第7話 雨の虎徹


 イマイ砥店を出て、ばらばらと傘に雨の当たる音を聞きながら、橋を歩く。

 船宿の虎徹は、橋を渡った向こう。


「さあ、少し早いですが、虎徹に行きましょう」


「ご主人様、私はラディさんからイエヨシを返して頂きまして、イマイ様に」


「返してもらうのは構いませんが、イマイさんの所に行くのは食べた後です」


「は? は・・・」


「ナミトモを見たいのは良く分かりますが、見出すと止まらないでしょう。

 行くのは食べた後。良いですね。席は私が取っておきます。

 主を待たせないで下さいよ」


「はい。では」


 ぴちゃぴちゃと音を立てて、カオルは早足で歩いて行った。

 歩いて行くカオルの背を見ながら、あんなに音を立てて歩くのは珍しいな、などと下らない事を考えてしまう。


(さて)


 虎徹の入り口の前に立つと、雨音に混じって、もう中から賑やかな声が聞こえる。

 傘を閉じ、軽く振って雨を払い、傘立てに掛け、戸を開ける。


「いらっしゃいませー!」


 女将の元気な声。

 酔っ払い達の賑やかな声。

 タニガワと来た時と全く同じだが、雨のせいか、1人のせいか。

 以前と違う感じがする。


「どうもー」


 と、にこやかに近寄って来た女将が、あっと声を上げ、


「トミヤス様じゃないですか」


「先日はどうも」


「あの・・・」


 女将がつま先立ちで、マサヒデの肩から後ろを覗くように見る。

 シズクやクレールがいないか、心配になっているのか。


「ははは! 今日は2人です。もう1人、後で来ます。

 ほとんど呑まない人ですから、大丈夫ですよ」


「あら、そうなんですか?」


「いや、この間は悪のりして、本当に申し訳ありませんでした」


「うふふ。心配してたんじゃないんですよ。

 あの時は物凄い店の宣伝になりましたし、お客様も一杯来てくれましたからね。

 皆も喜んでくれましたし、私も楽しかったですから。

 お座敷にしますか? 空いてますよ」


「では折角ですから、座敷でお願いします」


「では、こちらへどうぞ」


 すたすたと歩く女将の後ろを付いて行くと、あっと声を上げてマサヒデの方を向く客が何人か。クレールとシズクの飲み比べを見ていた客だろう。


「どうも」


 腰の物を抜いて座る。


「後で来る私の連れは、金髪で、長羽織の男姿の女性です。

 カオルと言う名ですので」


「あら? それって、どこかで・・・」


 女将は首を傾げて少し考え、はっとした顔をマサヒデに向け、


「あっ、もしかして、冒険者ギルドの前で大立ち回りをしたって言う?」


「ははは! そうですよ。さすが、こういう所は話がすぐに伝わりますね」


 くす、と女将が小さく笑って、


「もう町中の人が知ってますよ。

 ギルドの朝稽古にも来てるとお聞きしました。内弟子にしたんですか?」


「ええ」


「これまた、えらい美人さんだって話じゃないですか」


「すぐに分かりますよ」


「うふふ。トミヤス様の周りは、噂通りに女だらけなんですね」


 女将がからかうように言うと、マサヒデも苦笑して、


「それ、よく言われるので、もう慣れましたよ。

 それに、むさい筋肉男と、絵に描いたような貴族の貴公子もいます」


「筋肉男は遠慮しますけど、そんな貴公子様がおられるんですか?」


「ええ。ギルドの代稽古に行くと、もう女性の冒険者がわんさかと」


「まあ、そんなに? 私もお近付きになりたいものです。

 次は連れて来て下さいましね」


「ははは! 軍鶏鍋を出せば、すぐに落ちてしまいますよ。

 この店の事は話してあります。

 今は町のすぐ外に居ますから、そのうち顔を出すでしょう」


「楽しみにしております」


「ふふふ。さて、と・・・そうですね。

 まだ2回目ですから、軍鶏鍋以外で、この店の推しはありますか?

 今日は、女将さんのおすすめの物を頂きます」


「良い物が御座いますよ。こんな雨の日にはぴったりです」


「では、そちらを。連れはすぐに来ますから」


「お酒はどれになさいます?」


 品書きを取ろうとして、マサヒデは苦笑いを浮かべ、


「はは、実は私、まだあまり酒も、酒の味もよく分からなくて・・・

 いやはや、お恥ずかしい事です。

 でも、あの軍鶏鍋と呑んだ酒は、美味しかったですよ」


「あら、そうでしたか。では、私が見繕って宜しゅう御座いますか?

 さっぱりしてて、きっと今日の物と合うはずですよ」


「お任せします」


「お連れ様の分は?」


 む、とマサヒデはほんの少し、考えた。

 自分1人だけ、というのも、あまり周りには良く見られなさそうだ。

 カオルは呑む振りをして、どこかに流すかどうかしてしまうだろうが・・・


「ううむ。良く分かりませんし、同じ物をお願いします」


「では、少々お待ち下さいまし」


 頭を下げて、女将は下がって行った。

 客達の賑やかな声に、小さく雨の音。

 1人で座敷に座っていると、少し寂しいような、楽なような複雑な感じがする。


 小さく窓を開けると、さーと雨の音が大きくなる。

 ぴちゃ、ぴちゃ、と雨樋から滴が水たまりに落ちる音。


「ふ」


 小さく息をつく。

 こういう独りの時間は、ほとんどなくなった。

 マサヒデの周りには、いつも誰かがいる。

 幸せな事だが、たまにはこういう一時も悪くない。

 気を付ければ、この客の中にレイシクランの忍も居るだろうが・・・


「ふふ」


 自嘲気味に少し笑って、茶を飲みながら、小さく開いた窓の外を見ていると、すぐにカオルが上がってきた。


「お待たせ致しました」


「早かったですね」


「いえ」


 少し裾が濡れた長羽織を脱ぎ、上に細い革袋を置いて、カオルが座る。

 革袋の中身はイエヨシ。濡れないよう、ラディが用意してくれたのだろう。


「モトカネは?」


「置いてきました」


「返してもらわなかったんですか?」


「ふふふ。まるで子供を取られるような顔をしておられましたもので」


「ははは! 目に浮かびますね」


「仕方がないと思いまして・・・食べましたら取りに行きます」


「来れば、いつでも見られると言うのに。ふふふ、本当に仕方ないですね」


「全くです。そうそう、ホルニ様が凄い顔でお仕事をしておられましたよ」


「凄い顔で? 何か大きな注文が入ったんですか?」


 くす、とカオルが小さく笑って、


「いえ、先程、私達が訪れた際に目が覚めたようでして。

 早く注文を終わらせて、イマイ様と共に道場へ行きたいらしく」


「ははははは!」


「早く終わらせたいが、急いで手を抜くなど! もどかしい!

 などと大声で怒鳴っておられました。それは怖ろしい形相で」


「ははは!」


「ところで、ご注文はもうお済みに?」


「ええ。先日、軍鶏鍋は食べましたよね。

 ですから、今日は軍鶏鍋以外の、女将さんの推しを頼みました。

 まだここに来るのは2度目ですし、別の物も食べてみたいと」


「推しの一品と言いますと?」


「何なのかは私も知りません。

 酒は私は分かりませんから、合うものを見繕って頂きました」


「先日の軍鶏鍋は、正に絶品でした。期待してしまいますね」


「楽しみです」


 そうこう話していると、さらりと襖が開いた。


「お待たせ致しました」


 2人の前に、丼と小皿の白胡麻が置かれる。

 鶏のささ身と、細く刻んであるのは、長芋だろうか。

 真ん中に大きな梅干し、大葉に昆布。

 見た事のない料理だ。


「初めて見ますね。これは何と言う?」


「鶏だしの梅干し汁です」


「へえ・・・良い香りですね」


「締めにこちらを入れて、さらりとお食べ下さいませ」


 白飯が置かれて、胡麻の小皿を少し指先で押し、


「こちらの胡麻は、お好みでお入れ下さいまし。

 こちらが酒。きりっとして、匂いは控えめです。

 トミヤス様にも、呑みやすいと思いますよ」


「ありがとうございます」


 女将はカオルを見て笑顔になり、


「うふふ。やっぱり、美人さんでしたね」


「そうでしょう?」


「は・・・ありがとうございます」


 カオルが照れて、少し目を逸して俯く。


「カオル様でしたね。剣術の方はどうですか?」


「まだまだです」


 女将が徳利を取って、2人のお猪口に酒を注ぐ。


「あまりお急ぎにならないことですよ。

 折角、トミヤス様の内弟子になれたのです」


「そんな余裕はありません」


 ぴしりと言ったカオルに、女将は柔らかい笑みで、


「ふふ。そういう所をお直し下さいませ。

 ゆっくりと、内弟子の生活をお楽しみながら。

 その方が、きっと早く上達するはずです」


「その方が早く・・・そうでしょうか?」


「私は剣術はさっぱりですけど、きっと、そうです。

 ゴロウさんも、同じような事を言っておられます。

 何事も、急ぐ程に大きく失敗すると」


 ゴロウ。火付盗賊改方、ノブタメ=タニガワの仮の名だ。

 この名を使い、ノブタメは浪人姿で平民に紛れ、直に町を歩いて見回っている。

 この店も、最初はノブタメに連れて来てもらったのだ。


「・・・」


「若い方ほど、お急ぎになって失敗されますから。

 失敗しても、若いから取り返しがきく、などという考えは甘い考えですよ。

 失敗しないように、ゆっくりと。

 勿論、狎れてはいけません。お楽しみも過ぎないよう、程々に」


「ご教授、有り難く」


 カオルが小さく頭を下げると、女将は口に手を当てて笑い、


「ほほほ! お固いこと! でも、そのような姿も素敵ですね。

 きりりとして、良う御座います」


「は・・・」


 マサヒデも笑って、


「女将さん、ありがとうございます。

 見抜かれた通り、カオルさんは、せっかちな所が悪い癖でして」


「ふふふ。年増女の余計な説教です。

 では、冷めないうちにお上がり下さいませ」


「では、頂きます」


「お楽しみ下さいませ」


 箸を取って、細く切られた長芋を口に運ぶ。

 表面に薄いぬるみ。

 噛むと、しゃりしゃりとして、ほんのり鶏だしの味と混じって美味い。

 昆布もきいている。梅干しの匂いでさっぱりとして、後を引かない。

 さっぱりしているのに、鶏だしでしっかり味がある。

 いくらでも食えそうな味だ。


「ううむ、これは美味い! さあ、カオルさんも」


「あ・・・は、頂きます」


 少しぼーっとした顔のカオルが箸を運ぶと、はっと顔がほころんだ。


「美味しい・・・」


「さすが、おすすめの一品というだけはありますね。

 梅干しで引き締まっていて、後を引きません。

 しかし、さっぱりしているだけではありませんね」


「ええ。いくらでも食えそうです。

 これは料理の勉強になります。

 鶏だし、昆布・・・簡単なものだけなのに、ここまでとは」


「ふふ。皆には悪いですね」


 にやっとマサヒデは笑って、鶏肉をつまみ、ふうふうと吹いて口に放り込んだ。

 この汁に白飯を放り込んだら、どれだけ美味いだろう。

 想像しながら、くいっと酒を口に入れてみる。


「む?」


「ご主人様? どうされました?」


「この酒、三浦酒天の酒と似てますね。

 あまり酒臭くないというか。何と言うんでしょうか」


 くい、とカオルも口に少し入れ、


「こういうさっぱりした酒を、辛口と言うのです。

 先日の軍鶏鍋に出てきたような、ああいう酒が甘口、と。

 大まかなものですが、そう覚えておけば」


「ふむ。勉強になります」


「ご主人様も、これから呑む機会が増えましょう。

 多少は、酒に慣らしておかれるのも良いかと」


「慣れたくはないですが、必要でしょうね。

 どこまでは身体をいつも通り動かせるかも、知っておかねば」


「その程度で良いかと。先々、パーティーなどに呼ばれる事が御座いましても、正直に酒は分からないと先に言うのも、別に恥ではないと思います。知った振りをするのが、最も恥ずかしい事かと。ふふ、クレール様の時のように」


 くすくすとカオルが笑う。


「う。やめて下さいよ・・・あの時は、執事さんに助けられました」


「ふふふ。私もあの時は、レイシクランの方々に、ばっちりと見抜かれて囲まれておりましたから」


「ははは! そう言えばそうでしたね! 馬車の中に結び文が置かれていたものだから、私達、何かあったかと、ぴりっとしちゃいましたよ・・・」


 談笑しながら、2人の箸がどんどん進む。

 ここの飯も、実に美味い。また、皆で来たいものだ。

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