった、みたいで、申し訳ないです! 怪しいものじゃ、ないですから!」

 ところどころ上擦る声を何とか正し、危害を加えるつもりがないことを彼女に必死で伝える。その間も、目の前の女性はこちらに対して半歩引き、さながらボクシングのファインティングポーズよろしく、半身で構えていた。

 というか。

 怪しいものじゃない、なんて、まさか自分が言うことになるなんてな。そう思い、俺はゆっくりと口を閉ざす。そして、しばらく様子を伺った。恐らく、向こうはこちらに対してとても怯えていることだろう。公園に不審者が入ってきた、という認識かもしれない。しかしこちらはこちらで、いいかげんにしないと、拘留することになる、と警察から最後通牒を受け取ったばかりの身だ。正直、彼女がポケットに手を入れ、スマホを取り出すような素振りを見せた瞬間、踵を返してその場を走り去ろうと思っていた。

 まあ、逃げたところでこんな事案、真っ先に俺の家へ警官が来るだろうし、その場から逃げられたところで意味もないけれど。

 と、数秒の沈黙が続き、手にしたカバンの持ち手を、汗で滑らないように握り直したところで。

「あ、あの……」

 と、彼女の方から返答があった。それと同時に、こちらへ歩を進めてくる。

 俺は身構えた。なんだ、もう通報は済んでいたのか? 大人しくここで待てと?

 逡巡する。しかしその間にも、彼女はゆっくりと、なぜかこちらへさらに近づいていた。そうして、お互いの距離が、およそ5mもないくらいにまで詰まったとき。俺は限界を迎えて、後ろを振り返った。

「とにかく、すみませんでした!」

 振り返りざまにそう叫んで、踏み出す。そうしてその場から立ち去って、逃げるつもりだった。が。

 ガクンと低くなる視界。そのまま急速に地面が迫ってくるのを感じて、俺は、そういえばここ数日、酒以外を口にしていないことに気付かされた。

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