十一、瞳の奥

「ミア」


 夕闇の隙間を縫うように覗いた二つのラベンダーが、ミアを射抜く。

 数日ぶりに聞いたナハトの声が、耳にじんと熱を灯した。


「……起きるのが遅いよ」

「回路がズタズタになっていたんだぞ。無茶を言うな」

「じゃあ、どうして、」


 ナハトの言う通り、彼の魔力回路は焼き切れる寸前まで疲弊していた。

 ミアが頭を捻っていると、得意げな顔を浮かべたホロが、ナハトの胸部にそっと掌を重ねる。


「うんうん。流石、人型を得ただけのことはあるね。世界樹の魔力を取り込んだことで、回路を修復できたみたいだ」

「さっきの爆発ってまさか」

「細分化するために爆発してから、吸着させたんだよ。これなら彼にも探索を手伝ってもらえるでしょ。ま、応急処置に近い感じだから、長時間の稼働は難しいかもしれないけど」


 何のことはないと言ってのけたホロだったが、成功しなかった場合、爆発したエルヴィの魔力が辺りに霧散していたことになる。

 そうなれば、魔力同士が反発し、最悪この辺り一面が吹き飛んでいた可能性もあった。


「そういうことは先に言ってください!」


 普段は叱られる側に立つことの多いミアと、彼の監督官であるアンナの声が綺麗に重なる。

 二人の剣幕に、漸く事態を理解し始めた隊員たちの顔から血の気が引いていく。


「はあ……。アンナ」

「分かってる。――シシハヤテ、ライコウ」


 アンナの声に、彼女の両隣に精霊が姿を見せた。

 獅子の仮面を身に付けた精霊が二体。ホロの腕を片方ずつ捕える。


「次に何かしたら、分かってますよね?」


 低いアルトが、ホロの耳朶を打った。

 こくこく、と激しく頷いた彼の姿に、ナハトとミアの視線が絡まる。

 次いで、誰からともなく笑みが溢れた。


 暑過ぎるくらいのはずの空気が、今は少しだけ心地良い。

 肌の上を撫でていった生温い風に、ミアはゆっくりと瞬きを繰り返すのであった。


◇ ◇ ◇


 聖騎士団本部が居を構える街、クラルテ。

 中央の国の王都セイントレーシアから程近いその場所は、世界樹を一望できる小高い丘陵に位置していた。


 丘を縫うようにゴンドラが走り、その下を子どもたちが駆けていく。

 きゃらきゃら、と燥ぐ子どもの声に、桔梗は巡回中であることも忘れて口元を綻ばせた。


 聖騎士団のお膝元ということもあって、犯罪被害は少ないが、旅人同士の揉め事や各支部で捕らえた犯罪者の収容など、忙しさは他の街にも見劣りしない。


 特務少佐という肩書きを得た今でも桔梗が巡回に加わっているのは、気力を削がれた隊士の激励と補佐も兼ねてのことだが、ここ最近目立った事件は発生していなかった。


 夕方になると、クラルテの街にはアメリアとホロが共同で開発した魔水晶の街灯が光を宿す。

 結界魔導石よりも安価だが、術式を組むように街灯を配置することで魔物避けの効果が期待できると、現在クラルテで稼働実験中の優れものだ。

 街の住人からの評価も上々で、欲を言えば「色を統一してほしい」とのことだったが、成程これは確かに、と桔梗も目を窄めた。


 恐らく色の調合で喧嘩でもしたのだろう。


 緑や赤がホロ、紫に白、橙色などはアメリア、と一目見てそれぞれが担当したであろう色の街灯を見て、苦笑を溢す。


 ふと、見上げた薄紫の夜空の端で、何かが弾けた。


「……何かしら」


 腰の刀に手を伸ばしかけた桔梗の頭の中に、声が響く。


『我が出る。お前は住人を避難させよ』


 単調に告げられた言葉の意味に桔梗が異を唱えるより早く『それ』は落ちてきた。


――ドォオオンッ!!


 隕石が落ちてきたかのような衝撃音が街中に轟いた。


「桔梗より本部へ。クラルテ街道沿いに謎の飛来物あり! 至急避難誘導の応援を求む! 繰り返す! 避難誘導の応援を求む!」


 司令部からの応答も待たずに、桔梗は走り出していた。

 落下があったのは、少し先のブロック――住宅が密集している地域である。


「――旭日様!」


 右腕から消えた旭日の気配を追って、落下現場を特定する。

 辿り着いた先で桔梗を出迎えたのは、桜色の巨大な龍であった。


『下がっていろ、桔梗。これはお前の手に負えるものではない』


 低く地を這うような旭日の声が、桔梗をその場に縫い付ける。


『二度は言わぬ。そこから動くな』


 本気で怒っているときのそれだ。

 桔梗は恐怖のあまり刀の柄を握ったまま動けなくなってしまった。


 背中に桔梗の気配を感じ取りながら、旭日は小さく息を漏らした。


 建物の損傷は著しいが、幸い住人に被害はなかったようだ。

 かつて、世界を敵に回していた自分が、今や人間の安否を気にするようになるとは、と自嘲気味に口角を持ち上げる。


『何が可笑しい』


 鼓膜を撫でた懐かしい声に、一つしかない眼をゆっくりと向ける。

 そこに立つは、旭日と刃を交えて互角に戦ってみせた唯一の相手。


――桜火の一族当主、桜千さちが翼を大きく広げて、人型の旭日を見下ろしていた。


『少し昔を思い出していただけだ』


 そう言うと旭日は右手を軽く振った。

 白い光と共に旭日の愛刀――不知火が音もなく姿を見せる。


『我の領域に土足で踏み入るとは、相応の理由があるのだろうな』

『用があるのは貴方ではない。邪魔をすると言うのであれば、こちらも容赦はせん』


 低い唸り声を上げたかと思うと、桜千の身体が煙に巻かれた。

 辺り一面を覆った真っ白なそれに、桔梗が目を凝らしていると脳内で華月の声が響く。


『……桜花を呼んできてください』

「桜花、ですか?」

『なるべく早く。この場は妾たちが預かります』

「分かりました!」


 桔梗は華月の言葉に一も二もなく駆け出した。

 小さくなっていく依り代の後ろ姿を横目に、旭日が牙を剥き出して笑みを深めた。


『珍しいなァ、華月。お前がアレを遠ざけるとは』

『妾とて、桔梗に聞かせたくない話の一つや二つありますよ』

『桜火のこととなれば、昔からお前はすぐ熱くなる』

『……なればこそ、その刃を収めて欲しいものです』


 二人とも、と華月が肩を竦ませる。


この男かたきを前にして、それはあまりにも非情が過ぎるのでは?』


 煙を振り払うように太刀が空を切る。

 その向こうに現れたのは、桜髪が目立つ長身の女性だった。


『分かっています。だから、妾がここに残ったのです』


 桜千の手の中で緋色に染まった刃が、妖しい光を放つ。

 かつてとは違う色合いのそれに、旭日の目が猫のように細められる。


『……妹たちの鱗を刀身に使ったのか』


 悪趣味な、と旭日が顔を顰めると、桜千の表情も苦痛に染まった。


『ああ、そうだ。これは貴方が殺した二人の妹の鱗だとも』


 刀の柄に握る手に力が籠る。

 ぐっと奥歯を噛み締めた音が、耳のすぐ裏で響いた。


『行くぞ!』


 叫ぶと同時に桜千は地を蹴った。

 ゴッ、と鈍い音の後に地面が抉られたかと思うと、拳一つ分の距離まで肉薄される。

 

 久しく感じたことのない肌を刺すような冷たい殺気に、知れず心が湧き立った。


『――《火輪ひのわ》!』


 飛び退けば、後ろにいる華月に攻撃が当たりかねない。

 瞬時にそう判断すると、旭日は己が眷属の名を紡いだ。


 不知火が橙色の炎を纏う。


 陽炎が二人の間を割いたかと思うと、不自然に揺れた熱気が形を帯びた。

 御簾面を付けた青年が、鋭い蹴りを放つ。


 あとは刀を振り下ろすだけ、と言わんばかりの体勢になっていた桜千が、それを避けられるはずもなく。

 火輪の蹴りは見事に彼女を捉え、長身の身体を軽々と吹き飛ばしてしまった。


『我が君、お怪我は?』

『ない。よくやった』


 自身の足元に跪いた火輪の頭を乱雑に撫でてやると、旭日は不知火を振るった。

 民家の壁へとめり込んだ桜千の身体に、不知火を巻き付ける。

 軽く力を込めただけで、白い肌に赤が滲んだ。

 喉奥から愉悦の笑いが溢れるのを抑えられない。


『くくっ! 威勢だけは、昔から変わらんなァ! どうした! 以前より、手応えがないぞ!』


 楽しそうな番の姿に、華月は頭を抱えた。

 旭日のこんな姿、とてもではないが桔梗には見せられない。


 ふう、と紅顔から漏らされたため息に、旭日が耳聡く気が付く。


『お前も混ざるか?』


 翡翠の眼が爛々と物騒な輝きを放っている。


『……混ざりません。いい加減、解放してあげてください。彼女、怪我をしているんですよ?』


 うっかり可愛いと思ってしまったのを悟られたくなくて、華月は明後日の方向に視線を遣りながら、旭日に苦言を呈した。

 その言葉に、旭日が不知火を軽く持ち上げる。


 火輪が放ったのは虚仮脅しのような軽い蹴りだ。

 それを避けられなかった時点でどこか妙だとは思っていたが、成程。手負であったらしい。

 鼻を衝く鉄錆に似た独特の匂いに、旭日の眉間に深い皺が刻まれる。


『手負で我を挑発するとは、相変わらず無謀な女だ』


 ふん、と鼻を鳴らしたかと思うと、旭日は桜千の身体を華月に放り投げた。


『旭日!』


 唇を尖らせた華月が、慌てて桜千の身体を抱き留める。

 旭日が付けた傷だけの所為ではない。

 咽せ返るような血の臭いに、今度は華月の眉間に皺が刻まれる番だった。


『酷い。誰が、こんな……』

『姉様!』


 華月の言葉を遮るように、凛とした声が響いた。

 桜千と同じ桜色の髪を振り乱した桜花が、呼吸も整える間も惜しいと言わんばかりの勢いで華月へ近付く。


『…………おう、か?』

『はい』

『すっかり、見違えたな』

『姉様、私、』

『良い。元気なら、それで』


 桜千の腕が、自身を覗き込んで微動だにしない妹の頬に伸ばされる。

 桜花は奥歯をきつく食いしばった。

 それでも、はらはらと零れ落ちる涙を止めることは出来ず、顎を伝った雫が桜千の手を濡らす。


 そんな彼女たちを旭日は黙って見つめていた。

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