我が世の春

正部芳奈

我が世の春



 今日は最悪な日だ。神野願じんのねがうは数十分動かない電車の中で溜息をついた。

 前日から予兆はあったのだ。五連勤だったはずのシフトが急に六連勤になった段階で連勤明けの達成感は跡形もなく消え去り、翌朝、即ち今、その六連勤の出勤のために乗っていた電車が人身事故を起こしたことによって、神野はその日起こる森羅万象に対して諦めがついた。何をやってもどうにもならない日が人生には何日かあるということを、神野は齢二十二にして知っていた。こんなことに巻き込まれるくらいなら、たかだか五、六千円の金になど釣られないで、社会の歯車に組み込まれる前の最後の春休みを一日でも長く謳歌すればよかったと後悔した。だが何にしたって金はかかる。先日単焦点のレンズを買ったし、随分前に買ったカメラの分割支払いは今月まで残っている。どうせあれこれ言い訳したところで諦めて出勤するのだろう。神野はやり場もなく窓の外を眺めた。

 車内に押し込められた人々から染み出る厭な熱と行き場のない戸惑いが混ざり、車内には重たく湿りべたついた空気が満ちていた。神野は身を縮め窓に体を預けた。誰かが開けた窓から吹いてくる三月の涼しい風だけが心地よく、せめて風に当たれるよう身じろいだ。今日をやり過ごせば五千円。神野は頭の中でそう唱えて、アルバイト先の店長に遅刻の知らせを送った。

 連絡ついでにSNSを見れば人身事故は皆の話題になっていて、朝っぱらから巻き起こった事故に対する怨恨がつらつらと書き記されている。事故が起こったのは利用者数が多い大きな駅だったためか、珍しいという意見のほかにやれ迷惑だやれ賠償金だなどという正義漢気取りのコメントが多く目に入った。お前らは当事者じゃないくせに。一番文句言いたいのは俺だ、と内心で毒づいて神野はSNSを閉じた。愚痴ったところで電車が動くわけでもない。ましてや金が手に入るわけでもない。ただ気が滅入るだけだ。無意味にスマホを眺めても充電が減る。神野にはどうすることもできない。諦めた神野は至る所に張り付けられた広告を片っ端から読み、電車が動き出すまで時間を潰した。


 バイトしている定食屋はそれなりに年季が入っているが、そこそこの味と安さと量が人気を博してか昼間は学生や社会人問わずそれなりに客が多い。神野が店に着くと珍しく満員状態だったが、客の中には水も出されず、テレビを眺めているだけの者もいた。まずい、と直感が訴える。

 店内を駆けまわっている店長が神野を見るや否や「お水出して!」と小さく叫んだ。神野は頷いて店内を見回す。こんなに業務が滞っているのは今日のバイトが一人いないからだと気付き、あの野郎また遅刻しやがって、と湧いた怒りを鎮めながら神野は急いでエプロンを付け、ホールに出た。


 天使あまつかはサボり癖のあるバイトの後輩だった。初対面の時の印象は「いつか被写体にしよう」で、男にしては線が細く、どこか柔らかな空気を纏っていた。“天使”とはよく言ったもので、顔も姿も美しく整った彼は黙っていると時々店の中でも客に女に間違えられるような男だった。見た目の割に地味で陰気だが懐くと馴れ馴れしい関わりをしてくるタイプで、人がいない時間帯には利益にも害にもならないようなくだらない話題を神野に振った。気が付けば被写体のことなど考えなくなっていた程度には、神野はこの男のことを好いてはいなかった。いい加減なところがあり度々遅刻をして、今日のように自分や店長を困らせる。申し訳なさそうな態度を取っているものの、へらへらとしてはっきりしないいい加減な態度を取るところが面倒で苦手だった。その割に仕事はそれなりにできるし聞き分けも良く配慮もできる。そういう面で神野は天使のことを評価していて、同時にどう接すればよいのか分からない後輩と認識していた。嫌悪感を露わにして空気感を悪くして働きにくくすることも嫌だったので、神野は胸中を隠し、多少雑ながらも普通の態度で接していた。


 食事を終えた客は足早に立ち去るか、テレビから流れるワイドショーを眺めているかの二択だった。数十分経ってようやく店内が落ち着き、神野も暇つぶしがてらテレビを見た。

 番組では専門家らしき男性がセクシャルマイノリティだか女性の権利だかについて当り障りもないことを熱心に語っていた。「みんな自分らしくいればいいんですよ」と訴える、男にしては少し高い声に乗って伝えられる話は耳障りだ。客も同じ気持ちだったようで、チャンネルをニュース番組に切り替えた。今朝の人身事故はトピックだけ表示されてすぐに押し流された。どうして今日はこういう小難しい話ばかり耳に入るのだろう、と神野は水を飲んだ。

「ホール一人は無理だわ」

 神野の隣でテレビを眺めていた店長はホールの影で水を飲み干した。

「無断欠勤ってヤバくない?」

 雇われただけの店長だという彼は三十路にしては白髪だらけで随分とくたびれた見た目をしていた。

「そっすね……」

 神野ははぐらかすように笑った。ゴシップを好む店長は誰彼構わず人の悪口をよく話した。彼は特に天使が気に入らないようで、しょっちゅう彼の愚痴をこぼしていた。

「天使君ならいつかやると思った、神野君からも言っといてよ。仲いいでしょ」

 店長は軽く神野の腕を叩いた。神野ははぐらかすように笑う。軽薄な店長のことも、神野は内心で嫌っていた。

「でもなんでこんな日に飛ぶかなあ」

 店長は不満げに落ち着いたホールを見回した。店は人身事故を起こした駅の近くにあって、人身事故が発生した日は、一時的に異常なほど店が混み合う。

「ほんとはた迷惑な話だなあ……」

 神野は愛想笑いを浮かべながら店長の愚痴を軽く受け流してホールへ出た。


 一時混み合った店内はその後盛り上がることはなく、神野が退勤する頃には数人の客がいる程度にまで落ち着いた。結局天使は店には来ず、連絡もなかった。店長は「お疲れ、またよろしくね」と神野を送り出した。神野はその言葉には愛想よく返事をして店を出た。時刻は夕方に差し掛かっていて、一日を無駄にしてしまったような気がした。今日はどうしようもダメな日だから仕方ないと諦め、神野は帰路に就いた。


 その日の深夜、神野がベッドに寝転がり眠ろうとしていた時のことだった。

 神野がぼんやりとスマホをいじっていると、突然インターホンが鳴り響いた。最近物騒だ。神野は無視をする。その数秒後にインターホンは再び鳴り響き、神野は再びそれを無視する。やがてインターホンはペースを上げ連打される。けたたましく鳴るインターホンに眠気は覚め怒りすら湧いてきた。通報するまでもないが面倒だ。神野は布団の中に潜り込む。すると間もなくぴたりとインターホンは鳴り止んだ。ただの酔っ払いだと怒りを鎮めた神野は目を閉じ眠ろうとした。

「おーい」

 それはか細く男にしては少し高い、透き通ったものだった。天使の声だった。一度押し込めたはずの怒りはあっという間に沸点に達し、神野は飛び起き、どすどすと玄関まで向かった。

 勢いよくドアを開けて、一瞬手が止まった。ぶかぶかの古着のようなトラックジャケットを着た天使は染めたプラチナブロンドの髪を風に揺らし、皮膚の薄い白い頬を赤らめてそこに立っていた。彼の背の夜闇に咲く満開の桜は街灯で薄く紫に浮かび上がっている。強い風ではらはらと舞う花びらの色に、絹糸のような髪が透ける。天使の表情は街明かりの逆光でよくは見えないが、目を細め、微笑んでいた——息を飲むほど、彼とその景色は美しかった。まるで夢でも見ているかのように。

「来ちゃった」

 天使は首を傾げ、満面の笑みを浮かべた。そのふざけた態度を見て、神野ははっと正気に戻った。

「……なんで俺の家知ってんの」

 不信感を募らせ神野が問うと、天使は笑いながら「店長が謝りに行けって教えてくれました」と言い放った。

「は?」

 この時代にこんなに緩い個人情報の扱われ方をするとはと神野は項垂れた。店長もいい加減な人間だとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。

「店長ノンデリですよねそういうところ」

 天使は笑いながら言ったが神野は言葉の意味が分からず、どう返せばいいのか迷って結局は黙った。呆れてもいた。

「……今日大変だったんだぞ」

 恨み節の一つくらい許されると思い、神野が天使を睨み言葉を吐くと、天使の顔から即座に笑みが消え去り、深々と頭を下げた。

「ごめんなさい」

 神野は素直な天使の態度に多少驚いた。彼が素直に謝れる人間なのだと、神野は思っていなかった。

「直接謝りたかったんです。ごめんなさい、いつも」

 天使が顔を上げると、申し訳なさそうに眉を下げながら、優しい笑顔を浮かべていた。

「……次から気ぃつけろよな」

 素直に謝罪されてしまえば許さない理由もない。神野はぶっきらぼうに告げる。天使はそれを聞くとにこりと目を伏せて「はい」と言った。

 神野は家のドアを閉めようとノブに手を掛けた。春とはいえ、三月の夜はTシャツとジャージではまだ冷える。天使は神野の素振りを見ても、じっと佇んでいた——まだ何か、伝えそびれていることがあるかのように。

「帰んないの?」

「……ええと。ちょっと待ってください」

 神野が促すと、それまでどこか余裕のあった天使が視線を彷徨わせてたじろいだ。彼は少し俯いたあと、息を大きく吸って、吐いた。

「……ちょっと、散歩行きませんか?」

「散歩?」

「ほら、夜桜。綺麗だから……」

 天使はどこか不自然に言い淀みながら呟いた。神野は外の風景を眺めた。確かに、桜は美しく咲き誇っている。

「……だめですか?」

 神野が答えあぐねていると、天使は眉を下げて首を傾げた。その顔を少し見つめて、神野は扉を閉じた。この寒さで出かけるには上着がいる。それと財布とスマホと、少し迷ってカメラを持って再び扉を開けると、絵に描いたように顔を伏せて落ち込んでいた天使がぱっと顔を上げ、満面の笑みを咲かせた。

「え。来てくれるんですか……?」

 神野は上着を羽織り、家を出る。

「まあ……実際、桜綺麗だし」

 少しだけ言い淀んでしまったのは、小さな嘘をついたのを誤魔化そうとしたからだった。天使のことは相変わらず苦手だ。非常識な時間に非常識な方法で家に押しかけてきて、こちらの事情も考えずに散歩に誘ったり、家の前に居座ろうとしたりして、相手のことを考えないにもほどがある。けれどなんとなく、このまま放っておくのも後味が悪い気がした。そこまでして自分を花見に誘う理由が天使にはあるのだろう——そういう直感めいたものが、神野の背中を押した。今日の天使は、なにか変だった。

「ありがとうございます」

 天使は神野の内心を知らないまま笑みを浮かべ、首をかくんと折るように頭を下げた。その際に神野が手に持っていたカメラが目に入ったようで、跳ねるように顔を上げた。

「先輩写真撮るんですね」

「そう。お前のこと撮っていい?」

 天使の要求ばかりに乗るのは癪だ。ついでなら自分の要求だって通しても罰は当たるまい。そう思い、神野はカメラを見せた。天使は目を丸くして、考えるように黙って、すぐに頷いた。

「むしろいいんですか? 嬉しいです」

「別にいいよ」

 神野は小さく頷いて「じゃあ行くか」と扉を閉めた。

 

 「こっちです」と言って、天使は神野の先を足早に歩いた。なぜか急いで歩く天使を、神野はただ黙って見失わないように追った。天使だけを追って歩く視界に入るぼけた街並みはやけに煌々と輝いていて、映画のような、何かの洒落た映像に見えた——街を歩く天使の様相がそのように錯覚させたのかもしれない。疲れ切っていても、写真を撮る意欲は徐々に湧いてきた。

 天使は慣れたように細い路地に入っていった。道は住宅街に繋がっていて、やがて人通りはぱったりとなくなった。そこまで行って、天使の足取りはようやく緩慢になった。

「よくこんな道知ってんな」

 不思議に思い声を掛けると、天使は横目で神野を見て笑った。

「さっき散歩してたんですよ」

「じゃあわざとこんな時間に押しかけてきたのかよ」

 文句をつけるかのように言うと、天使はころころと声を上げて笑った。

「まあ……そういうことになりますねえ」

 本当にいい性格をしている。神野は何度かの苛立ちを鎮め、溜息を吐いた。

 黙ったまましばらく歩くと、ふいに「もう着きますよ」と天使が言った。暗い中に薄ぼんやりとライトアップされた桜が浮かび上がっていて、顔を上げれば探さずともよく見える。神野は思わず歓声を上げた。

「満開じゃん」

「綺麗でしょ」

 神野は小さく頷く。公園の入り口まで歩くと、遊具などが置かれた、子供が遊びまわれるほどの広場一帯を囲むようにして桜が咲いているのが見えた。夜も遅いからか人はおらず、あたりには二人だけだった。

「よく見つけたな、こんな穴場」

 四年もこの近辺に住んでいながら、こんな場所を知らなかった。並木を眺めていた天使は「ね」と首を傾げて少し笑った。その様が綺麗で、神野は咄嗟にカメラを取り出した。

「ちょっと待て、そのまま止まれ」

 神野がそう言うと天使は言葉の意味を理解して、笑みを浮かべたまま神野を見つめた。 

 天使の表情が、天真爛漫とでも言うべき無垢な笑顔から、含みのある儚げな笑みに変わっていく。完成された表情だった。空気が変わるのが分かって、神野は狙いを定めるようにファインダーを覗いて、即座にシャッターを数度切る。顔を上げると、天使は笑ってこちらを見つめていた。

「撮られ慣れてんの?」

「まあ俺ルックスにだけは自信あるんで」

 天使は首を上げ、とろりと伏せたまなざしで神野を見つめた。並大抵の被写体顔負けで、天使は絵になった。それを分かっていてふざけて本気のポージングする彼が面白く、神野は吹き出した。

「うわ」

「うわってなんですか、うわって」

 笑いながらも確実にシャッターを切り、神野は周囲を見回した。神野と天使は既に撮影者と被写体に切り替わっていた。少し低い位置に咲いている桜を見つけ、神野は駆けた。

「ここ立って」

「はあい」

 天使は軽やかな足取りで、桜の木の前に立った。首を傾げて薄く笑う姿は艶やかだ。薄い色の桜の中に、彼が溶け込んで消えてしまいそうだった。神野はこれまでにない手応えを感じていた——天使に、心を動かされていた。

 天使は代わる代わる表情や仕草、ポーズを変えた。踊っているようだった。こんなに楽しそうに撮られる人間を神野は知らなかった。何度もシャッターを押す。覗き込んだ先に映された世界は、すべてがぴたりとそこに当てはまったように美しい。

 天使は桜の花に顔をうずめ、静かな眼差しでこちらを見つめた。大きく淡い茶色の虹彩と、目尻のふちの潤んだ濃い赤と、その眼差しを縁取るように均等に並んだ長い睫毛はぴんと弧を描いている。血色が透けた頬と鼻先はほのかに桜と同じ色に染まっていて、唇は薄く、ほんのりと紅色を乗せている。目を惹かれる——神野の知る中で、彼は男女を問わず、一番美しかった。彼を写真の中に納めれば、誰もが目を留めるような素晴らしいものが出来上がるのだという予感が、神野の胸に満ちていた。

「めちゃめちゃいいな……」

 神野が思わずそう呟くと、天使は照れたようににっこりと笑った。その瞬間、写真の中に生気が満ちた気がした——人形や洗練されたつくりものでなく、いのちそのもの。神野は思わずシャッターを切っていた。写真を確認すると、顔を綻ばせて笑う、生き生きとした天使が桜と共にそこにいた。夜闇の中ですべてが照らし出されたように鮮やかだった。神野は満ち足りた気分になった。

 足音がして顔を上げると、天使が恥ずかしそうに頬を赤らめてはにかんでいた。神野は上機嫌で天使に写真を見せてやる。

「え、先輩プロ?」

 写真を見た天使は口元に手を当て、目を丸くして神野を見つめた。率直な言葉が嬉しくて、神野もつられて笑った。

「まあ……それなりにやってるから」

「ええ、これ俺にもデータくれません?」

「いいよ。また今度バ先で渡すわ」

「やった。ありがとうございます。めちゃめちゃ嬉しい」

 神野は照れくささを隠すように顔を背ける。天使は屈託のない笑みを浮かべ、律儀に頭を下げた。

 心が躍るようだった。被写体にしようとは前々から考えていたが、まさかこんなところに逸材が眠っているとは考えてもみなかった。先ほどから、新しく気付くことばかりだ。この公園のことも、天使のことも。彼がこんなに豊かに笑う人間なのだと知らなかった。もっとひねくれていい加減で、面倒な人間だと思い込んでいた。面倒なのは表面だけ見て、身勝手な偏見を押し付ける自分のほうかもしれない。神野は少しずつ、天使という人間を正面から捉え始めていた。


「先輩。そろそろ日付変わりますよ」

 カメラのデータを改める神野を覗き込むように天使は言った。気が付けば日付を跨いで少し経っていた。時間を忘れるほど夢中になって写真を撮っていたことにようやく気付いて、神野は慌ててカメラを鞄にしまった。

「悪い、ちょっと早足で行くか。お前電車?」

「電車です、終電間に合います」

 天使はサムズアップして、悪戯っぽく微笑んだ。

 二人で揃って公園を出ると、天使は「今日はわがまま言ってすみませんでした」と眉を下げて笑った。

「まあ、いいよ。いい写真撮れたし」

 天使は神野の前を早足で歩いていた。どんな顔をしているのかまでは見えないが、彼のことだから嬉しそうに笑っているのだろう。

 天使はそのまま少しだけ足取りを緩めた。神野は不思議に思って、ペースを合わせる。

「……もう一個わがまま言っていいですか」

 天使は足を止め、神野を見つめた。

「何?」

 少し前、自分の家に押しかけてきたときの天使の姿が頭に過った。

「駅のホームまで見送ってくれません?」

 どうしてそんなことを頼むのだろう。疑問に思ったが口には出さず、神野は頷いた。

「まあ、いいけど。なんだそれ」

「ありがとうございます。ですよね」

 天使の表情を伺う前に、彼は振り向いてまた早足で歩き出した。理由を言おうとしない天使は、何かから逃げているようにも見えた。


 そこそこ人の多い繁華街だというのに、終電前のホームには誰一人いなかった。神野と天使はベンチに座って、電車が来るまで、ただじっと沿線に咲いた桜を眺めていた。ふと隣を見る。ぶかぶかの袖の内側の、白くて細い枝のような腕に、幾つか膨れた線があるのを見て、そっと目を逸らした。天使には、天使にしか分からない苦労があるのだろう。それは興味本位で聞いていいものではないことくらい、神野にも分かっていた。

 ゆるやかに流れる静寂の中、天使はぽつりと呟いた。

「……また、デートしてください」

 デート、と頭の中で言葉を反芻して、ふっと笑う。よくあるジョークだ。

「なにそれ」

 神野が笑うと、天使は振り向いた。天使は真っ直ぐな眼差しで、口元をゆるめていた。

 どくんと心臓が跳ね、体の感覚が遠のく。時間が重たくなった気がした。

「俺は今日、デートだと思ってました」

 透きとおった天使の声がやけにはっきりと響いた。その言葉の意味が分からないほど、神野は野暮じゃない。突然打ち明けられた秘密にどう返せばいいか分からなくて、声が出せなかった。

 神野がたじろいでいると、天使は顔を伏せて笑って、服の裾をぎゅっと握った。

「気持ち悪いかもしれないですけど、今日のこと、忘れないでくれませんか」

 顔を上げた天使は、音もなく泣いていた。大きな二つの瞳から、玻璃がとけたような涙があふれている。

「な、んで、泣いてんの……?」

 神野は天使のほうに体を向ける。天使は静かに頬を流れる涙を拭い続ける。

「しあわせだったから」

 天使は涙を隠さず、僅かに唇を震わせながらにこりと微笑む。

「なん……だよ、それ、泣くなよ」

 今から死ぬみたいなこと言うなよ、と神野は天使の腕を掴んだ。どうすれば傷つけずにいられるのだろう。服越しの天使の腕は見た目よりずっと細く骨ばっていて、硬い。

「先輩は、もっとしあわせになってね」

 天使は顔を伏せ、節くれだった白い指で神野の手にそっと触れた。信じられないほど冷たい指先だった。そして瞬きをしたら、目に入ったのは青いベンチだった。

「天使?」

 繁華街らしい喧騒が突如耳に流れ込んで、神野は目を見開いて立ち上がる。周囲には終電らしい人の賑わいがあって、何人かは神野を訝しげに見ていた。心臓が早鐘を打つように跳ねて痛い。神野は衝動的に立ち上がり、人を掻き分けてホームを探した。そのどこにも天使はいない。空は黒く、先ほどまで見えていた桜の木は、まだ一つも咲いていなかった。

 神野は無我夢中で鞄をひっくり返しスマホを取り出す。チャットアプリで連絡先を探ろうとして初めて、神野は天使の連絡先も住む場所も、〝天使〟という嘘みたいな名前以外に何も知らないことに気付いた。彼を探す術は神野にはない。

 まさか、と思って神野はギリギリまで近寄って、暗い線路を見下ろす。車線のどこにも人影はない。そんなことがあれば今頃大騒ぎになっているだろう。けれど彼のあの言葉はまるで、死にゆく人間のようで。

 そこまで考えて、どっと汗が噴き出た。手汗でぬめる指先で、神野は今朝の電車の人身事故についてSNSで調べた。

 真っ先に目に入ったのは「LGBTQ+専門家の隠し子、電車に飛び込み自殺か。性被害揉み消しの告発も」というタイトルの、週刊誌の記事だった。

 心臓がどくどくと音を立てて跳ねる。押したくない。もう分かっていた。記事のリンクを押す。そこには、〝天使四季あまつかしき〟という名前と、どこか冷たい顔を浮かべる画質の悪い天使の写真と、その〝遺書〟と、彼の身に起きたことが事細かに書かれていた。

 指先から熱は失せ、震えている。神野はただ指を滑らせた。目を逸らしたい。でも、最後に触れた彼の細い腕と、指先の冷たさが忘れられない。

 〝遺書〟には、全てが書かれていた。それは今まで自分がわかったふりをして、目を逸らしてきた現実に他ならなかった。

 自分が何度も男女問わない痴漢やストーカー、性被害に遭ったこと、それを誰にも言えず学業や仕事に支障をきたしていたこと、自分が望まずに生まれた不倫相手の子であったためか父親である専門家がそれに対し一度も取り合ってくれなかったこと、死を決めたのは男性にレイプされたこと、誰にも言い出せず肉親である父親に訴えても「ただのいたずらだろう、お前がいい加減な態度を取ったのだろう」と軽く見て、挙句の果てには「慰謝料をたかるだけの嘘だ」と冷たい言葉を浴びせ、何もしなかったこと、そのための〝復讐〟として自殺を選んだのだと、ただ淡々と、整然と書かれていた。父に対してはただ一言〝人を踏みにじる嘘をつける金の亡者〟とだけ書かれていた。

 天使はその細い背中に社会の暗い影をすべてを背負って死んでいったのだ。そうとしか思えなかった。神野は顔を覆って、ふらふらと駅のホームを出た。

 逃げ場を探すようにスマホにかじりついて調べてみても、今日人身事故を起こした列車は自分が乗っていた電車しかなかった。人身事故を起こしたその時、そのことに対して神野はただ「うざったい」と思った。それが天使に対する自分のすべてだったような気がして、胃を捻るような罪悪感に押しつぶされそうになる。

 知らなかったで許されることだろうか、天使への態度は。「デートだ」と言われたとき、冗談だとすぐに笑った自分は。

 改札を出て駅周辺のベンチに座り、しばらく呆然としたあと、神野は力の入らない指先でカメラを手に取った。まだそこに天使がいるんじゃないかと思った。神野は諦めきれず、祈りながら、カメラを起動し、今日撮った写真を遡る。そのどれもに暗闇だけが映って、もう天使はどこにもいない。なのに、幻だとは到底思えなかった。天使が自分だけに見せていた眼差しの意味をようやく知って、僅かに残ってぼやけていく記憶を必死にかき集め、もうどこにもないあの笑顔を脳裏に焼き付ける。喉の奥がひりつくように痛い。神野は息を詰めて、カメラに額を合わせた。

「ごめん……」

 わからない。これまで同性を好きになったことはない。これからも好きになるのは異性だろう、たぶん。けれど何度も、どうしたら天使を救えたのだろうと考えてしまう。しあわせだったと言った天使の言葉が過る。いま、天使に抱く気持ちに名前が付けられなかった。今日のことがなければ、天使の想いを知らなければ——いや、知っていたとしても、こんなことがなければ冷たくあしらっただろう。死んで初めてすべてを知って「忘れられない人になった」だなんて冒涜と同じだ。無関心な自分に途方もなく嫌気が差す。どうしてそんな自分に、どこまでも薄情な自分に、天使は恋をしたのだろう。神野には何もわからなかった。

 それは不誠実なことかもしれないと思うのに、もう手遅れなのに、それでも今、どうしようもなく天使のことを抱きしめてやりたかった。あの細く冷たい身体を、熱が移るまで、力いっぱいに。

 神野は目を閉じて、天使を思い浮かべる。脳裏の天使は桜の中で笑っていた。彼の身体が埋まるであろう空白を腕で囲んで、強く、強く抱きしめた。







 準備はすべて済ませた。天使四季はぼろぼろになった重い身体を引きずって、駅のホームで静かに息を吐いた。

 心残りがあるとすれば、先輩に何も言えずに死んでいくことだけだ。この計画を考えてから何回も打ち明けようかと迷ったけど、多分困らせるだけだと思ってそれは諦めた。それにきっとこの恋は叶うことはない——なんとなく、きっと駄目だと分かっていた。先輩は自分とは好きになる人が違うし、自分のことを好きではない人を好きになった自覚はあった。見た目がいいだけの自分に先入観なく普通に接してくれたから好きになったけど、それはあくまで彼が自分を〝普通の人間〟だと思っているからで、長く一緒にいれば、同じでないことにきっと幾度も傷つくのだろうと経験則で分かっていた。だから友達のままでいる、それだけ。そうやって、何度も恋を殺した。

 それでも、先輩に出会えてよかったと思う。最後まで、誰かをただ愛せてよかった。心の趣くままに誰かを大切に想うことは、間違ったことなんかじゃない。決して。

 もうすぐ電車が来る。悔いはない。もう、つらい思いはせずに済む。

——どうか、先輩が幸せでありますように。

 顔を上げれば、雲一つない薄青の空が広がっていた。ほのかに温かい春の風が身体を包む。いい日だ。警笛の音。息を大きく吸って目を閉じ、天使は踊るように、宙へ飛んだ。







性的指向や性自認による偏見や差別によって心を痛め、自殺を選ぶ若者がいなくなること、そしてそういった社会が生まれることを願います。

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