第8話

それからしばらくしたある日、

私が小学校から帰ると母が電話をしていた。

聞き慣れない母の言葉が

私の記憶にはっきりと残っている。

日常では耳にする機会のない言葉で

母は話していた。

私は母の隣に立って耳を澄ましてみたが、

それでも何を言っているのか全くわからなかった。


母を遠い存在に感じたと同時に、

言葉が通じなくなったのではないかと

私は急に恐ろしくなった。

そんな私の不安を知ってか知らずか

母は私を抱き寄せて頭を撫でた。

いつもの母の温かさに私は安心して体を埋めた。

私が母を見上げると

母の表情はどこか悲しげだった。


通話が終わると

母は私の背中を押して

ダイニングテーブルへ座らせた。

そして冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、

二つのコップに注ぐと一つを私の前に置いて、

残る一つを一気に飲み干した。

それから母はクッキーをお皿に出して

私の前に置いた。

「全部食べては駄目よ。

 もうすぐ晩御飯だから」

私が頷くと、

「ちょっとお父さんに電話してくるから」

と言って母は部屋を出ていった。

私は母の様子が気になったが、

それ以上に目の前にある

大好きなクッキーの方に心を奪われた。

母がよく作ってくれたこのクッキーは

後に「フロランタン」という焼き菓子

であることがわかった。


その夜、

父と母は珍しく真剣な表情で話し合っていた。

私はそれを傍で聞いていた。

「行くなら早いほうがいいな。

 仕事は何とかなるから

 とにかくチケットを早く取ろう」

「この子はどうします?

 一緒に連れて行ったほうがいいかしら」

「・・今回は連れて行かなくてもいいと思うが。

 その場合どうするかな?

 うちの実家には任せられないから・・」

「じゃあ、秋好さんに頼んでみようかしら?」

「迷惑じゃないか?」

「大丈夫よ。

 秋好さんならこの子も懐いているし、

 事情を話せばわかってくれるわ」

私は「あきよし」という名前が出たことに

ハッとした。

そして私は急に不安になった。


あの夢で私は何を見たのだろう。

私がもう少し成長していて、

自分の能力をはっきりと自覚していたら。

そう考えると悔やんでも悔やみきれない。

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