第5話 死に囚われる

 化け物――母の言葉が、耳の奥で響き続けていた。


 もう、母とは久しく顔を合わせていない。


 父が死んでから二週間。

 その間、僕たちは限界まで互いに顔を合わせないように日々を過ごしていた。


 僕はなるべく朝早くから夕方遅くまで学校に滞在し、時にファストフード店で数時間ほど時間を潰した。


 母は早くに寝て、僕が起きるよりも早くに家を出るようになった。


 生活リズムに差が生じた――意図的に生じさせた――僕たちは、同じ家に住んでいながらもはや他人に等しかった。


 母の余命はあと13年。その頃には僕は20歳を越えている。

 それまで、僕はこうして針の筵のような空間で生きていくのだろうか。


 この苦しみを、後悔を抱えながら、生きていくしかないんだろうか。


 暑いのに寒かった。

 夏の夜、僕は冷房の効いていない部屋の中でタオルケットにくるまってガタガタと震えていた。あるいはそれは、耳の奥で残響する、母の罵声から心を守るための行為だった。


 なぜだか、もうずいぶんと昔、晃の一件から見える数字が余命であることに気づいて、父の死が迫っていると理解して泣いた日のことを思い出した。


 僕を宥める父の温もりが、匂いが、大きな体が、ひどく懐かしかった。

 こんなタオルケットでは、あの時のように僕の心が温められることはない。


 あふれる涙が、頬を伝った。

 父はもういない。その事実が、今更のように僕の心の中で存在感を強めていた。


 ガタリ――部屋の外で、音が聞こえた。

 こんな時間に母が動いている。そのことに、少しだけいぶかしんだ。


 最近では、母は20時ともなればすでに部屋に引きこもっている。トイレにだって出て来ることはない。

 そんな母はなにやらごそごそやっている――そのことに、言いようのない危機感を覚えた。


 母に気づかれないように、こっそりと扉を開ける。

 音は、リビングの方から聞こえて来た。


 煌々と明かりがともるその部屋へと、音を消して近づいていく。揺らめく影は、シーリングファンライトの羽が回っているからか。


 そこまで考えたところで、強烈な違和感が僕を襲った。


 回る羽のせいでこれほど影が揺らめくことなんてない。


 慌てて廊下を進めば、ぶちりと何かがちぎれるような音が聞こえて来た。それから、ドスン、と何かが床に落ちる音。


 足が止まる。

 見たくない、けれど見ないといけない。


 心がぐちゃぐちゃになりながら、僕は扉の窓ガラス越しに居間を覗き込んだ。


 部屋の中央、ローテーブルの上に母が倒れこんでいた。

 その首には、ロープが巻き付いていて。

 ちぎれた先端が、ライトの中央辺りからぶら下がっていた。


 自殺未遂――強烈な吐き気に口を押さえる。


 はらはらと涙を流す母の姿が、目に焼き付いた。

 うなだれた横顔は半分ほど、艶を失い、白髪が目立つようになった髪に隠されていて。その奥、瞳には光がない。


 肩を震わせて一人泣き続ける母に、僕は近づけない。

 化け物である僕は、近づいちゃいけない。


 幸い、だったのは。

 母の頭上に、12.267という数字があることだった。


 その数がある限り、母は他人の運命を肩代わりしてしまうことが無ければ死なない。死ねない。

 運命が、母を死なせない。


 それは、果たして救いと呼べるようなものだったのだろうか。


 絶望して死という救いを求めて、けれど救われないしねない母を見ながら、僕は感情渦巻く心臓を握りつぶすように、胸元の衣服を強く握っていた。


 それから、僕はしばらくどのように生活していたのか、全く記憶に残っていない。


 ただ、学校には行っていた。多分、これ以上少しでも長くあの家に留まることに、僕は耐えられなかった。


 家に帰ったら寝るだけ。他の全ての時間を、僕は外で浪費した。

 手持無沙汰なままなんとなく教科書を読むようなことをしていたお陰か、無駄に成績は上がったけれど、どうでもいいことだった。


 たくさん褒めてくれた父はもういない。

 家族である母は、心を壊してしまった。


 死を知り、死に怯え、死を願い、けれど死ねない。


 母も、そしておそらくは、僕自身も。


 鏡越し、頭上に見える数字は48年と少し。

 それほど生きられると喜ぶべきか、それだけしか生きられないと嘆くべきか。


 少なくとも、生きるということが素晴らしいことだとは、僕にはもう思えなかった。

 寿命という運命を変えてまで生きる意味が、人を生かす意味が、見いだせなかった。


 放課後、僕はそのうちに学校の図書室に入り浸るようになった。

 本は、少しだけ僕に安らぎを与えてくれた。


 死について。孤独について。人生について。


 無数の本を読んだ。

 先人たちの痛みが、苦悩が、少しだけ僕を救った。


 そうして夏休みがやって来て、やっぱり僕は図書室で本の虫になっていた。


 冷房が効いた図書室の中は快適だった。数少ない問題点は学校まで来るのが面倒なことと、水分補給や昼食のためにいちいち図書室から出ないといけないことだった。


 その日、僕は窓際の席でもう何度読んだかわからないエーリッヒ・フロムの本を読んでいた。

 『愛するということ』

 読むたびに顔を変えるこの本は、もうすっかり僕の手になじんでいた。


 ページをめくる静かな音だけが図書室に響く。

 夏休みなのに図書室に入り浸っているようなけったいな人間などほとんどいなくて、ほぼ貸し切り状態になっていた。


 静寂の中、冷房の心地よさと、窓ガラスから差し込む陽光。

 完璧な条件が整って、僕は気づけばうたたねしていた。


 夢を、見ていた。


 僕はその世界で、人の頭の上に数字が見えずにいた。

 寿命を知らない僕は、ひどく楽天的に日々を生きていた。


 寿命を知らないから、僕のことを「イッポ」と呼んでくる晃と僕が仲良くなることはなかった。

 必然的に、僕は晃が死ぬ瞬間を見ることはなかった。


 晃の死には、僕は何の関与もできていなかった――そう言いたげだった。まるで、僕の罪悪感を消そうとしているような夢だな、とぼんやりと思った。


 やがて夢の情景は移り変わる。


 三年生の十月。担任の先生が亡くなった。

 理由は、学校に来る途中で事故に遭ったこと。飲酒運転をしたトラックが対向車線に舵を切り、衝突したらしい。


 先生は死に、その瞬間、僕は家でぐっすりと眠っていた。


 晃の葬式の時も、服部先生の葬式の時も、夢の世界の僕はただ義務的にお悔やみの言葉を告げていた。


 現実との落差にめまいがした。

 僕に数字の意味を教えた晃。父の死に怯え、晃の死の原因になったのではないかとにらまれる僕を慰めてくれた恩師。

 二人の死をただ悲しむばかりの自分は、同じ自分とは思えなかった。


 その世界の僕にとって、死は決して身近なものではなかった。

 いつも自分に寄り添っているようなものではなかった。


 遠い世界の出来事で、そして、自分に彼ら彼女らの死に対してどうすることもできないからこそ、ただ死を惜しむばかりだった。


 生と死が表裏一体なことも、余命という残酷な運命があることも、夢の中の僕は知らなかった。


 それでよかった。

 少なくとも、中学一年で父が病死するまで、僕は幸せだった。

 それからも、苦しいなりに日々を過ごせていた。


 大学生の頃に母が死んで、その前に祖父母も死んでいたことにより、僕は天涯孤独になった。


 保険金や奨学金のお陰で大学生活には困っていなかった。

 そのまま就職、職場の同僚と結婚、子どもを設けて、育て、60歳前で死んだ。


 平穏な男の一生だった。

 そして、それは僕には決して訪れない時間だった。


 僕には、この悍ましい力がある。

 死を見ることができてしまう、悪夢のような目が存在する。


 全ての人の頭上にはいつだって数字があって、それが僕の手足を雁字搦めにする。


 寿命が短い相手を前にすると、例え気の合いそうな相手でも仲良くする気になれなかった。

 逆に、僕よりもずっと長く生きる相手をまえにしても、僕の死がその人の肩にほんの少しでものしかかるのだと思えば、積極的な交流ができなかった。


 だから、僕は中学でも一人ぼっち。誰とも話さず、誰ともかかわらず、一人静かに生きていく。


 その、はずだった。


 誰かの気配を感じた。頭に熱を感じた。


 優しく髪をすく手の感触があった。

 大丈夫だよと、あやすような手つき。


 父が、壊れ物を触るように撫でてくれた時に似ていた。まだ幼いころの話だ。

 そっと、真綿でくるむように抱きしめてくれた日のことを思い出した。


 目の奥が熱くなる。いいや、僕はとっくの昔に泣いていた。

 だって、既に頬が濡れていた。


「大丈夫だよ。……だいじょーぶ」


 声が聞こえた。落ち付いた、静かな声。少しだけ、聞き覚えがあった。

 意識が覚醒する。そっと、瞼を開く。

 僕を覗き込むように顔を近づけた彼女と目が合った。


「――緒田睡蓮」


 名前は、すぐに出て来た。それくらいに、彼女は不思議と僕の記憶に残っていた。


 なぜか?

 彼女が、死を呼び寄せているような不吉で不幸な僕の過去話を聞いても、何の反応も見せなかったから?

 確かにそれも理由の一つだ。


 けれど、違う。

 これほどに彼女に強い関心を示しているのは、彼女に手を伸ばそうとしている自分がいるのは、そんな理由だからじゃない。


 ふと、いつものように、目の前にる彼女の頭上に視線を向けた。

 そこにはやっぱり、余命の数字が存在する。


 48.069。


 少しの違和感と、それを塗りつぶす強烈な既視感があった。


 答えは、すぐにひらめいた。

 今日、鏡越しに見た自分の余命を思い出した。僕の頭上にあった数字もまた、48.069――


「……あ」


 心に、強い風が吹いた。

 それは、冬の日本海を駆け抜けるような冷たく荒々しい風ではない。湿り気を帯びた梅雨の熱い風でもない。


 その風は、芽吹きを思わせる春のうららかな風。

 心地よく、優しくて、すがすがしい。


 解放感が心に満ちていた。

 それは希望ではなく、むしろどこまでも僕という怪物を追い落とす、致命的な運命という一撃。


 僕と彼女は、同じ数字を頭上に掲げていた。


 彼女は、僕と同じ日にその生を終える。

 僕の死を彼女が背負って生きていくことはなく、そして、彼女の死を僕が背負って生きていくことはない。


 それは、この広い世界に僕に与えられた運命しゅくふくのように思えてならなかった。運命じゅみょうとは違う、価値あるもの。


 差し出されたハンカチを受け取って涙を拭く。

 大きく息を吸って、吐いて。

 心の中にある思いを抱きしめながら、口を開く。


「……ありがとう。それから、改めて始めまして。僕は渡良瀬一歩です」

「……緒田睡蓮、です」


 そうして、僕と睡蓮は出会った。

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