第2話 変異

「く、クロ……お前だけでも逃げ――」



 力なく横たわるクロに向けて手を伸ばそうとした瞬間、自分の頭が潰される感覚と共に、俺の意識は途切れてしまった。





「――はっ!」



 電源ボタンを入れたと錯覚するほど、飛び起きるように意識が覚醒した。

 慌てて辺りを見回して、状況を確認する。そこはつい先ほどまでいた路地裏ではなかった。

 黒一色で統一された、狭い部屋であった。光源は小さな豆電球一個しかないため、明るさという意味ではあの路地裏の方が上であった。

 家具や生活用品の類も置いておらず、生活感が全く感じられなかった。



 この狭い密室に他者の存在――不細工な豚の面をした怪人――がいないことが分かると、安堵の息が出てきてしまった。



「俺は助かったのか……?」



 意識を失うまで、豚面の怪人と繰り広げていた逃走劇を思い出す。その時に破裂しそうになった心臓も平常時の状態に落ち着いており、ひとまず危機が去ったことが理解できた。



 取り敢えず安全を確保できたからなのか、それまで隣にいたはずの存在に気づく。



「――そうだ! クロは……クロはどこに――」



 何故一瞬のこととはいえ、忘れていたのか。小さい頃から一緒に育ってきた彼の存在は、家族同然であった。もしもではあるが、あの路地裏に衰弱したままで豚面の怪人の眼前に放置してきたのだろうか。



「早い所戻らないと、出口は――」

「まあ、安心しなよ、白。ボクならここにいるよ」



 全く見覚えのない密室。そこからの脱出口を探そうとした時、それまでいなかったはずの第三者の声がした。

 その声の主は誰なのか。再度覚醒後の重たい頭で、部屋の隅々まで見渡す。



「誰もいない……気のせいか?」

「ここだよ、ここ」

「え……うわっ!」



 異様な状況に置かれていたせいか、腹の上にあった不自然な重みに意識が向く。視線をその重みにやると、俺の腹部にはクロが尻尾を元気そうに揺らしていた。



「クロ無事だったのか……! って、クロが喋ってる!? 本当にクロなのか!?」

「まあ、驚くのも無理はないか。ボクは正真正銘の君の飼い猫であるクロだよ。白、時間があまりないから短刀直入で言うよ」



 これは夢なのだろうか。鮮明に残る、自分の頭が潰される感覚が、今の状況が紛い物であることを否定している。俺の驚きを他所にクロらしき猫は言葉を続けた。



「ここは言わば、現世と死後の世界の狭間のような場所だ。君はね、あの豚の怪人に殺されてしまったんだ」

「そうなのか……」



 クロの発言に不思議なくらいに、自然と納得してしまった。だが、俺があの場で豚面の怪人の手にかかったと言うことは――。



「クロ、お前もまさか――」

「いいや、まだボクは死んでないよ。まあ、危ないことには変わりないんだけど」



 初めて聞くクロの声は俺に安心感を与えて、このまま会話を続けていたい衝動に駆られる。家族と言っても過言ではないクロと話せるこの瞬間は、死ぬ直前の走馬灯代わりには勿体ないぐらいである。



「いやあ、死ぬ前の妄想にしてもクロとこうして話せたから、満足かな……」

「何弱気なことを言っているんだい。君はこれからも生きていくのに」

「――は? クロ、お前。俺は豚面の怪人に殺されたって言ってたじゃないか」



 前提が引っくり変える内容の発言。確かに魔法少女や怪人などと言った摩訶不思議な存在が闊歩しているのだ。死者の復活の一度くらいありえるのかもしれない。



「いいかい? いくら魔法と言っても、死人を蘇えらせることは簡単じゃないだ。ボクがこれからすることはちょっとした反則だ。ボクの厄介事に白を巻き込んだせめてもの償いになるといいんだけど」

「おい……クロ。さっきから何を言って……」

「――今からボクの力と魔力を全て白に譲渡する」



 言っている意味が分からなかった。いや、分かりたくないのだ。この状況から考えると、クロも怪人か魔法少女に力を与える妖精に近い存在なのだろう。今までずっと一緒に生活してきて気づくことはなかったが、目の前のクロからは圧のようなものが感じられた。

 そんなクロの力を全部受け取るということは――。



「――ボクはいいんだ。白には多くの物を貰ったから。それに――ボクは君に、これからも生きていてほしいんだ」

「クロ、待って――」

「ボクの渡した力のせいで、さらに迷惑をかけるかもしれないけど、強く生きて」



 俺の静止の言葉は意味をなさず、クロが纏っていた圧――魔力だろうか――が一段と強くなり、再び俺の意識は暗転した。





「――クロっ!」



 声を張り上げた拍子に、目が覚めたようだ。クロを掴もうとした右手は空を切るだけだった。

 意識を取り戻した俺がいたのは、あの路地裏であった。人気のない空間に響いたのは、変声期を迎えた男の声ではなく、幼い少女のものだった。



「え……」



 両手で顔を触り、肌の感触を確かめる。ふにふに、と擬音が聞こえてきそうなほど、柔らかい触り心地であった。

 異変は他にもあった。体を完全に起こしていない状態とはいえ、周りのものが普段よりも大きく見える。何より丁度よかったはずの服が全く体格に合っていない。



 嫌な予感がした。頭が潰された時に、当然ながら俺の体は原型を留めていない。怪人の同類を自称したクロが行った、死者蘇生という奇跡。何かの間違いで、体の容姿や機能が変異している可能性がある。

 倒れていた際に落としていたスマホを手繰り寄せて、鏡代わりにして今の姿を見る。

 落とした時についたひび割れが目立つ真っ黒な液晶画面。そこに映っていたのは、小学三、四年生ぐらいの少女であった。



「はーーーーっ!?」



 驚愕のあまり、とてつもない声量が響き渡る。しかしその声も、自分のものとは似ても似つかない。



 俺の大声に反応したのか、次の獲物を求めて移動を開始しようとしていた豚面の怪人が、頭をこちらに向けてきた。愚鈍そうな瞳と視線が交差する。

 その瞬間、間抜けな豚面に相応しい醜悪な笑みが浮かぶ。



「やばっ!」



 訳の分からないまま少女の体になった俺の二度目の生の終わりを、直感的に悟ってしまった。

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