桜と追憶

里見詩情

 じんわりと汗ばむ。窓から見える桜の花は散って、葉桜。入学式が終わって、高校三年になる季節だと言うのに、いまだ進路決まらず。


  願わくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月の頃


 加奈から教えてもらった西行の歌をそらんじてみる。進路が決まらないことへのあてつけのように、死んでしまいたくなる。花の、桜の樹の下で死んだら、今よりも少しだけ美しくなれる気がした。そんな未来が約束されれば、もっとましに生きられる気がする。それでも死ぬなんてできないから、春に産まれ直したい気分。この季節、夜は全てが優しくて、季節に溶けてしまいたかった。

「死ぬなら春だね」

 「ねえ、加奈?」と泊まりに来ている加奈に、肯定を求める。

「ああ」

 私の望み通り、彼女は気の無い返事で肯定してくれる。それでよかった。そんな、かわりばえのしない彼女の様子こそ、過ぎ去る日々の中で、私たち、というものが、関係が、変わらず存在していることの証明のように思えるから。

「もう一本吸っていい?」

「だめ」

 そう言って、「たばこ」を吸うのを止めたけれど、彼女は聞かなかった。窓を全開にして、「たばこ」を吸う加奈の黒髪は、映画のワンシーンのよう。私は彼女の隣まで歩いて行って隣に座りながら、靴下を履いていない彼女のむき出しの爪に触れる。爪から、淡い桜色の熱が伝わってくる。

「なにしてんの」

「べつに」

 そう言って微笑んでみる。そんな自分自身も、「なにしてんの」と言いながら本気で嫌な訳でもない彼女という存在も、いとしくて、このまま卒業なんて来なければいいのに、と思う。そう。卒業。それは輝かしい未来の比喩。というわけでもない。私たちの、人生、というほどの人生は歩んでいないけれど、あえて人生と言ってしまうなら、そういうものの先に、ただぼんやりと浮かんでいる恐るべき、畏怖すべき、光輝。

「それ、おいしいの?」

 私はこれまで幾度となく聞いてきた質問を加奈に発してみる。この卒業という実感から逃れたくて。

「吸ってみ」

「やだよ」

「大丈夫。本物じゃないんだから」

 彼女がいつも吸っているそれは、紅茶の茶葉をたばこ用の紙で巻いたもの。見た目は本物のたばこそのものだけれど、ニコチン、タールは全く入っていない。でも見た目は完全に犯罪のそれを、彼女は学校や登下校でも吸うから、いつも問題になる。入学そうそう、休み時間にそれを吸っていた彼女はいきなり怒鳴られていた。結局、誤解は解けたけれど、教員たちからは問題児認定されていた。

 「いいじゃん、吸ってみ」と言う彼女に、私の好奇心は揺れる。加奈と、私と、さっき帰ってしまって今はいない彩。私達の永遠にも似た三年間は、あと一年で終わってしまう。それならここでこの三年間の最後を、本物の永遠にするために、吸ってみてもいいかもしれない。永遠みたいな三年間だったねってことじゃなくて、写真で記録できるただの思い出ってことでもなくて、たとえば追憶のような、思い出せばあざやかに浮かび上がる、今のこの感情そのものの標本。

 私はとにかく、みんなとの感情を共有したかった。加奈が「たばこ」を吸うのを見ていると、私もここで「たばこ」を吸ったら、何が変わるものでもないけれど、三人の関係がこの先もずっと続いていってくれるような気がする。

「す、吸って、みようかな」

 おそるおそる言ってみると、彼女は「へえ。珍しいね」と言いながらベランダに灰を落とす。

「じゃあ、巻いてあげる」

「うん」

 「うん」と言いつつ、まだ少し後悔。本物ではないけれど、本物みたいな紅茶「たばこ」を吸うのは、私にとっては重大なこと。それでも、ここで彼女と同じように同じ時を過ごせたら、私たち、ずっと一緒にいられる気がする。それは錯覚だと分かっている。それでも、この錯覚が、幻影が、夢ではないってことを私自身の中に刻みたいんだ。

 映画のワンシーンみたいに「たばこ」を吸う彼女の存在の中に、彼女の詩情の中に、「私もいるよ」ってことを書き記しておきたかった。

「これ持ってて」

 私の後悔も逡巡も関係ないとでも言うように、加奈は自分が吸っていた「たばこ」を私に押し付けて新しい「たばこ」を巻き始める。

「これ、どうやって持ったら正解?」

 押し付けられたたばこに戸惑って、そんなことを口にする。

「正解なんてないよ。どれでも正解」

「ふーん」

 そう言って受け取る火の着いた紅茶「たばこ」を、見よう見まねで指の間ではさんでみる。そうしている間に、加奈は小さな機械みたいなものを取り出して、缶から出した茶葉を機械の隙間に入れて行く。それが終わると、紙を機械に挟んでくるくる巻き取る。その一連の手際の良さに感服していると、彼女は舌で機械からはみ出した紙のはじを舐めて糊付けする。

 濡れた彼女の舌は、唇のはじにも唾液を行き渡らせて、つやめきを与えている。濡れた赤はどうしてこんなにもキスしてしまいたくなるのだろう、と思ったり。彼女の舌を見ていたら、「内臓みたいだ」と思えて、彼女の内臓に触れてみたい、と考えてしまうほどの重い自分がいて、「加奈、ごめん」と頭の中で謝っておく。

「できた」

そう宣言する加奈の掌には「たばこ」。「はい」と火の着いたものと新品を交換して、「やっぱり持ち方変だよ」となじられる。

「だって正解無いって言ったじゃん」

「正解は無いけど、自然じゃない」

 どういう持ち方が正解なのか、色々試してみるけれど、結局加奈のお墨付きはもらえなかった。

「はい、火」

 そう言って彼女はライターではなく、吸っている「たばこ」の火を突き出す。私は戸惑って、「どうすればいいの?」と訊ねる。

「こうすんの。咥えて」

 そう言って加奈は私に「たばこ」を咥えさせて、その先端に彼女が吸っていた「たばこ」の先端を重ねる。加奈の顔が近くて、彼女のまつげの長さに嫉妬したくなる。ふと目が合って、思わずそらすこの一瞬。その一瞬の、星のまたたきにも近いきらめきよ。

「このまま火が着くまで吸って」

 言われるがままに、酸素を吸いこむと、私が咥えているそれにも火が移る。

「シガーキス。こういうの、好きでしょ?」

「好きだよ」

 加奈のことが。そんな風にだって言えてしまう気がした。もちろん恋愛感情というわけじゃないし、実際には言えないけれど。吸い込んだ紅茶は香ばしい香りがして、その犯罪的な見た目と反して優雅なことに驚く。

それから私達、ベランダに並んで天体観測。黒い夜空に、煙が立ち昇っていく。家の前の公園を見れば街灯の明かり。照らし出された公園の植物達からは寝息が聞こえてきそうなくらい甘い夜。

「家の中は暑いくらいだけど、外出るとすこしだけ、寒いね」

「そう?」

「だって私半袖だもん」

「わたしは別に。裸足だから足先が少し冷たいような気がするだけ」

 そう言う彼女は、学校指定の長袖ジャージ。私は同じ指定の半袖。四月の夜は、まだ少しだけ、寒い。その耐えられないほどでもない、切ないつめたさは、もうすぐ生まれてくるであろうあたたかな季節を焦がれるいとしい時。

 街中が「夜」というやさしいばけもののお腹のなかに飲み込まれてしまった後の、安息の闇。観測できる限りの、人の痕跡にあふれた世界が、みんなみんな、春の夜のつめたさに漂白されて、宇宙の色に染め直された後の世界。そんな感覚さえ覚える夜気にあてられて、泣きたくなる。そんなセンチメンタルを加奈に気取られないように、話を続ける。からかわれるのは目に見えているし、それはなんとなく悔しいから。

「これ……」

「これってどれ」

「ジャージ」

「うん」

「ださくない?」

「べつに」

 白地に小さく校章の入った半袖はまだいいけれど、長袖はミント色に近い。ださくて私はあまり好きじゃない。でも、そんなささやかな嫌悪感さえ私には大切なもののように思える。この、平和ボケした高校生活の証としての、平和ボケした不満。ジャージがださいなんて言う、ちっぽけな不満とやるせなさ。そういう、不自由さも、私は心地いいと思うんだ。さらに言うなら、「これださいよね」とか、「それかわいいね」とか、そんな平凡な会話こそ私が守りたい、いとしい凡庸の寓意。そう思うから、「ださいよ」と念を押すように言ってみる。

「そう」

 気の無い返事を続ける加奈だけれど、そんな変わらない日々が、私達のかけがえのない毎日。こんな毎日が、ずっと続けばいいのに。そう思う。加奈が「そう」と素っ気なく言った後に訪れる静けさ。その静けさは、泣きたくなるくらいのあったかい手触り。

「明日さ……」

「うん」

「学校じゃん?」

「そりゃそうじゃ」

「活動報告、どうしよ」

活動報告。正確に言えば園芸部活動報告。「進路報告じゃなくて?」とつっこむ加奈に、「それ言わないで」と泣きつく。まだ進路が決まっていないことは不安だけれど、みんなとのこの生活が終わってしまうことの恐ろしさ。なぜ私はこんなにも二人のことが好きなのか、ずっと一緒にいたいと思うのか、自分でも分からない。分からないから余計に怖い。だからその恐怖の切先を突き付けてくる「進路」のことは考えたくなかった。

「ハーブ栽培でいいんじゃね」

「それ、加奈が言うと非合法に聞こえるよ」

 そんなことを言うと彼女は笑う。学校で加奈が笑うことは少ないから、彼女の笑顔が向けられる数少ない相手が私であることを意識して、不安が薄れるくらいうれしくなる。

「薄荷パイプ自作したいだけでしょ」

 本来は禁煙器具の薄荷パイプ。ミントの味がする薄荷パイプ。紅茶の他に、それを彼女は吸っている。あくまで合法なところに彼女の良心があって、だから私、一見すれば怖いと思ってしまいそうな彼女が好きになれる。

「そうだよ」

「そうだよって、まあいいけど」

 いつも気怠げな加奈だけれど、なぜか合法「たばこ」制作には精力的だった。薄荷パイプにも、紅茶「たばこ」にも、依存性は無いはずなのに、彼女はそれに執着する。理由でもあるんだろうかと考えるけれど、答えは出ない。それでも、彼女が園芸部にいて、こうしていつも通りに隣にいてくれるだけで私は嬉しい。

「いいじゃん。これでも法律も校則も守ってるんだから」

「でも教室で堂々と紅茶吸ってるのはどうかと思うよ」

「まあな」

 そうしてまた私達は笑う。公園のドウダンツツジが、純白の花を枝いっぱいにつけていた。白い、白い花を。それは何にも染まらない色。その色が私たちという存在の比喩であったなら。そんなことを考える。考えたら、加奈にも話したくなる。

「ねえ」

「うん」

 「あれ」と私はさっきのツツジを指さす。

「ドウダンツツジね」

「すごいね。名前知ってるんだ」

「興味はないけどな。一応園芸部なんで」

「じゃあ、漢字で書ける?」

 白い花の話をしようと思ったけれど、やっぱり恥ずかしくなって当初の話題から変更。

「満天星ツツジ。もしくは灯台ツツジ。『ツツジ』は難しすぎてわかんね」

「すごいね」

「サンマを秋刀魚って書くみたいなもんだろ。人を試すな!」

「全然違うでしょ。だって満天星だよ? こう、ロマンが……」

 「試したのは悪いと思ってるけど」と言うと、「じゃあ今度薄荷パイプ買って。コンビニで売ってるから」と返される。

 大して吸っていないせいで火の消えかけている紅茶を空にかざして、私達にだけ観測できる赤い一等星。この穏やかな、甘い永遠にも似た時の流れ。進路報告のことなんて、どうでも良くなってしまいそう。こんな夜くらい、詩情の微醺に身を任せたっていいじゃないかと、思う。

「わたし、寝るわ」

 加奈と過ごす時間の心地良さを、もう少しだけ存続させていたくて、「もうちょっと起きてようよ」と引き留めるけれど、彼女は「紅茶」をミルクティーの空き缶に捨ててベランダから部屋に入ってしまう。眠くはなかったけれど、もっと時間を共有していたいから彼女の後に続いて部屋に戻る

 照明を暗くして、二人で一つの布団に入ると「さすがに恥ずかしいだろ」と言って加奈は向こうを向いてしまう。布団の中で、見慣れた部屋の景色。嗅ぎ慣れた布団のにおい。触り慣れた毛布の手触り。そういうものを見て、感じている。その中で、普段は存在しないはずの彼女の黒髪をそっと撫でて、かおる香り。髪の感触。彼女のにおいは懐かしい香りがする。その香りが私を包む。その存在感が安心感に変わって私を包む。いつか失われてしまうこの永遠が、本当に永遠に続けばいいのにと思った。


「おはよ、彩」

「おはよ~」

 加奈と一緒に登校すると、靴たちの羅列された下駄箱に新たな靴を羅列する彩がいた。

「早いね」

「遅いくらいだよ~」

「そうだったね」

 「逆にこの時間に彩が登校するの珍しいな」と加奈が言うと、彩は嬉々とした表情をする。

「おタカが校門に居たから話し込んじゃった~。今日はついてるよ~」

「そう。よかったね」

 彩は顧問のことが好きだから、おタカのことが好きだから、毎日朝早くに登校しては部室で彼を待っている。教師も忙しいのだから、部活の無い朝におタカが部室に顔を出すことは少ないのに、それでも殊勝に彼を待っている。私と加奈は半ば呆れつつ、そんな彩が好きだ。加奈が本当はどう思っているのかは分からないけれど。嬉しそうな本人の分身のような、彩の色素の薄い髪が揺れる。

 彩が園芸部に居るのはおタカが顧問として居るから。だから本当は園芸になんて興味はないはずなのに、おタカに気に入られるように勉強そっちのけで園芸の勉強をしているのだ。そんな彼女の恋が、実らなければいいのに、と、思ってしまう。ずっとこの中途半端なままでいいのに、と思ってしまう。そうすれば私達の関係は、崩れること無くそこにある。そう、思ってしまう私は、最低だ。

そう分かっているはずなのに、思わずにはいられない。私達の関係が、永遠であるために必要な関係。そのためには、彩の恋が実らなければいいのに。それか、おタカに告白する勇気が出ないままでいればいいんだ。そういう私の黒い感情。

「今日の部活何するの~?」

 そんな私の感情も知らないで、彩は私に訊ねる。

「山紫陽花の芽がだいぶ動き出してるだろうから水あげるのと、花壇の掃除、かな。あとはホトトギスにも水あげないと。あいつら水が無いと葉っぱ焼けるから。日差し強くなってきたしね」

 私は私の感情を隠して、平然と答える。おタカが彼女の自分への気持ちに気付いていないように、彩も私の感情に気付いていない。

 気付かなければいいのに。全ての感情が、伝わることなく、続いていって、欲しい。このあやうげな感情という宝石は、少しの変化でその輝きを失ってしまう。ような気がするから。私の気持ちも、彩の気持ちにも、全部全部、誰も気付かなければいいのに。いまだによく分からないけれど、誰も加奈の気持ちにだって気付かなければいいのに。そういう、私の中の最低な部分が、みんなを思ってのことなんだと、私は意図的に思考を止める。

「あと薄荷」

 忘れるなとでも言いたげな加奈に、さっきの思考が現れないように苦心しつつ「はいはい」と返して三人で教室に行く。

二年間履き続けた上履きの履き慣れた感触。蒸れる靴下に籠る熱。それもあと一年なんだ。ふと、そう思う。

 廊下を、眠気を催す微風が流れて、窓の外から土のにおいがする。麦が伸びる季節だな、と考えながらふと進路のことを思い出して、ささやかな憂鬱。「卒業」という言葉が頭の中をぐるぐるして、めまいがしそう。一年後は加奈の長いまつげも、彩の絹みたいな髪も、もう触れられなくなるどころか見ることさえできなくなってしまう、ような気さえする。もちろん連絡を取って会えばいいのだろうけれど、この日々が戻って来ることは無いかもしれない。それが、不安なんだ。

 教室に着くと、彩は園芸雑誌でもなくファッション雑誌を開く。いわく、「お花育てるだけじゃおタカに振り向いてもらえないもん」だそう。

 加奈は加奈で、教室の一番はしっこの席でカーテンを被って小説を読み始める。いわく、「朝は邪魔しないで」だそう。「何読んでるの?」って聞いたことがあったけれど、詳しくは教えてくれなかった。

 みんなばらばら。それでもこの時間、私達は同じ教室にいる。そんなささやかな「一緒」があれば、それだけでいいんだ、私は。だから余計に、さっきみたいな思考をしてしまう自分がいやで、消えてしまいたくなる。

「ねえ、彩はどうするの?」

「なにを~?」

「進路」

 それでも探りを入れたくて、「彩はどこにも行かないよね?」なんていう、叶いそうもない願望の確認のために、「今年のトレンド」なんていうページを凝視してあんまり話しを聞いていなそうな彩にダメ元で聞いてみる。

「あ~、ぼくは大学行くよ~」

「え、そんな話し聞いてない!」

 そんな話しは初めて聞く。淡い春風にだって、さらわれて行ってしまいそうな彩なのに、「大学」なんて場所に一人で行けるはずがない。だいいち大学なんて場所に行ったら、こんなにも悪い男に引っかかりそうなのに。それよりも、「大学」という明確な「進路」に、私は戦く。加奈ではなく、彩の口から、「大学」という遠い場所の象徴のような話が出てしまったことに、私は驚いた。

「教育学部に行って~、おタカに教育実習見てもらうの~」

「は? そんな理由?」

「そうだよ~」

 呆れてしまって次の言葉が見つからない。でも、理由はどうあれまだ何も考えていない私なんかよりもずっとマシかもしれない、と思う。それでも、理由なんて、この際どうでもいい。彼女が本当に「大学」を目指してしまったら、私達のこの日常は、崩れ去ってしまうような気がする。

「おタカの教科って古典じゃん」

「あんた古典どころか他の教科だって怪しいでしょ」と言うと、「まあ何とかなるでしょ~」と他人事みたいに笑って、またファッション雑誌に目を落とす。私達の見ているものは、この、先の見えない少しの不安と、少しの緊張と、それから、同じ毎日が来るというおぼろげな安堵だったはずなんだ。それらのはざまで、私たちの毎日は守られたまどろみに身を任せていられたはずなんだ。それが、そんな時間が、崩れて行く感覚がしたから、私はなんとかして諦めさせようとしてみるけれど、そんなものは何の役にも立たなかった。

 そのうちに担任が入って来て、ホームルームが始まる。どうせ彩は大学になんて行けないんだ。おタカとも結ばれないんだ。だから、私が守らなくちゃいけないんだ。彩も、加奈も、この場所も。太陽の熱に火照る昼の大気の中で、この平凡な、退屈な、大切を、守らなくちゃいけないと、思うのだ。

 体育の授業では、ソフトボールで彩が盛大な三振をして転んで、加奈は特大ホームラン。古典の、おタカの授業では、彩は熱心で、それでいて何も分かっていなさそうな顔をして、加奈は寝ている。この退屈で大切な日常から出たくない。出したくない。二人を。それには私が守らなくちゃいけないんだ。そう、思う。

 私は生物の授業で遺伝の話しだけ熱心に聞いて、「F1」だとか、「F2」だとか、花の交配に使えそうな知識だけを選んで覚える偏食。始業式で授業は半日だけだから、それから私達は部室に向かう。

 校庭の隅のプレハブでできた部室に向かう途中、私達が花壇に植えたネモフィラは、正午の水色の空を映す鏡みたいに、空と同じ色でゆれている。部室に着くと、みんなでジャージに着替えて、おタカを待つ。

「なあ」

 パイプ椅子を揺らしながら、加奈は呟く。

「カンアオイ探しにいかね?」

「渋っ」

 カンアオイは馬の鈴草科の山野草。ラフレシアみたいな質感で、黒い小さな三枚の花弁からなる花をつけ、微量の毒あり。同じ山野草で、古典園芸植物を探すなら河原で原種サクラソウ探しあたりが無難だけれど、そんなのをすっ飛ばしてカンアオイ。まあ全国の農業高校でもない高校の園芸部のどこを探しても、カンアオイや原種サクラソウなんてマニアックな植物の話しをしているところなんて限られていると思う。それよりも加奈が薄荷と紅茶以外の植物に興味を持つのが嬉しいと同時に違和感を覚える。カンアオイは微量の毒あり。誰かを毒殺でもするつもりなのだろうかと冗談みたいな考えが浮かんで、「そんなわけないか」と一人で結論付ける。

「なんで急にカンアオイなの?」

「まあ、たまたまだよ」

「たまたまって、薄荷にしか興味無かったんじゃないの?」

「いいじゃん。興味湧いたんだよ」

「ふーん」

 その言葉はどこかあやしかった。彼女の目は異様な光り方をしていたように感じたから。今まで園芸に興味なんて無かったのに。二年前、薄荷が育てられるからという理由で園芸部に入ったはずなのに。でも証拠もないし「まあいっか」と一人納得して、「おタカに相談しないと」って言っておく。

「彩は? やりたいことある?」

 そう訪ねるけれど、答えなんて分かってる。

「おタカと一緒ならなんでもいいよ~」

「あ、そう」

 私はやっぱり呆れて、そう言っておく。

 結局、やって来たおタカに相談しかけれど、「山の所有者に許可を取らないとだめですね」ということになって、「後で連絡しておきますよ」と言ってくれた。だから今日やること言ったら、私が大量に持ち込んだホトトギスと山紫陽花の観察と水やり。

「先生~」

 彩はおタカに直接話しかける時は「先生」と呼ぶ。これは三人のなかで彼女だけ。この三人の中では、逆におタカと呼ばないことの方が特別なんだ。

「なんですか?」

 おタカの声は柔らかい。物腰も、眼鏡をかけた垂れ目も。身長は高くて少しやせ気味で、肌は白い。彩はああいうのが好きなんだって、二年前思った。

「御殿場錦の斑が焼けてるよ~」

 御殿場錦は山紫陽花の品種名。緑の葉に、紫と白の斑が入る葉も楽しめる品種。白い斑は他の紫陽花でも出るけれど、紫の斑は他の品種では見たことが無い。花が咲くと濃い紫で他の紫陽花では出ない色をする。花も葉も、特別な色を出す私のお気に入りの一つ。

「本当ですね。山紫陽花自体、山間部の薄暗い沢に自生する品種ですから日光に弱いですし、斑入りは葉緑素が無い分特に日光の影響を受けますからね」

 そう言っておタカが彩の側で紫陽花の葉に顔を近づける。彩は紫陽花ではなく自分に近づいて欲しそうだったけれど、それでも隣で同じものを眺めることに成功して満足そうにしている。

「そろそろ寒冷紗をかけましょうか。ホトトギスも夏になる前に遮光したいですし、何よりこれ以上熱くなってからの作業は大変ですしね」

 寒冷紗は簡単に言えば遮光ネットだ。山野草栽培では基本だし、遮光だけでなく真冬の霜もある程度防いでくれる。

 寒冷紗をかけ終わると、みんなで植物の観察。

「どうですか?」

「そうですね……」

 おタカの「どうですか」って言うのは、紫陽花の成長速度の違いのこと。去年茨城の山紫陽花専門店におタカの車で校外活動で行った時、店主に肥料のことや土のことを聞いたのだ。それで、色々な方法を試してみることになって、今日は成長速度の違いを観察することになった。

「やっぱり寒肥をあげたやつの方が元気がいいですね」

 私がそう言うと彩が「僕が言いたかったのに」って顔をする。寒肥というのは冬に与える肥料のこと。加奈は薄荷パイプを咥えていつものように興味が無いような態度をしているのかと思ったけれど、今日は珍しく真剣に紫陽花を観察している。

「加奈、珍しいね」

「なにが?」

「今日積極的だなって」

「興味出たんだよ」

「ふーん」

「まだ疑ってるだろ」

「まあね」

「薄荷の方が好きだけどな」

「そこは変わらなくて安心した」

 そう言いながら、彼女の変化はやっぱりおかしい。興味が湧いたって言っても急すぎるから。でもそれを指摘する証拠はない。私はただ喜ぶことしかできなかった。

 今日の作業が終わって、部室に戻る。赤玉土、鹿沼土、配合用土、市販の園芸用土、どれを使ったら植物の調子がいいか。肥料を与えた株と与えなかった株の差。肥料は油かす、化成肥料、液肥のどれが生育によいか。それらの組み合わせと花の着き具合の差。そんなことをおタカに報告する。その後報告をノートにまとめて、あとは今後の話し。

「秋山さん」

 おタカが私の名前を呼ぶ。

「今後育てたい植物はありますか?」

 「まあ秋山さんが持ち込んだ山紫陽花とホトトギスで五十鉢はありますから、これ以上増やしても大変だと思いますが」

「そうですね」

 二重の意味で返事をする。肯定と、思案。彩が「私とも話して」って顔をおタカに向けているのを見ながら考える。

「スミレ、ですかね。まだ花が咲いている時期なので交配をしてみたいんです」

 それを聞いたおタカは「そうですね」と、私のように二重の意味で返した後、「秋山さんには悪いというか、みなさんにも関係のあることなんですが」と前置きして言う。

「知っての通り園芸部は三年生しかいません。今年でみなさんは卒業の予定です。そうなると……」

 その言葉だけで私はその先が分かる。

「交配をしても一年後の子供のF1はおろか、特徴的な花が出来やすい孫のF2の花は見れないですし、何より成長記録の付けようがないんです」

 分かっていた。それでも卒業という現実から逃げたかった。なのに現実はすぐそこまで来ていて、私達の手をとって十九歳の向こう側へ引っ張って行ってしまうのだ。

 私は少しでもそれに抗いたかったけれど、反抗する方法は三人そろって留年することくらいしか思い浮かばない。

「じゃあ、どうして今後を聞いたんですか?」

 少し不満な態度が出てしまう。「すみません。不快にさせるつもりは無かったんですが」とおタカは困ったような顔をする。

「僕も考えたんですが、みなさんで桜を植えませんか」

 めずらしく「どうだ」って顔でおタカは言う。

「今年一年生が入ってくれれば成長記録は引き継げるのですが、僕の趣味の延長で作ったようなこの部活、それも園芸科もない普通科高校のこの学校の園芸部に興味を持ってくれる一年生が居るかどうか」

 「それ、わたしらが特殊な趣味してるみたいじゃん」と加奈が茶化すけれど、私はあんまり笑う気になれなかった。

「で、桜を植えると?」

「そうなんです。もしこのまま一年生が入部してくれなかったら廃部になってしまうかもしれません。それでも、園芸部があったという記念に、桜を植えませんか?」

 「校長先生の許可は取ってあるんですよ」と言うおタカの言葉に、「卒業」という言葉が私の中でどんどん大きくなっていく。

「そんなの悲しいです~」って言う彩に、私も同感。

「新年度早々にお別れのお話しをするのは僕もどうかと思ったんですが」

 加奈はどんな反応をするのだろうか。一応園芸部の一員だし、悲しんでいるのだろうか。そう思って隣を見ると、どうでもよさそうに欠伸をかみ殺して殺し切れずに居る。

 真剣に活動し始めたとおもったらこれだ。「ちゃんと考えてよ」と指で彼女の二の腕をつつく。

「いいんじゃね」

 そうは言うけれど、「どっちでもいいよ。別に」って声が聞こえて来そうな態度。

「彩は?」

「いいと思う~」

 これは想像通りの返事。

「悲しいけど、将来のことも含めて、これからのこと、ちゃんと考えないとね~」

「へえ、意外。彩がまともな事言ってる」

 そう、意外。彩が将来とか、これからのこととか「ちゃんと考えないと」なんて言うなんて。おタカとファッションのことしか考えてないと思っていたのに。

 おタカはおタカで「ね、いいですよね!」なんて言っている。私だけ取り残された気分。みんな遠くへ行ってしまうということの象徴のように、みんな卒業とか、将来とか、そんな話ばかりする。

 私はそれが嫌なのに、なぜ嫌なのかも分からない。ただ、みんなと一緒に居たいだけなのに、どうして私はみんなと一緒じゃなくちゃだめなのか、明確に言語化できないもどかしさ。

昔いじめられて、加奈と彩だけが友達でいてくれたとか、ここだけが居場所だとか、そういう訳でもないんだ。私は何不自由なく、私の生活を送っている。

 それなのに、どういうわけか、満たされない。ここじゃないどこかへ行きたい、と、中学の時は中学生みたいな思考だったけれど、今はそうじゃない。みんながここにいる。それで満足している。満足しているのに、いや、満足しているからこそ、みんなとずっとずっと、一緒にいたいんだ。それでも、世界は見たくない現実ってやつを、突き付けてくる。

 全部、私のわがままだって、分かってる。それでも、私は、この毎日がいつか風化してしまうかもしれない、ということが、怖い。

「秋山さんも、いいと思いませんか?」

「ええ。そうですよね。彩の言う通りっていうのもありますし、素敵な提案だと思います」

 嘘をついた。でもおタカはそれに気付いてくれない。みんながみんなの気持ちに気付かないで、今のままでいて欲しいと願ったのは他でもない私自身のはずなのに、今は私の気持ちに気付いて欲しいと思ってしまう。

「ありがとうございます。じゃあ早速来年植えられるように苗を手配しておきますね!」

「わかりました」

 そう返事をして、帰路。私の気持ちなんか置き去りにして、全てが進んでゆく。息もできなくなるほどの、「未来」なんていう輝かしい響きが、大気を満たす春のやさしさの中に溶けだして窒息しかける。

致死量の春は、今。

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