メキキラピカ
@sainotsuno
第1話
かなたはずっとニカを待っていた。一時間たっても二時間たっても、日が傾いて空気が苦くなっても星が瞬きはじめてもニカは現れなかった。最初、時計台の針の真横に出来た虫刺されみたいなカラーパが果実のように膨らんでいった。時計台は空間のゆがみでくの字に折れ曲がり、今にも倒れてきそうだった。それでもニカは現れなかった。雨が降っても、雪が積もってもかなたは地蔵のようにじっとしていた。あの赤いカラーパは今や爆発寸前の風船みたいに大きく膨らみかなたは時計台の下に立っていられないほどだった。
かなたは手に持っていた黄色い傘で空を引っ掻いた。まるで羊を斬りつけたみたいに曇り空に切り傷ができて、赤い雫が一粒かなたの足元に落ちて弾けた。その時だった。白い音が柔らかくかなたの耳をつまんだ。
天音が止むと風に運ばれてきたシャボン玉がかなたの鼻先ではじけた。「うわっ」とかなたは一週間ぶりに声をあげた。その声に重なるようにスイらしい紫っぽい声が謝罪した。「かなた、ごめんね。」
空間のふくらみはますますひどくなって時計台は跡形もなく潰れてしまった。謝罪の声に遅れてその主がやって来る。ニカだ。ニカは手のひらを合わせてぺこぺこしながら口を開いた。ニカの口からシャボン玉が結ばれて彼女の声を包んでいく。
「遅いよお前!殺すぞ!」
かなたはそう言いながら傘を乱暴に振り回した。傘で斬られた空間が鞭で打たれた背中みたいにずたずたになってとめどない流血が赤い水たまりを作る。
ニカはまるで溺れているみたいに口から泡を吹き出して何度も何度も頭を下げる。
ニカの口から吹き出された泡が空気にもまれるたび雪だるま式に膨らんで、かなたの鼻息ではじけた。ニカの声が遅れてやって来る。
「本当にごめんよかなた。でも、どうしてもやらなくちゃいけないことがあったんだ。家から出た時にね、小さな女の子の泣き声がしたんだよ。それに、かすかに火薬臭いにおいもした。その匂いを糸を手繰るみたいに追っているうちに私は世界の裏側にたどり着いちゃったんだ。そこではね、おぞましい戦争が行われていたんだよ。
空が花冠を頂いているみたいな輪っか上のカラーパのすぐ下で人や人魚や妖精が互いに互いを傷つけあい殺し合い、空気が屍をむしゃむしゃと喰らっていた。私は本当に悲しくなって戦場を駆け抜けて叫んだんだ。「戦争をやめましょうって」そしたらね、私は弾に当たって気絶しちゃったんだ。
私は牢屋に繋がれた。リーダー格のザクが私の牢屋の柱を握っただけで痛そうに呻いた。本当にザクって脆いよね。「大丈夫?」って私が尋ねるとそのザクは首を横に振って泣きべそをかいていた。そのときね、ザクの髪がほどけて顔がはっきりと見えたんだ。そしたらなんて偶然だろう、一年前火山でおぼれているところを私が助けてあげたザクだったんだよ。私はそのザクを説得した。そしたらザクも力なさげに俯いて「生きるために戦うしかないんだ」って零したんだ。牢屋は酷く冷たい洞窟の中にあった。洞窟の壁に裂け目が合ってその裂け目から水っぽいぶりゅぶりゅという音と一緒に黒い塊が落ちてきたんだ。とてもひどいにおいで私は鼻が曲がりそうだった。「こんなところにいたんじゃ、私たちは生きていけない。だから戦って新しい土地を得なければならない」ザクはそう言っていたんだ。でも戦いは苦しみしか生まないでしょ?だからね、私は言ったんだ。「私が敵のリーダーにあって説得するから戦いを一時でもいいから止めてほしいって。」それがちょうど家から出て5日目だった。」
しゃぼんだまの殻の欠片が煌めきながらかなたのぼろ靴に落ちていった。かなたは大きくあくびをした。「そのとき、こっちでは丁度雪が降っていたよ」ニカは再び口を開いて、自分の顔よりも大きいシャボン玉を結んだ。多分四千文字ぐらいの声はこのシャボン玉の中に閉じ込められていると見えた。シャボン玉が空気にもまれながらかなたのもとに届いたとき、かなたは糸が切れた人形みたいに倒れた。ニカが慌ててかなたを抱き起したときかなたは目を閉じて静かな寝息を立てている。かなたは唇をむにゃむにゃしながら「大好きだよニカ」と寝言を言った。その時、ちょうどシャボン玉がはじけてニカのあと一週間分の遅刻理由が延々と述べられた。
シャボン玉から放たれたニカの冒険譚を聞いたのは妊婦の腹みたいに膨らみ続ける赤いカラーパとそれに押しつぶされている時計台だけだった。ニカはかなたを負ぶって帰路についていた。かなたのぬくもりがシップみたいに背中に滲んで胸まで届いた。かなたが背中からずり落ちそうになったからニカはかなたを背負いなおして微笑む。「私も大好きだよかなた。」
雲間から差し込む光が空を癒して傷を塞いだ。地面に出来た無数の血の水たまりも光によって白く蒸発していった。ニカは立ち止まり思わず息をのんだ。ちょうどその時ニカの背中でもぞもぞとかなたが動いて足をピンと伸ばした。ニカはかなたを起こしてやった。かなたは光を一杯に浴びながら「うーん」と大きく伸びをして「良く寝た」と笑うのだ。ニカも一緒になって笑った。ニカの口から吹き出されるシャボン玉も笑っているみたいに揺れながら弾けた。「まだ、15分しか寝てないでしょ!」ニカの声が遅れて聞こえるころにはかなたはニカの手を掴んで丘を駆け下りていた。
かなたとニカは楽しそうに笑いながら丘を駆け下りた。丘のふもとにやってくるとかなたの足は徐々に鈍くなっていきついに止まった。ニカの口からシャボン玉が吐き出される。かなたは急に膝から崩れ落ち顔を覆って泣き出した。シャボン玉は空と丘を曲面に宿しながらかなたの元へ届いた。「楽しいね、かなた」憎らしいほど遅延のある声。今やそれはかなたの心を傷つけるのみだった。「何が楽しいんだよ」かなたの声が光のように遅れもなくニカの胸を貫いた。「ごめんね」という言葉も忌々しいシャボン玉にコーティングされてすぐに相手に届かないもどかしさ。ニカが差し出した手をかなたは払い除けてうずくまった。かなたの手の形に傷んだ手の甲をニカは胸に抱いた。ヒリヒリという痛みと一緒に光の屑が手の傷から零れる。ようやく、シャボン玉がほどけた。「かなた、私はあなたが大好きだよ。悲しいときもずっと一緒にいるからね」
かなたはうずくまり顔を覆ったまま小刻みに震えている。その震えはだんだんと大きくなっていきシンバルを両手で挟んだみたいに不意に止まった。「ふふっ」と手で覆い隠されたかなたの口から笑い声のようなものが漏れた。かなたは顔を覆ったまま立ち上がりニカの目の前にやってきた。ニカは少し後ずさりして小さいシャボン玉を吐いた。「ばあ!」かなたは手の覆いを解いて電気で痺れたみたいな変顔を披露した。小さいシャボン玉がはじけて「え?」というニカの驚きが遅れて届く。かなたは腹を押さえて「ははははは!」と笑って止まらなかった。ニカは頬を膨らませてかなたのお腹につかみかかって彼を柔らかい草に押し倒した。
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