揺れる③

「ルカがいませんっ」

 グレーシアの授乳を終えてもまだ戻らないルカを心配したテオの叫び声に、ルタとセシルが振り返った。

「ルカが……いません」

 二度目にその言葉を伝えたテオの碧い目は潤み始めていて、その表情は後悔に満ちた表情をしていた。そんなテオを見つめたままのルタは、我が子がいないと言われたにもかかわらず、テオのその焦燥感とは全く反対の場所に立っていた。


 どこか、落ち着いていて、どこか胸が疼いていて。そして、あぁ、『時』が来たのだという諦めと共に。

 庭にいたルカがいなくなる場所として、有力な場所はときわの森しかなかった。今から町へ行こうと言うのだ、ルカが一人で町へ行くことはない。

 授乳後のゲップをさせようとグレーシアの背中を擦りながら、ルタはルカのいない理由を考えていた。


「森へ、入ったのでしょうね……」

 言葉を溜息のように零してしまってから、ルタはテオの存在をふと思い出した。忘れていたわけではない。しかし、気づけていなかったことに、ルタ自身が驚くほど、ルタにはテオが見えていなかったのだ。

「奥へ、行ってしまったのでしょうか……。森は少し、覗きました……でも、姿が見えなくて」

 そして、テオの存在に気持ちを向けた。自分の発した言葉の重大さに比例するようにして、テオの顔がみるみる青くなっていく。ルタはそんなテオに優しく微笑んだ。テオはルカに対して後悔する必要なんてないと思ったのだ。


「良かったわ、テオが森へ入ってしまわなくて。でも、心配しなくても大丈夫ですわよ。森は全く揺れていません。それは魔獣が人間を襲っていないということです」


 森は静かだ。ルカが森を傷つけることは、まずない。今のリリアが、そんな迷子に対して、積極的に襲いかかろうとするとは思えない。森は、大きく深呼吸しているような、そんな雰囲気も感じられる。

 この雰囲気は、リリアが迷子を保護しようとしている時に似ている。リリアは、人の悪意をきちんと感じ取れるのだから。この子はどうすればいいの?と、もう存在しない『ラルー』を呼んでいる気にすらなる。


「探しに行かねばなりませんね……」

 ルカが森に入ったのであれば、おそらくリディアの大樹、もしくは、魔女の家を目指すだろうし、魔女の村を一人で目指せるだけの体力はないだろう。ルカの知っている場所なんて、その程度なのだから。その二つは、招待されなければ辿り着かないと言っても良い。しかし、森の落ち着きから考えれば、おそらくリディアの大樹が濃厚だ。急ぎルカを保護せねばならぬということはない。ルカが大樹に辿り着いた後の方が、目標が定まって探しやすいかもしれない。だから、ルタはグレーシア越しに、もう一度テオを眺めた。

 今、救わねばならぬ者は、テオかもしれない。


「僕がっ」

「あなたが行っても何も出来ませんわ。それに、テオのせいではありませんもの。森へ向かったのは、ルカの意志です。そうですわね、シアのゲップが終わっていないので、ルディに知らせてきて下さると助かりますわ」

 その言葉を聞いたテオが言葉を飲み下し、「……はい」と言う。そして、領主館から飛び出していった。

 ルタはそのテオの向かう先を確かめた後、セシルに零した。


「全く、どうしてクロノプスの者は森へ逃げたがるのかしら」

 落ち着いているルタに信頼を寄せるセシルが、苦笑いをしながら、「どうしてでしょうね」と視線を泳がせた時に、グレーシアのゲップが勇ましく吐き出された。


 ☆


 ルディが憔悴しきっているテオから事情を聴いて、領主館へ戻った時には、すでにセシルが外回りの準備をしており、ルタは森へ入った後だった。おそらく、ルディと同じ考えだ。

「心配ないよ、テオ。ルカは無事だから」

 森の様子を感じ取ったというルタは、「心配ない」と言って、森へ入ったと言う。だから、お腹いっぱいで満足しているグレーシアはまだぐっすり眠っているし、もし、あの大樹に向かったのだとすれば、ルディに出来ることはない。

 森の女神であるリリアの傍にルカがいるのであれば、ルディが介入するよりも、ルタが一人である方がいい。


「とりあえず、収穫祭の見回りはフレドと父さんと、母さんに任せていい? あ、途中でカズにも知らせておいて欲しい。それで、ここに来るように言っておいて」


 既に見回り中のアノールとフレドはここにいないが、今のテオには鎖が必要だと思ったのだ。それに、子育て経験があるカズがいれば、今から子守りを頼もうとしているテオの負担が、少しは減るかもしれない。


「テオは、シアを頼んで良い? 最近はよく眠るようになってるから、多分、ぐずったりしないと思うから。もし起きても、テオならそんなに泣かないと思うし」

 そう言いながら、人見知りが強いグレーシアは、泣くかもしれない、とルディは思い、テオから僅かに視線を逸らした。機嫌の良い時は泣かないかもしれないが、ぐずりだしたグレーシアを宥められるかどうかの確信はなかった。


 まぁ、テオの性格上、シアが泣けば、余計にここから離れられなくなるだろうから、問題はないんだけど……。


 そう思う自分が、テオに対しても、グレーシアに対してもかなり意地悪に思えた。

 しかし、テオは良い子だから、きっと森へ入ってしまう。だから、ルディは、グレーシアを鎖としてテオを繋いでおこうと思ったのだ。


 グレーシアはクロノプスの子だから、テオのために働いてもいいよね……。そう思い、指しゃぶりをしながら眠っているグレーシアを眺める。そして『良い子にしていてね』と『ごめんね、よろしくね』を胸の奥で呟く。


「でも、僕が、あの時ルカの話から、何か察してたら。ルカが『後で行く』って言うのを待っててあげたら……」

 ルディはテオの両肩に手を載せ、その瞳を見つめた。光を受けて緑を濃くするその碧い瞳は、黒や褐色の多いディアトーラでは珍しい。そして、テオは今その瞳に深く影を映している。

「ルカが後で行くって言ったんでしょう? それは、テオのせいじゃない。ルカが決めたことだからね。テオはルカの子守りを頼まれていたわけでもないんだから」

 だけど、テオは自身の過去にルカを重ね、それでも気付けなかった自分を責めているのだろう。だから、深くうなだれるテオに、ルディは少し口調を強めた。


「でも、テオ。今度は君に子守りを頼んでいるからね。シアを頼んだよ」


 「大丈夫だから」とルディは、頭を垂れたまま口を閉ざしたテオの肩に、優しく片手を載せた。それは、謝罪と任せることを意味して。

「ルカを無事に連れて帰ってくるから」

「……はい」

 こんなにも、ルカのことを思ってくれているのに、どうしてルカは気付けないのだろう。

 そして、若いテオは、幼いルカを真っ直ぐに護らなければならない存在、と思ってくれているのに。


 ルカは柔らかく素直そうな性格をしている割に、自分を偽ることに長けている。今回は褒められたものではないが、いずれここで領主となるのならば、それがルカの大きな武器になるのだろう。

 信頼の上での偽りならば、思いやりとも取ってくれるだろう。目的があっての偽りであれば、策略とも取れるだろう。しかし、疑いの中にある偽りと護身は、嘘となり、失うに繋がっていく。

 今回のルカの偽りは、誰も幸せに出来ないものだった。護っているはずの自分自身でさえ、傷ついているのだ。

 これはルカの誤りだ。


 ルカはまだ小さいから、テオはルカに裏切られたとは思わないだろうが、それでもテオを傷つけたことに変わりないし、テオを裏切っていることに気付かなければならない。

 見回りの中、ルディはベルタの両親と話をしたのだ。もちろん、ルカが森へ入る以前の話だから、お互いにここまでの大事に至るとは思っていなかった中での話ではある。


 だが、これは後手である。ルディのルカへ対する失策だろう。

 自分の過去と重ねれば、ルカが森へ向かうことを想像することは出来たはずなのに。

 陽の高さを心配したルディが森へ入ったのは、ルタが森へ入って半時ほどしてからだった。

 そして、ルタと同じことを思った。


 ……嫌な静けさではないな……。

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