8.恋の魔法(前)―――セアル

 『影津波』が来てから数日。春焦がれの街、アトーンドは普段の姿を取り戻していた。魔獣から色々と資源が採れたので、寧ろ活気づいているぐらいだろうか。

 そんな中セアルは、どういうわけかアネスに呼び出され、警務隊の本部に向かっているところであった。

 露店や屋台が立ち並び、客引きの声が響く王の道を正門方向に歩き、正門のすぐ傍にある堅牢な建物に向かう。

 練兵場の横を通り過ぎ、入り口で暇そうにしている受付係らしき隊員に声をかけた。


「セアル・ペイルーズだ。アネス・ナイアートに呼び出されたのだが、聞いているか?」

「はっ、はい。聞いております。呼んで参りますので、こちらでお待ちください」


 案内された応接室は、壁に絵画がかけられ掃除も行き届いた、綺麗な部屋だった。セアルが貴族であるから、ここに案内されたのであろう。庶民が案内される待合室は、本当に待つためだけの薄暗い部屋だと聞いたことがある。

 しばらく窓の外を眺めていると、扉の向こうから聞き慣れた足音が聞こえてきた。

 扉が開くと同時に声をかける。


「遅い」

「……悪かった」


 数日振りに会ったアネスは、見るからにげっそりしていた。先日の『影津波』の事後処理に追われ、剣を振れない日が続いたのだろう。

 向かいの椅子にどかりと座り込み、長々と息を吐く。相も変わらず書類仕事は嫌で嫌で仕方がないらしかった。


「悪いな、いきなり呼び出して。お前も色々と忙しいだろうに」

「そうでもない。部下もいるし、領主が仕事はしっかりしてくれているから、俺が片付けるのは細々とした雑事と、急を要するものだけでいい」

「……今日の仕事は終わらせたんだな?」

「『仕事が終わったらでいいから来い』と言って俺を呼び出したのはお前だろう」

「よし。今は暇なんだな?」

「やけに念を押すな。……まあ、暇ではあるが」

「実は、頼みたいことがあってな」


 アネスは脇に抱えていた木箱の蓋を開け、中を見せてくる。そこに詰まっていたのは、売り物にはならないが十分に用途はありそうな、小さい魔結石だった。


「これがどうした?」

「これは先日の『影津波』で採取したもので、ラウラ殿への報酬なんだ」

「ラウラへの?」


 普通、『影津波』の鎮圧に協力した魔術師や冒険者、狩人たちには別途報酬が支払われる。冒険者や狩人であれば組合ギルドから金銭を。在野の魔術師であれば、行政府からいくらかの協力金が支払われるはずだ。


「ラウラ殿は魔術師として協力いただいたから、本来ならば行政府から協力金を受け取って話は済むはずだったんだが……」

「ラウラの功績が大き過ぎた、か」

「それに、行政府が協力金を渡そうとしたら断られたらしい」

「あのラウラが断ったのか?」


 ラウラは親切ではあるが、現実的でもある。貰えるものなら貰う、と言うだろうに、断ったとは。


「『協力金を貰うぐらいなら、クズ魔結石を貰った方がありがたい』と……」

「ああ……そういうことか……」


 行政府から支払われる協力金は、功績に関わらず一定だ。それならば確かに魔結石を貰う方がよほど嬉しいし、その功に相応しいだろう。


「断られたからと言って何も渡さないわけにはいかない。それに本人がクズ魔結石でいいと言っているならそれでいいじゃないかということになり、ラウラ殿と親交があるこちらに話が回って来たんだ」

「物は用意出来たんだろう。なら届けに行けばいい」


 アネスは、うっかり苦い野菜を口いっぱいに頬張ってしまったかのような顔をした。


「正確な位置を知らん」

「何度か行ったことがあるんだろう?」

「あるにはあるが……毛長馬を駆ることで精いっぱいで、とても方角など気にしている余裕がなくてだな」

「……今までどうやって送り届けていたんだ?」

「ラウラ殿に方向を修正してもらいつつだな。帰り道は、走って来た跡を辿ればいい」


 ここまでタネが揃えば、頼み事の内容も流石に見えてくる。


「つまり、俺に届けろと」

「暇なんだろう? ラウラ殿が薬を届けに来るまでには、まだ数日ある。隊員たちも、街でラウラ殿の姿は見かけていないと言っていたしな」

「……探す努力をしろ………」

「いいだろう、別に。会いに行く口実を提供したんだから、感謝してほしいぐらいだぞ」


 立ち上がり、アネスの顔を鷲掴みにした。


「余計なお世話だ」

「いだだだっいいだだだだだだだだだ」


 頭蓋骨に圧力を加えてお仕置きしておく。気が済んだので顔から手を放して、机の上の箱を小脇に抱えた。


「……これをラウラに渡せばいいんだな?」

「ああ。すまないな、セアル」

「……別に、これぐらいなら問題ない」

「はは、お人好しだなお前は」

「……うるさい」


 その自覚はあるので、あまり強くは言い返せない。だが、そうした評価のお陰でラウラのところへ行く口実ができたと思えば安いもの。

 アネスに軽く手を振って辞去の意を告げ、警務隊の本部から出た。


(さて……どう行くか……)


 ラウラたちの住まう廃教会はアトーンドよりも『影の森』に近い位置にあるが、街からは歩いて行き来できるほどの距離。裏門から出た方が近いものの、そこまで向かう手間を考えるとどちらの門から出ても歩く距離はそう変わりないだろう。


(本部から近いし、正門方向から行くか)


 警務隊本部のすぐそばにある正門を通り抜け、さらに外側、外壁に設けられた外正門を通ってアトーンドの外に出る。

 ラウラには『影津波』以降会っていないから、会うのは実に数日振りということになる。


(俺が報酬クズ魔結石を持ってきたら、ラウラはどんな顔をするんだろうか)


 普段通り? 喜ぶ? それとも、驚く? 会いに行くのが今から楽しみだった。

 時折方角を確認しながら、柔らかに積もった新雪を踏みしめ歩く。いくら雪と言えど、半年も降り続ければ下の方はほとんど氷の板のよう。固く締まったそれで足を滑らさないように気を配るのを忘れてはならない。

 転びでもすれば、たちまち体温が奪われてしまうから。

 何より寒さに震えた状態でラウラの元を訪れれば、無用な心配をかけてしまうから。


(……俺も、変わったものだ)


 ラウラと会う前のセアルは、心のどこかで世界に絶望していた。己の未来は決められていて、心すらも自由にならないこの世界に。

 変わったのは、ラウラと出会って、話すようになって、その優しさに惹かれてから。

 一度惹かれてしまえば、後はもう落ちていくだけ。

 後戻りのできない坂道を滑り落ちていくのにしたがって、色褪せていた世界は再び色を取り戻し、前よりもっと、美しく見えた。


(恋の魔法、とはよく言ったものだ)


 酷く甘美で、圧倒的な快感と焦がれるような熱をもたらすそれに溺れたいから、浸りたいから、ラウラの作る媚薬はよく売れるんだと知った。

 いつかの自分を捕らえていたそれよりも、よっぽど強固に絡みつく鎖。それに絡め取られることさえ心地いいなんて、思いもしなかった。

 彼女のためならば、どんな苦労も気にならなくなった。どんな苦しみも、些細なことに思えた。

 人の心をここまで狂わせてしまうそれを、魔法と言わずになんというのだろう。他に表す言葉を、セアルは知らない。


 火照った頬に雪が当たる。

 白い花のように降る雪を見上げれば、そこに広がる雪雲。春の乙女が舞う舞に吹き散らされれば、次の冬まで戻らない。


(春祭りまで、後二ヶ月ほどか……)


 予約にはまだ少し早いけれど、少しぐらいの抜け駆けは許されるだろう。

 近付いてきた廃教会に、セアルを救った小柄な魔法使いを想って。

 セアルは強く、雪を踏みしめた。

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