『ルディの明日はまだ来ない①』
目が覚めると、窓辺がやけに冷たかった。
雪が降ったのね。
すっかり凍り付いた窓をこすり、外を眺めると、大地は白く、木々は雪をうっすらと纏っていた。
そして、流れる髪を見つめる。
まただわ。
髪色が黒に変わっていた。
ということは、ルディとの約束を果たせないということになる。明日は、来なかった。
ラルーはルタになりつつある自分を鏡に映しながら、髪を梳かし、朝の準備を始める。瞳の色までは変わっていないので、魔力がないわけではないが、雪の森を歩き続ける気にはならなかった。もし、途中で人間になってしまったら、不測の事態に対応できなくなる。
ルタになるということは、ラルーのようには動けないということ。今もし、ラルーを消し去ろうとするワカバがやってきたら、さすがにお手上げだ。
ルディの明日は、しばらく来ない。
明日、と言ったあの話は、ラルーにとってそんなに大切な話でもない。しかし、ルディは幼い頃からいつもラルーの『おはなし』を楽しみにしていたので、その『明日』くらいは護りたい気がする。
ただ、単なるラルーの希望の話。あの子はこの世界を嫌っているわけではないと信じたいだけの。ただ、どうしようもない時の流れの中に、この世界の記憶を埋めようとしているのかもしれないという希望。
しかし、同時におそらくそうだろうと思えるもの。
おそらく、そのお客様にこの世界のことを見せておきたいだけの。
そして、覚えておいて欲しいと思っている、そんな幽かな希望を繋げたいだけの。
だから、『あの子』と呼べるワカバが寄越すお客様が来ない限り、雪解けを待っても、別に構わない。
ラルーにとっての明日は、雪解けの日とそれほど変わらない時間でしかないのだ。
冬眠するわけにもいきませんし、雪掻きでもして時間を潰しましょうかしら……。あぁ、でも、人間に戻るということは、お腹も空くということですわね……。
そんなことを思いながら、ラルーはお台所へと向かうため、立ち上がった。
☆
跡目になったからと言って急にルディの生活が変わるわけではない。とりあえず、引き継ぎも兼ね、アースに付いて様々なことを教えてもらうだけの身である。
そして、時々そんなアースと語らうのだ。
「お祖父さまは、ラルー様とどういう関係なのでしょうか?」
「関係としては、敵だったとしか言えんな」
そんな物騒なことを、アースはその好々爺たる笑顔で茶目っ気いっぱいに伝える。
「敵、ですか」
「妹を魔女に取られかけたからな。どう考えても味方ではなかったよ」
どうして、笑えるのか。ルディにはよく分からなかった。しかし、そうやって笑っていられるということは、今は敵ではないからだと思う。魔女を『魔女様』と言い出したのもアースからだとルディは聞いているくらいだ。
「お前にとっては、残念な話なのだろうけどなぁ。……それで、ルディ」
「はい」
先ほどからはルディの書き物の添削をしていたアースが、紙から目を離して駄目出しをした。
「ここの書き方は違う。以前に伝えたはずだが、順番があってな。覚えているか?」
「えっ!? はい。申し訳ありません。すぐにやり直します」
「頼んだよ」
「はい」
そんな毎日だった。
簡単な手紙を一つ書くに当っても、覚えることはたくさんあった。
私書としてならこの言葉を使え、公文書としては、こちら。そして、密書であれば、この字体とこの印を押す。もしも手違いがあって、漏れ出してしまった場合でも、違うとシラを切るらしい。
認めず、ぼろは出さない。
「それで、いいの?」
と尋ねると、「いい」とアースが言い切った。
密書が漏れた時点で、その密書の内容は破棄である。そして、突き止めた国も追求して得になることはないらしい。使えるとすれば、そういう考えをしていた国であると警戒できるくらい。
こちらとしては、そういう考えをしていた国であることを知られた対策をするだけ。新しい筆跡と印を用意することもある。
「戦争をふっかけられたりはしないのでしょうか?」
一応ワインスレーという一枚岩という形は取っているわけだし。裏切りなんて許されないのではないだろうか。そんなルディの考えをすぐに見抜くアースが穏やかに答える。
「送る相手はリディアスがだからね。相手も下手に動けない。漏れた内容によってはディアトーラとして強気に出られるかもしれない」
アースは言う。とにかく弱気になってはいけない。嘘でも大きく見せておくべきだと。たとえ張りぼてでも、その張りぼての中から何が出てくるか分からないような恐れは与えておくべきだと。
恐れられている間に、探られている間に、準備を整えれば良いのだからと。張りぼてだと思わせておけば、相手は油断する。
密書として送る相手は、リディアスである。これは、父のアノールが表向きリディアスの密偵だからだそうだ。それを利用しているらしい。要するにアノールがディアトーラ始め、ワインスレー各国の情勢をリディアスに送っているという形になるらしい。聞いた当初は驚いたルディだったが、最近は別に何も思わなくなった。
それよりも、父がリディアスを欺き、ディアトーラに不利になるようなことを伝えたことがないことと、それを秘密裏に知っていた祖父にルディは驚いた。二人とも心の内を隠すのが上手いのに、互いにそれを知っていたのだ。確認し合ったわけではないのに、ふたりして、同じことを言う。
裏切ったことはないし、裏切られてもいない、と。
今のルディには、彼らがどこまで真実を語っているのかすら、掴めない。
ただ、ルディにしてみれば、ふたりとも信じられるというだけで。
「見ているものが同じだから信じられる。方法なんてなんでも構わない。まぁ、リディアスの犬であるという悪評は酷くなるがね」
アースはそれも茶化しながら言う。しかし、実際にこの密書のやりとりが国の盾として使われるようになったのは、アノールが婿入りし、アースが領主として立った後からだ。
それまでの他国からの評価は本当に単にシッポを振っているだけのディアトーラだった。魔女さえいなければ、取るに足らぬ弱き国。ルディはなんとなく面白く思えた。
「なんだか、虚の方を掴まされている感じがする」
ルディの言葉にアースが「『虚』を掴ませてるんだよ」と続けた。ただそう思わせる。思わせておく。虚空を掴ませ、逃げ道を探す。戦い方を探る。相手の虚を突く。犬と言われれば、犬になれば良い。主人に忠実という一面だけではない。犬は耳も鼻も利く。牙も有り、相手を殺しうる顎も持つもの。悪評の裏にある物を、ある意味の恐れにする。張りぼてという『虚』を、『実』にする。
戦うのなら確かに嫌な相手だ。
「うちは、それほど強い国ではないからなぁ」
そう言ったアースは書面に視線を落としたままだった。
「だがら、自身がその虚に呑み込まれないように、見失わないようにしないとな」
確かに。嘘に呑まれ始めると、自分が何をしたいのか分からなくなってしまう。
「はい。気を付けます」
そう返事をして、ルディは書き物に戻った。
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