陰陽鏡の裏後宮

仏座ななくさ

第1話 あやかし狩の少女


 放物線を描いて放たれた飛刀が蝙蝠に似た形をした黒褐色の塊を一閃すれば、この世の物とも思えぬ断末魔が一瞬だけ上がり、そして消えた。


 そのまま勢いを弱めて手元へと帰ってきた刃には血すら付着していない。あやかしというものは総じて、殺した後にはその血肉のかけらすら残らないのだ。

 人の世のみならず、獣の世の理とも異なる。およそ人間には理解できない存在だ。肉体が存在するようで存在しない。彼らに狙われれば、恐怖の中で死ぬことは必定だ。

 ──彼らに対抗する手段を持つもの。あやかし狩人たちの力なくば。


 行商人の男は小さくその背筋を震わせた。


「謝謝、静麗ジンリー。まさか本当にここの街道に幽鬼が現れるとは」

「この時間は活発になる時間だもの、仕方ないわ。でもこの調子なら明け方には間に合うはずよ」

「三日後の大市の準備もできそうで良かった。今回の香辛料はきっと高く売れるからね。一日でも長くいたいんだ」


 草木をかき分けて歩くのは体躯のよさとは裏腹の温和な顔立ちをした行商の男と、少女。

 娘の方はまだ十五かそこいらの顔立ちに見える。背こそ伸びているものの、顔立ちには丸みが残る。黒髪は伸ばされているものの端がいくらか跳ねており、また彼女もそれを気にした様子はない。

 けれども真っ先に感じるのはその瞳の力強さだ。紅の瞳は煌々と燃え輝き、まごうことなき生を感じさせる。


静麗ジンリーの故郷は首都の邑陽からは近いのかい?」

「距離だけなら。でも師傅センセイが山を切り拓いたところに家を建てたものだから、門は潜らないでそのまま御別れになるわ」

「なら門前で謝礼を払おう。それにしても、本当に良いのかい?銀貨三枚なんて護衛の相場にしても安いが」


 この回答、大市前の時期は野盗も現れる。それに加えて先ほどのような魑魅魍魎も跋扈ばっこするなどと。つくづく常人には生きづらい世の中だ。

 七日で命を保って通過できれば御の字だというのに、僅か四日で通り抜けられるとは。相場の金貨一枚に色をつけても足りないくらいだ。


「構わないわ。その代わり、辣椒トウガラシは大きいひと瓶をちょうだいね。」

「わかってますよ。ちゃんと静麗ジンリー用のとっておきの大瓶を用意してるとも。師傅センセイ用の醬もね。」



 ◇



 行商人と分かれて山道を拓き、山の中腹に建てられた小屋へと戻ってきたのは寒さの残る日出(6時)の頃だった。


 辣椒トウガラシと醬の瓶が入った紙袋を抱えて、意気揚々と扉を開いた少女の顔は、けれども中の有様を見て口をこれでもかと開けた。


 中に散らばるは布に本。色鮮やかなまだ仕立て前の布から明らかに普段使いではない良い布を使った長袍。紐閉じの本に羊皮紙の巻物。

 そういったものが所狭しと床にぶち撒けられていた。


 この惨状を予想していなかったわけではない。

 何せここの家主ときたら凄まじい妖狩かりの腕前の代償に整理という整理が駄目なのだから。


師傅センセイ!なんでこの短期間でこんなに散らかせるんですか」


 床に落ちているものを踏まないようにかき分け、隙間の合間に足を差し込むようにして歩いていく。


 平房の奥に座り込む姿は黒短髪で、振り返ると見える切長の瞳は赤紫の輝きを放っていた。体躯は筋肉が程よくついており、美青年と呼ぶには野生的だが、妖しい魅力がある男だ。


静麗ジンリーか。遅かったな。」

「遅くなんてありません。予定していた雨水の前に帰って参りました。これは予定してたチー討伐の証拠です」


 麻布で作った袋から、牛に似た尾と虎の毛皮を取り出す。西の方に出る人喰い虎の正体が、このあやかしだ。尾は煎ずれば妙薬に、皮はなめせば楽器や防具の素材として重宝する。


「ああ、御苦労。そこいらに置いておけ」

「そこいらって、置こうにも物だらけになってるじゃないの。先に掃除が必要よ。それが終わったら料理ね」


 師傅センセイの腕前とは裏腹の生活への無頓着な様に、家のことをするのは専ら静麗ジンリーの仕事だった。

 料理は自分で作れば、いくらでも辣椒トウガラシ花椒ホアジャオを入れられるという特権があるのだけれど。


 けれどもいつもならそれを放任しつつも受け入れる師傅、泰然タイランは少女の言葉に首を横にふった。


「生憎そのような時間はない。床が埋まったなら次は上に積み重ねるだけですむが、依頼はそうはいかないからな。静麗ジンリー、次の仕事だ」

「……はぁ!?」



 戻って間もない状態で次の仕事を言い渡されるなど、ここ数年はないことだった。とは言え唯我独尊な師傅のこと、これがはじめてと言うわけではない。


「掃除もご飯作りも後回しの仕事なんて、そんなに急ぎの用件なんですか、師傅センセイ?」


 どうせこうなったら梃子を持ってきても動くまい。諦めて向かいに座る。

 満足そうな男はそうさな。これは極秘の話だがともったいつけた前置きから本題へと移った。



「先日、邑陽の後宮で女官が一人死んだ」



 急に飛び出てきたきな臭い言葉に、静麗ジンリーは姿勢を糺す。

 これは想像以上に厄介な話となるかもしれない。普段は飄々として冗談の一つも飛ばしてくる泰然タイランの真面目な表情を見てそう悟る。


「後宮の話など、よくここまで辿り着きますね。風の噂にもならぬ極秘ごとなのでしょう?」

「なに、極秘ではあるが蛇の道を通じれば届くものさ。女官の娘娘ニャンニャン直々のご依頼だからな。さすがに位については黙させてもらうが」


 後宮の娘娘ニャンニャン……ということは側室、正室かはさておき后妃の誰かから直々に伝えられたいうことだ。

 それがに舞い込むとはつまり。


「……あやかしが背後に潜んでいると?」

陰気インキを辿ったがほぼ間違いない。まあ、辿らずともおよそ熊に引き裂かれたような爪と喰い荒らされた臓腑を見れば誰でも察するだろう。人の策ではないと」

「……」


 後宮には当然ながら、魔除けの護符が貼られている。

 ただでさえ寵愛を求める后妃たちの負の感情が渦巻く場所だ。幽鬼の発生や呪詛の乱立を防ぐための対処はされている。外部からあやかしが入る隙などない。


 たった一つ、陰陽鏡の裏側の世界。そこに秘されていると言われるあやかしたちの後宮を除いて。


「故にお前なんだ。静麗ジンリー、あやかし狩りの娘よ。陰陽鏡の裏後宮、龍妖宮に女官として潜り込み、今回の件を解決してこい」


「………はぁぁ!!?」

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