アースと魔女


 ディアトーラ領主館にある庭で、ルタは薔薇の木を眺めていた。

 虫の付いた薔薇の木だ。赤い薔薇が咲いていたはず。

 ルタは、ただ思っていた。

 この薔薇は咲きたいのだろうか……と。


 咲かすべきなのだろうか……と。



 魔女であった者が人間へ戻る。

 それは、かつてガント博士がリディアス国立研究所で懸命に解明しようとしていた謎だった。

 彼は獣を魔獣へと変える方式を解明していたが、逆行の方法は見つけられなかった。

 もし、それが人間に応用されていたのならば、人間は『魔女』と言われるものを作り出していたのだろう。

 永遠とも思われる命を持ち、痛覚の限界を簡単に突破してしまう。

 死を感じないその体は、自身がその命を削るのだ。それは、決して人に応用すべきものではないとされた。

 アースはそれをランド所長から聞いたことがあった。

「では、どうして元に戻すことはできないのでしょう?」

「それはですね、おそらく、ゆで卵が生卵に戻らないくらいに不可能なことなのでしょう」

 ランド所長がそう言いながら、悲しそうな瞳を青い空に投げていた。

 ランド所長のその瞳も空と同じ色をしていた。

 青く澄んだ、ライトブルー。

 勿体ないことは、若い頃はその瞳の色を大きな黒眼鏡で隠していたことだろう。


「所長……魔女が人間に戻ることがあるようですよ……」

 アースはかつての上司を思い、視線の先にいるそのか弱い背を見つめた。

 その背には、以前の髪色を塗りつぶしてしまうほどの黒髪が流れており、今は見えぬその瞳も同じ黒い色に変わっている。

 トーラの使者として畏れられていた魔女ラルーのその風体は、癖のあるラベンダー色の髪に深い緑の瞳であった。

 今の姿は魔女を討つために必要な銀の剣を持つルタではあるが、その役目も終えたと聞く。

 彼女は今どんな加護も保護も受けない者なのだ。

 すべてが変化した者が感じる戸惑いとは、いったいどれ程なのだろう。

 ルタはずっと庭の薔薇の木を眺めている。

 ただ、彼女の場合ガント博士の突き詰めたものには当てはまらないということも事実だった。


 トーラを持つ者は、この世界一般で語られる魔獣や魔女とは異質な者だから。彼女の場合、その役目と共に『魔女』があったのだ。そして、そのトーラを持つことができたのならば、そんな魔女でも人間に戻せる。『トーラ』という力は魔女を元に戻すことすら簡単に可能にするのかもしれない。


 しかし、人間となった今のルタは、足元が不安定なのだ。もちろん、二千年近く生きていたという経験が土台にはある。今を持ってしても並大抵の人が彼女を上回ることはないだろう。しかし、それでも、自身にその状態を置き換えてみれば、アースだって不安に思える。

 そんな中、アースの孫ルディは相変わらずの自己中心性を発揮し、いきなり求婚したのだ。そう思えば、アースもルタに同情してしまう。

 なんと言っても、アースの視線の先にあるルタは今までと違い、とてもしおらしく見えるのだ。


 ルタは昨日ディアトーラのクロノプス家領館に、抗議をしにやってきていた。

 昨日までのルタは、まだ自分は魔女として存在しているのだと言わんばかりだった。

「いったいどういうおつもりです? 正気なのですか?」

 凜とした声と、全てを見透かすかのような大きな瞳。その態度は魔女としてあった頃と何も変わらなかった。しかし、その抗議はクロノプス家には通用しないものになっていたのだ。

 それは、孫であるルディが家族の者を説得したからで間違いないのだけれど。

 ルタにとってはある意味、肩すかしのようなそんな感覚にも陥ったのだろう。


 クロノプス家の答えは『是』


 ディアトーラ領主夫人として、ルタ・グラウェオエンス・コラクーウンを受け入れるということだったのだ。魔女である者をディアトーラに入れるなんて、アースの母であるイルイダがいれば大きく反対したことだろう。なんと言ってもここディアトーラは魔女を畏れているのだ。そして、その魔女の威信を背後に持つために、大国リディアスが常に目を光らせている。そんなディアトーラが魔女を完全に受け入れたとなれば、リディアスが放っておくわけがない。ディアトーラはそれほど大きな国ではないのだ。だから、アースでさえ、ルタが魔女『ラルー』であったのならば反対しただろう。

 しかし、実際の彼女は『人』となっている。時を数え、時と共に滅びる。それは、長年彼女と時間を共にしてきたアースにはよく分かった。

 ルディが魔女をクロノプス家に入れると言っている。それは、昨日のルタからすれば『血迷っている』に他ならなかったことにも頷けた。

 しかし、領主館で一夜を過ごしたルタの雰囲気は昨日よりもさらに、その雰囲気を変えていた。

 役目を終えた。その言葉が重みを増しているように。


「あら、アース……」

 しかし、アースに気づき、微笑むその姿はとても穏やかだった。だが、その表情は偽りなのだろうか。そんなことを考えていると、ルタは少し首を傾げた後に思い当たったようで言葉を変えた。

「あ、そうですわね、アース様とお呼びしなければなりませんわね」

「いえ、そんなことはお気になさらずに。私たちにとって、あなたはいつまでもルタ様であり、ディアトーラを護ってくださる偉大な魔女さまなのですから」

 ルタが顰笑し、聞かなかったことのようにして薔薇に視線を戻す。


「虫が付いてきていますね。このままじゃ、枯れますわ」

「枯れますか……」

 確かにそこには傷んだ葉が見えた。

 世界を滅ぼすかもしれないお客人に翻弄されていたのだ。

 そんなことを相手していたために、庭仕事を怠けていたせいで虫に気付かなかったのかもしれない。


 リディアスが嗅ぎつけないように領主夫妻でお里帰りをしてもらい、アースは交易商の動きに注視し、伝手を頼って他国の情報を操作してもらっていた。そして、そのお客人の相手をしていたのがルディだ。

 ルディが上手くやったのか、世界はこのまま進むという。

 決定事項はただ先送りにされただけなのだろうか。そもそも、人間ごときに流れゆく時間をトーラ抜きで変えることなど出来ないとは思える。もしかしたら、何も変わらなかったのかもしれない。

 しかし、今の時点では世界の滅びは回避されたと考えていたい。


「ルタ様」

「まだ間に合いますわよ。いくつかの薬草を混ぜ合わせて、薬を作りますわ」

 その微笑みは、諦めからなのだろうか。それとも本当に微笑んでくれているのだろうか。

「どうしましたの?」

「昨日はあぁ言いましたが、無理にあやつに付き合わなくてもよろしいのですよ。何よりも、ルタ様のお気持ちが大切でございますので」

 ルタはそれには答えずに、やはり微笑んだ。

「ハーブ園の薬草を少し頂いてもよろしいかしら?」


 彼女はおそらく、今は自身の足元を踏み固めている途中にあるのだろう。

 アースは年相応になったルタのその姿を見て、穏やかに微笑んだ。


「お好きなだけお選びください。再び薔薇が咲き乱れるのであれば」


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