猫と吸血鬼

黒中光

第一話

 吾輩は猫である。名前はユウと申すが、名前がついてたったの一ヶ月、とんと実感が沸かぬ。当時は雪が降り、日も暮れて薄暗くなる中、木の陰に身を寄せながらニャーニャー啼いていたことを記憶している。そんな吾輩の元に若い男がやってきた。それは後から聞くと大学生という、人間の中で一番放埒な種族であったそうだ。この大学生というのは、寝たり外出したりする時間にはまるで頓着せず、食う物もいい加減な、実に怠惰な人種であったのだが、当時はそんな考えもなかったから、ただ大きくて温かい手にスイと持ち上げられて、心地よい印象しかなかった。

 こんな出会いで吾輩の飼主となった男の名をモトヤと言う。図体がデカい割に、まめな男で、吾輩の食い物と飲み物は決して切らさぬ、殊勝な男である。

 そんなモトヤではあるが、どうにも悪い癖というものがある。

 ビールという飲物を好むという点である。黄色い饐えた匂いの水である。注ぐと白い泡がこんもりできあがる様は見ていて愉快ではあるが、口にしたいとは思わない。モトヤはこれを飲むと、がさつな手で吾輩の身体中を撫で回し、せっかく綺麗に整えた毛並みをグチャグチャに崩してしまう。非常に不愉快である。

 今晩は酒盛りに友人を連れてきた。「上がって上がって。嬉しいなあ、一度ドウブと宅飲みしたかったんだ」と既に酔ったような調子の良い言葉を吐いている。

 対して、話しかけられたドウブとやらは随分と落ち着いている。痩せて青白いが、目鼻や顔立ちは鋭く、冴えた美しさがある。お高くとまった男だ。

 二人は缶ビールを飲み始めた。モトヤは缶を大きく傾けて一気に飲み干したが、ドウブは口元を湿らせる程度。

 そこからは二人の友人の話になった。吾輩は暇なので、気に入りの座布団に丸まり、それを眺めた。

「ドウブ、お前イノウエのこと止めてやれよ。アカネちゃん、先輩と付合ってるんだろう? これ以上、アタックし続けてたら、修羅場になるぞ」

「他人の色恋に外野が口は出せないよ」

「そうは言ってもよ。あの二人、お前が主催の合コンで出会ったんだろう? なんとかしてやれよ。女関係の怖さは知ってるだろう? お前の周り、ほらタナカだって、お前が連れて行った飲み屋の娘に入れ込みすぎて、単位落としまくって親と喧嘩になったりしたじゃんか」

「人生の道筋とは自分で決めるものだ。どのような選択をするかは本人の自由だし、本人だけの責任だ」

 熱弁を続けるモトヤをするりと躱し、酷薄に笑うドウブ。頭に酒が回ったモトヤには思い至らないようだが、傍から聞いている吾輩には、色恋沙汰で身を持ち崩すように、ドウブが周囲をけしかけているように聞こえる。それとも、吾輩がこの男を知らぬが故にそう感じるのであろうか。

 会話が一段落した頃、顔を赤く染め上げたモトヤが吾輩に気付いた。

「俺の飼ってる猫、ユウ。毛がふわふわで気持ちいいんだよ、触ってみ」

 ドウブが関心を全く見せない瞳で吾輩に近付いてくる。モトヤの手前、義理と言うことか。吾輩とても、知らぬ人間に触れられるのは好まぬ故、同じ心境である。

 ドウブの手が頭に触れた瞬間、全身の毛が逆立った。

 冷たい。まるで死んだ魚のようである。身体の芯から熱を奪い取られるようで、気分が悪くなる。そのまま無遠慮に身体を揺さぶってくるので、危うく座布団から転げ落ちそうになった。

「確かに、毛並みが良い」

 感情のこもらぬ平板な声で言い放つと、ドウブは手を放した。闇に明かりが灯るが如く、身体に力が戻ってくる。

 薄気味の悪い奴だ。猫の直感が、この男に関わるなと叫んでいる。吾輩はふらつく足にぐんと力を込めると、ベランダの窓に空いた隙間へ飛び込んだ。飼い猫になっても吾輩が外に出られるよう、気を利かせたモトヤが空けておいてくれるのだ。人工的な安っぽい街灯の光に安堵する。今晩は家には帰るまい。そう決意した吾輩は、温かい馴染みの店に向かって鈴を鳴らして駆けていったのであった。

 翌日太陽が昇り、陽だまりが夜の冷気を追い散らした頃、吾輩が帰宅するとモトヤが頼りない足取りで部屋をノソノソと歩いていた。「お帰り」と言う声も気怠げである。

 いつもは鬱陶しいくらいに活気のある男。それが、たんぽぽの綿毛のように震えているのでは調子が狂う。「風邪でも引いたのか」と一時考えたが、モトヤはたくましい肉体に、健康な身体を一番の自慢としている。それに、「馬鹿は風邪を引かぬ」というのは、猫のみならず人間の間でさえ知れ渡っている事実。かような懸念はあるまい。

 モトヤが吾輩専用の皿に、飯を用意しようと跪いたとき、微かに生臭い臭いがした。吾輩の目は、モトヤの首筋にポツリと噛み傷のような跡があることを見逃さなかった。未だ血が滲むその傷は、まるで獣の牙で穿たれたようで、吾輩は胸に空っ風が吹くような嫌な気分になった。



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